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桜の下で

昭和18年のことだった。


桜が満開の千鳥ヶ淵を男女の恋人たちが歩いていた。

皇居のまわりだ。多くの憲兵詰所があった。普通なら止められるところだ。

しかし、この男女には全員が敬礼をした。

男は第2種軍装の白い詰め襟にサーベルをさげていた。女は麻の和装に日傘をさしていた。

憲兵に会うたびに男も敬礼をし、女は頭をさげて挨拶をした。


男は海軍中佐だった。異例の若さでの抜擢だった。もちろん帝國大学を出て予科練の出身だ。

彼の実家は裕福だった。歴代、国の庇護のもと有利な貿易業を営んでいた。父の代は父の兄が引き継いでいる。「お国のために尽くせ」が家訓だった。そして太平洋戦争がはじまった。彼は迷わず志願して海軍に入り予科練への狭き門を通った。父は階級が高ければ高いほど最前線に行くことも少なかろうと裏で画策した。そのおかげか、異例のスピードで中佐になった。

母の心境は微妙だった。表向きは、彼の出陣や昇格を祝わなければならない。しかし、本心ではやめてほしかった。仮病でも何でも使って、兵役免除させたかった。


その家には家政婦さんがいた。そして彼女には女の子がいた。ちょうど年頃の気立てのいい娘だった。彼女は彼に惹かれていたし、彼も彼女を意識していた。

とある舞踏会の日、お相手に予定していた良家の娘が高熱で倒れた。代わりにとその家政婦の娘がいくことになった。衣装は母の古いドレスを借りた。アンティークな感じで彼女に似合っていた。その間、彼と彼女はいろいろな話をした。そしてふたりは恋に落ちた。

厳格な父はただの遊びだと黙認し、リベラルな母は身分の差など考えずふたりの交際を応援した。

彼が志願して兵舎暮らしになってからは、週に2回、きっちり手紙が届いた。彼女は誰にも知られないように郵便が来る頃には玄関口で待つようになった。もちろん彼女も毎日手紙を書いた。しかし検閲されるので、自由なことは書けなかった。

そんななかで今日の待ち合わせを決めた。

まだ日本に国力があった頃だ。彼女は「女友達と銀座で買い物をする」と言って出かけ、彼は代々木練兵所の帰りだった。


「桜がきれいね。」

「暖かくて絶好の花見日和りだな。」

「でもここじゃあ陛下に近すぎてお酒も飲めないわね。」

「そうだな、戦争に勝って陛下をお守りすることが私の仕事だ。」

「国民を守ることもでしょ。」

「もちろんだ。非戦闘員を救うためなら私の命など・・・」

「戦闘員が死んで悲しむ非戦闘員のことも考えてね。」

「大丈夫、死にはしないさ。死にはしないよ。必ず戻ってくる。」

「何言っているの。あなたって大本営の内勤じゃない。」

「大本営だって戦地に行くんだよ。詳しくは言えないが。」


彼の所属は大本営の作戦課だ。彼らが決めた作戦どおりに事を進めるのが現地部隊の仕事だ。しかし、最近、作戦どおりの成果が出なくなってきた。現地からの報告書はきれい事ばかりで、真の敗因がさっぱりわからない。作戦課としても危機感を持って、若手を現地に派遣することになった。そして白羽の矢がたったのが彼だった。彼も嘘を嘘で固めたような報告書にはうんざりしていたので、喜んで志願した。


「ともかく戦地に行くことが決まったんだ。」

「えっ、戦地ってどこなの。安全なところでしょ。」

「詳しくは言えないが、南の最前線。」

「そんな。新聞には勝った勝ったって書いてあるけど、嘘なんでしょ。あなたが行くくらいだもの。」

「変なこと言うなよ、周りは憲兵だらけだぞ。」

「ともかく、しばしの別れだ。」

「それで千鳥ヶ淵の桜の下って、覚悟はできているってことじゃないの。」

彼女は涙をこらえることができなかった。

「おいおい、笑顔で見送って欲しかったな。」

「そうね、そうよね。武運長久をお祈りしております。」と深々と彼に頭をさげた。

彼は敬礼で応えた。

兵舎住まいの彼は実家には戻れない。明日正午の貨物船で横須賀港から沖の巡洋艦に乗り移ることを伝えた。これで家人も見送りに来れるだろう。


「久々の銀座はどうだったの?」と家政婦の母が訪ねた。彼女は母に泣き崩れた。彼女は今日起こった一切合切を話した。慌てて家政婦はご主人夫婦に報告した。

「あの子ったら、何で私に黙って行く気なのかしら。」母は少し怒っていた。

「しかし作戦課が現地に行くとはただごとではないな。」父は冷静だった。

「ともかく連絡してくれたんだからいいじゃないか。横須賀なら近いし。」

「何を差し入れに持っていきましょう。」

「余計なものは持ち込めないさ。」

「じゃあ、その場で食べれるものとか。そうね、おはぎがいいわ。」

という訳で、母、家政婦、彼女の女性3人組はおはぎ作りに忙殺された。

母はそうでもしなければ、泣き崩れていただろう。

帝國大学教授の父は、作戦課の息子が戦地、それもおそらく最前線にいく意味を考えていた。

「作戦課でも戦地視察はある。でもこれはいわゆる観光旅行のようなもので、味方の制空権、制海権の中を見て回るだけだ。それにもっと年寄りの慰安の色合いが強い。」

「息子は階級は高いがまだ随分若い。本気で視察するのだろう。戦地が作戦のとおりに戦果をあげていれば視察の必要などない。ということは、作戦どおりに戦果があがっていないところに行くのだろう。南方といっていた。スマトラかパプアニューギニアその周辺の要所か。」

父の予想は当たっていた。


一夜があけた。母は朝から髪結いと着付けに忙しかった。家政婦はそれを手伝った。娘は、うまくすれば手渡しできる手紙をしたためた。父は相変わらず冷静だった。

時間が来たので横須賀への汽車に乗った。山のように作ったおはぎが重かった。


横須賀港に着くと、目当ての貨物船はすぐにわかった。船のタラップ付近でみんな別れを惜しんでいた。その人混みの中に彼がいた。彼女は彼をみつけると一目散に駆け寄って抱きついた。昨日徹夜で書いた手紙も渡した。

母は言葉少なにおはぎを勧めた。なにかしゃべると泣き崩れるのがわかっていた。家政婦は新婦の母の心境だった。無事に帰ってくることを祈った。

父は「お国のために尽くせ」と家訓を繰り返した。「しかし、自分の命をかけてまで、とは言っていない。」「お前は国に尽くしたと言えるほどの働きをまだまだしていない。」「生きて帰ってきて、もっと大きなご恩返しをするんだ。わかったな。」

いよいよ出港の時間になった。

「では、父上、お達者で家人をお守りください。母上、おはぎ美味しかったです。お体に気をつけて無理をなさらぬように。多恵さん(家政婦)、父と母をよろしくお願いします。

そして由紀さん、風邪など引かぬように。手紙ありがとう。南方からも手紙を書きます。しかし、万が一の時には私のことなど忘れて新しい人生を送ってください。」

「なんてことを言うの」と由紀は泣き崩れた。母と多恵は由紀を支えるので精一杯だった。

父は「そこまでの覚悟ができているとは、よほど危険な方面に行くのだろう」と推察した。

彼の滞在の期間は3ヶ月の予定だった。


いよいよ貨物船が岸壁を離れた。この時のことを家族みんなが忘れようにも忘れられなくなる。


彼は洋上で巡洋艦に乗り換えた。海軍軍人としてはやっと我が家に戻った気がした。とは言っても、彼も船上は予科練での洋上訓練以来だった。

沖縄を過ぎるまでは快適な船旅だった。船長も「自由にしていてください」と配慮してくれた。


それがフィリピンが近づく頃から様子が変わった。門外漢の自分にもピリピリした緊張感が伝わってきた。敵機を探す空中敵策員も倍に増えた。魚雷を探す海中敵索員も配備された。

しかし彼には不思議だった。大本営の認識ではこの領域は完全に日本の制海権のはずだ。

「なぜ、こんな対戦体制をとる必要があるのですか。」

「最近、この海域で貨物船が沈没したんです。生存者の話では魚雷のようです。」

「魚雷って言っても魚雷艇ではないでしょう。空からなら飛行機を見ているはずだし・・・」

「おそらく潜水艦だと思います。敵索艇がこの海域で潜水艦のソナー音を聞いています。」

「もうこの海域に潜水艦が出没するとは。」

「本当の戦争って、机の上のゲームのようにはいかないものですよ。」と皮肉を言われた。

「そういう私たちもね、潜水艦を使います。もう少し南下した洋上でお客さんたちは潜水艦に乗り移ってもらいます。」

「そんな話聞いていませんが。」

「そのくらい潜水艦の航路は秘密にしないとね。」

「ともかく今回のお客さんは偉い人が多いので特別待遇ですよ。」


夕方になって、潜水艦との合流地点に到着した。夕日をバックに浮上した潜水艦の艦橋が見えた。

我々はボート2艇で移動することになった。ボートが海にこぎ出した時、どこからともなく聞き慣れない音がした。やがてそれは航空機の音だとわかった。と同時にF4ヘルキャットが機銃掃射してきた。

1艇のボートが被弾して、1艇のボートは難を免れた。被弾したボートは血の海だった。生存者はいないようだった。一方のボートは全くの無傷で潜水艦に辿り着いた。

彼は無事に潜水艦に乗り移ることが出来た。しかし震えが止まらなかった。

それを見た中尉がこう言った。

「私はこう考えています。人の寿命って決まっているんですよ。その人の寿命がたまたま自分の目の前で尽きただけなんです。人の死にいちいち動じていては戦争はできませんから。」

「確かにそうだね。自分が目撃者になっただけだ。しかし、自分があのボートに乗っていたら。」

「おっと「たらねば」は戦地では御法度です。それこそ亡くなった連中に失礼です。生き延びた我々は彼らの分まで生きて戦わなければならんのです。」

私は自分の不甲斐なさと、彼の度胸のすわった言動に驚いた。なにが中佐だと自分を責めた。


潜水艦では狭いながらも居場所を用意してくれていた。先ほどの中尉は副艦長だった。

「私が行くブーゲンビルまでの行程は潜水艦を必要とするくらい危険なのかね。」

「どう言えばいいか。危険と言えば随分危険です。安全と言えば多少は安全です。」

「要するに危険なんだね。だから潜水艦も出してくれた。」

「我々が立ち寄ったのは偶然なんです。ちょうどあの巡洋艦が我々の哨戒航路の真上だったのと、出会うのが日没頃だったのと、中将と中佐がお乗りだったからです。残念ながら中将はお亡くなりになられましたが。」

「その分まで戦え、ってことだね。」

「はい、私はそう思います。これからもそう思って戦っていくつもりです。」

「若いのに随分と肝が据わっているね。」

「私の父も軍人なんです。小さい頃のチャンバラでも「最後のひとりになっても全力で闘え」ってよく言われました。「友軍はおまえを生かすために犠牲になったんだぞ」ってね。」

「私の父は学者でね。大した教えはないが「お国のために尽くせ」とは小さい時からよく言われたなあ。あとは「動く前によく考えろ」、父は頭でっかちだから。」

「でも戦争のように精神が高揚する場で、冷静に物事を考えることはとても大事なことだと思います。」

「高揚すると人間は正確な判断力を失う。戦地での高揚は危険だね。そういえばまだ名前も聞いていなかったが。」

「失礼しました。古木中尉であります。今にも倒れそうな名前であります。」

「私は新田。若いくせに一応中佐を拝命している。新しい田んぼだから何の作物もとれないよ。」

ふたりは階級の差をこえて心底笑った。


潜水艦は乗船以来シュノーケリングで浅深度を航行している。

彼は聞いてみた。

「制海権内とは言え潜水する必要はないのですか。」

「いつもいつも潜水航行をしていてはバッテリーがもちませんよ。それに差し迫った危険はないし。」

「でもさっきの敵機は。」

「あんなの1機だけでしょ。陸から増槽タンク背負ってはるばる哨戒していただけです。通常のグラマンの航続距離ではここまで来れないので本隊が攻めてくることはあり得ません。ボート1艇が犠牲になったことには心が痛みますが。」

「なるほど。」

彼には「なるほど。」というのが精一杯だった。敵機の襲来、機銃掃射、友軍の死、潜水艦の航行方法、どれも海軍中佐なら経験していて当然のことだ。

自分は今まで図面台の上で地図や海図に線を引いていた。その通りに部隊が進むことを信じて。

しかし、その現実を自分は全く知らなかった。彼は自分の襟章を恥じた。

と同時に「このひとつひとつの経験が自分の使命のひとつなのだ」と自分を鼓舞した。


狭い寝床でウトウトしていた午前3時頃、船内が慌ただしくなった。シュノーケリングから潜行するようだ。古木副艦長に聞いた。

「これから危険な領域に入るのでね。」

「だって夜中の3時だよ。何も見えないじゃないか。」

「大本営の方に向かって、誠に言いにくいのですが・・・」

「改まって、何だい。」

「我が軍の暗号が傍受解読されている節があるのです。」

「この鑑の進路も、かね。」

「この海峡を通るほとんどの船の情報を事前に把握していると思います。

「そんな馬鹿な。」

「もうすぐわかりますよ。」

言い終わらないうちに、敵の爆雷攻撃が始まった。この鑑を狙い撃ちしたように正確だった。

艦は最大深度まで潜行した。

一瞬敵の爆雷音が小さくなったが、すぐに艦体を大きく揺らすほどに爆雷が近づいた。爆雷の爆発深度の設定を変えたのだ。

潜水艦からはダミーの木片と布を海面に向けて放出した。爆雷が命中したように

見せかけるためだ。今やおまじない程度の効果しか期待出来ないが。

「浮上してこちらから敵の爆雷艇を攻撃出来ないのかい。」

「はっはっは。浮上して敵の爆雷艇の側方に付くには何が必要だと思いますか?」

「レーダー、もとい電探だろう。」

「そう、水中でも使えるレーダーです。本艦のレーダーをお見せしますよ。」

そう言って古木副艦長は狭いレーダー室に彼を連れて行った。

レーダーの画面を見て彼は驚いた。ただの縦縞が見えるだけだった。

日米が友好関係にあった5年前に、彼は米軍の施設や装備を見る機会があった。艦船や航空機にはさして劣等感は感じなかったが、電子装置の進歩には驚かされた。その中でもレーダーには大いに興味を持った。正確に航空機の編隊や艦艇の様子を示していた。

「よくこれで敵艦の動きを読めるものだね。」

「長年の経験と勘であります。」電探員は緊張しながら応えた。

「この縦縞に命をかけて浮上する勇気がありますか。」と古木中尉。

「わかったよ。ともかく深深度で難を逃れるしかないんだね。」


敵の爆雷艇にも弾切れはある。爆雷を打つだけ打って敵は帰っていった。

それを確認して潜水艦は浮上した。上空に敵機もいなかった。

よくある作戦は爆雷艇の本隊を引き上げさせて、敵の潜水艦が浮上してきたところを、航空機の爆弾で仕留めることだ。今回は陸からの距離が遠かったので増槽タンクを積むと爆弾が積めなくなるので助かった。


ブーゲンビルまでの最大の難関を通ったので、潜水艦はシュノーケリングでのんびりと航行した。この付近は日本が制空権も制海権も持っている。


「聞きたいことがあるんだが。」と新田中佐。

「何でしょう。」と古木中尉。

「なぜ制海権の中の艦船が敵に沈められるんだい。」

「これはまた尋常小学校並の質問ですね。」

「おい、ちゃかすなよ。」

「制海権なんて言う線はあなたたちが決めたもんでしょ。実際には入り組んでいて、最前線ではどっちの制海権かわからないものです。」

「それだけ最前線に来たってことか。」

「そのとおりです。」


新田中佐の任務には、最前線の実態を調査して、作戦課が把握している状態との差を明確にすることも含まれる。だから電信は重要だ。1日に1回の連絡が課せられている。さっそく、最初の電信を打った。


・無事、巡洋艦、潜水艦に乗ったこと。

・F4が増槽タンクを使用して航続距離を伸ばしていること。

・その際、中将が機銃掃射の犠牲になったこと。

・敵の正確な電探により爆雷攻撃をうけたこと。

・我々の電探は使い物にならないこと。

・制海権内といえども油断ができないこと。

・暗号が傍受解読されている可能性が高いこと。


「小学生の作文だな」傍受していた米兵が笑った。


いよいよブーゲンビルに潜水艦は着岸した。ここも安全ではない。新田中佐は古木中尉と簡単な挨拶をして別れた。古木中尉は荷物の積み卸しの指示に忙しかった。

新田中佐はこの軍港の司令官に挨拶に行った。この大佐は無口で怖い印象を持った。

「内地から来たんだって、潜水艦使って。いい身分だな。こっちとら、いつ敵が攻めてくるかヒヤヒヤしているって言うのに。」

「そんなに敵はすぐそこまで来ているのですか。」

「なんなら散歩がてら見てくるかい。」

いよいよ最前線に来たのだ。彼は気を引き締めた。



その頃、東京の実家では、まだ戦争は他人事だった。

確かに市場に出回る物資は減ったものの、多恵さんの実家が近郊で農家をしていることもあって食事には困らなかった。

当時のメディアは新聞とラジオだけだったので、誰もが「日本は勝つ」と思って信じていた。

しかし、彼の父のような有識者の一部は気付いていた。

「日本が沈没させたと新聞やラジオが報じてる米国の軍艦の数が多すぎる。」

「メディアはこぞって嘘をついている。」

「いや、嘘の記事を書かされている。」

「誰に。」

「大本営だろう。」

「ひとつの嘘は多くの嘘を生む。」

「この戦争は負け戦になるのではないか。」

「息子よ。任務も大事だろうが、早く内地に帰ってこい。」


さらに父は、

「万が一の場合は、おそらく帝都が戦場になる。家族のために疎開地を用意する必要がある。」

そういってさっそく軽井沢に別荘を買った。多恵さんの親戚夫婦に留守を守ってもらった。

父は家人に「帝都襲撃」の話をしたが、みんな話半分に聞いていた。

「だって帝都には天皇皇后両陛下がいらっしゃるのよ。陸軍だって海軍だって必死でお守りするでしょ。帝都は安泰よ。」

「確かに皇居はお守りするだろう。でもこれだけ広い帝都が無傷ではいられまい。」

「あなた憲兵がどこにいるかわからないんだから、発言には気をつけてください。」

父は疎開の話はまだ時期尚早だと思った。


父が勤める帝國大学にも大きな変化があった。教育学部の英語の授業などの敵性学科がなくなり、その分、戦争に役立つ学問を教えることになった。父は船舶工学が専門だった。今までは3年生からの授業だったが1年生から教えることになった。武装に関わる重要な学科だったのでいつも立ち見が出るほどの学生が集まった。

そしてその授業の合間には軍事訓練が行われるようになった。鉄棒や平均台に如何ほどの効果があるのか、父は懐疑的だった。

大学所有の農地では量産を迫られ、構内の空き地も耕地として利用された。

「いよいよ帝都の食糧難が来る」父はその時の争奪の様子を懸念した。



昭和18年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六がブーゲンビル上空で撃墜死亡した。

彼が南方に赴任する直前の訃報だった。彼は中佐だったので、ことの次第を聞くことが出来たが、以後は「海軍甲事件」と呼ばれることになる。

彼は襲撃された原因を究明する立場にあった。もっとも確実なのは待ち伏せだ。生存者によるとP38がかなりの機数いたそうだ。そうなると、一番怪しいのは暗号電信の傍受と解読だ。

ところが海軍暗号は数日前にイ号暗号からロ号暗号に変更したばかりだった。数日で暗号解読が出来るはずがない。

結局何の結論も出せなかった。



ブーゲンビルにいる彼は、最前線の緊張感を24時間毎日感じていた。油断をすると、どこからか銃弾が飛んでくる。

この頃はまだ日本の補給線は機能していたので餓死の心配はなかった。しかし、それもあと数ヶ月のことだった。

自分が赴任している間に一度だけ米軍との小競り合いがあった。敵は自動小銃を数丁山腹に設置して、我々の基地を狙って撃ちまくった。すぐに敵索部隊が敵の場所を特定し殲滅したので、被害は100名程度で済んだ。彼がいた建屋も多くの銃弾を浴びた。その頃には彼も動じなくなっていた。

その日の大本営への通信では、

・敵奇襲あるも敵索隊が殲滅し損害軽微。

と打電した。

すでに彼も「100名」を「損害軽微」と表現するようになっていた。戦場では感覚が麻痺してしまう。


大佐に電信が入っている時など、代わりに中佐の彼が朝礼で訓示を述べることがある。彼はチームワークと正しい情報をつかむことの2点を繰り返し強調した。

ある時、中尉が尋ねてきた。

「チームワークはわかります。小隊は個人個人が命をかけて信用することが大切です。中隊は中隊、大隊は大隊、みなそうです。ところが、正しい情報ってどこにあるんですか。知らない方がいい情報もあるのではないですか。生意気を言ってすみません。」

と敬礼をした。

「確かに「正しい情報」っていうのは難しい。でも複数の経路から同じ情報を入手すればそれは「正しい情報」と言っても良いのではないか。」

「お言葉を返すようですが、出所が一緒という場合もあります。以前、内地から来た者が新聞を数紙持って来たのですが、どの新聞も南方戦線は連勝に次ぐ連勝で快進撃を続けている、と書いてありました。中佐もご承知のとおり嘘八百です。きっと軍部が、こう書け、と命令しているんです。」

「新聞には民意高揚という使命もあるからね。」

中佐は「その元凶は大本営だよ」とは口が裂けても言えなかった。

「万歳突撃で玉砕した話も隠蔽されています。」

「それは少数の部隊による局所的な話だ。下手に広めて「自分たちもそうなるんだ」と間違った印象を持たせることの方が悪だと思うが。」

「私は、その覚悟は出来ております。」

敬礼してその中尉は帰っていった。

戦況が悪くなっていることは、十分に理解できた。



昭和18年7月になった。3ヶ月のはずだった彼の最前線での任務が終わる頃だった。

しかし、ブーゲンビルからラバウルへ赴任するように命令が下った。

「この電信員は下手くそだなぁ。」という声が聞こえた。彼への電信だった。その文面には多くの誤字脱字があった。

まだ内地にいた頃、大本営の同期の田島が、

「俺たちだけの暗号を作ろう。何かの時に役に立つだろう。」

そう言って、簡単な読み取り表を作った。

きっとその暗号だろう。彼は読み取り表を取り出して誤字脱字を追いかけた。

「て・き・そ・う・こ・う・げ・き・ち・か・し」

「なんだって。すぐに大佐に知らせないと。」

彼は大佐の兵舎に向かった。

「大本営からの情報によると敵の総攻撃が近いそうです。」

「ありがとう。もうすぐラバウルに行く人から貴重な意見をもらったよ。」

「そんな茶化さないでください。」

「じゃあ聞くが、その事を聞いて何をすればいいんだ。塹壕もほとんど完成しているし、この隊が持っている連射砲もしっかり敵陣を狙っているんだぞ。それとも、敵が来るので逃げてください、とでも言いにきたのか。我々は、毎日「今日、総攻撃があるかもしれない」と覚悟しているんだ。」

「失礼しました。」彼にはこれしか言えなかった。

「次はラバウルか。武運長久でな。」

「私もみなさんの武運長久を祈っております。」

「お前とは腹を割って話したかったなぁ。帝國大学の予科練なんて、俺は初めて見たからなぁ。ともかくエリートはラバウルに逃げろ。俺たちは立派な死に花を咲かせてやるさ。」


いよいよラバウルに赴任する日が来た。

大佐が力強い握手をしながら、

「俺は俺の任務を忠実に遂行する。お前もお前の道を歩け。」

と最後の言葉を送った。

「ここでの滞在は貴重な経験になりました。どうか、みなさんお達者で。」

そう言って珍しい二座零戦に乗り込んだ。


「よろしくお願いします。」

エンジン音で聞こえないようだった。

無線機が内蔵されている飛行帽をかぶった。

「新田中佐です。よろしくお願いします。」

「阿部大尉であります。ラバウルまでの制空権はほぼ我が軍が掌握しておりますのでご安心ください。」

「ほぼ、ってどういう意味ですか。」

「増槽タンクを背負ってくる1機、2機の敵機までは把握できないってことです。見かければ零戦ですぐに堕としますから大丈夫です。」

彼は、戦場にはどこにも絶対安全な場所など存在しないことを噛み締めた。

「山本元帥閣下の件は心が痛みますね。」

「それを言われると我々が責められているみたいで複雑な心境になります。元帥閣下には一式陸上攻撃機ではなくもっと小回りの効く小型機に乗っていただいておけば、と残念です。敵のP38ライトニングも侮れない飛行機です。」


数時間でラバウル航空基地に到着した。

早速、着任の挨拶のため大佐の元に向かった。

ラバウルは制空権内にある最前線基地なのでお偉いさんの視察が多いようで、大佐は温和な人だった。

「で、ここの何を見にきたんですか。」

「正直、私にもわからんのです。ただ「ラバウルに行け」という命令電信だけできたものですから。」

「ここは爆撃も機銃掃射もない、まぁ南国の楽園のようなところですから、ゆっくりしていってください。」

「ありがとうございます。」


実は彼には秘密裏にある指令が託されていた。

「山本元帥閣下の死に際し、事前に新しいロ号暗号に関し敵に内通した者がいるはずだ。その者を特定し内地へ連行せよ」

彼は学問は優秀だが、このような犯人捜しは不得意だった。


通信兵への聞き込みは最後にして、まずはパイロット達から食事の席、酒の席でいろいろな聞き込みをした。パイロットのほぼ全員がイ号暗号すら知らなかった。但し少尉以上のパイロットはその必要性から暗号を知っていた。しかしそれもイ号暗号にとどまった。

簡単な手帳だけで読み書きができるイ号暗号に対して、ロ号暗号の読み書きには小型の手回し計算機が必要になる。パイロット連中には犯人がいないという確信を持って、通信兵と面談した。

基地には3名の通信兵がいた。ひとりは全くの新米で、これは除外できる。問題は古株のふたりだ。そのうちの一人の様子がどうもおかしい。オロオロして何かに怯えているようだ。暗号の漏洩が発覚すれば間違いなく軍法会議で死刑になる。その死を恐れているのか。

しかしそんな恐怖心ではなさそうだ。

そのひとりだけ別室に呼んで話しを聞くことにした。

別室に入るなり、

「申し訳ありませんでした。」

と頭を床につけた。通信兵の話をゆっくり聞くことにした。

山本元帥を乗せた機にはそれほど優秀とは言いがたい通信兵が同乗していた。その彼に飛行地点と通過時間を逐一通信するのだから彼が使い慣れたイ号暗号を使うことにした。しかし上官からは、ロ号暗号を使うように言われていたので、完全な命令違反だ。相手の通信兵は機の墜落とともに死亡したが、こちらの通信記録を精査すれば、自分がロ号暗号を使っていなかったことが判明する。彼はそのことを恐れていたのだった。

「追って処分が下るだろう。」と言って後は衛兵に任せた。


「ロ号暗号は敵に漏れていなかったんだ。」と新田少佐は安心した。

彼は事の顛末を大本営に送信した。ロ号暗号を使って。

受信した大本営も安心した。


しかし、そこには大きな誤算があった。

昭和18年の初頭、ある巡洋艦が米国の潜水艦に沈められた。当然、米兵は遺留品を調べた。その中に変わった手回し計算機があった。早速、研究所に送って、調査が始まった。そう時間を要することなく、暗号の生成解読機だとわかった。いろいろな日本語を入力して出力のパターンを調べた。ドイツの暗号機の変形版だった。それさえわかれば、一気に暗号は解読できた。山本元帥の戦死の遙か前にロ号暗号も解読されていたのだ。だから通信兵がイ号暗号を使おうがロ号暗号を使おうが結果に変わりはなかったのだ。

米軍も日本軍にロ号暗号が解読されていることを知られたくなかった。従って、米国が把握している船舶、航空機の数割にしか攻撃を加えなかった。

ロ号暗号が解読されていたことを日本軍は終戦して初めて知ることになる。


通信兵からの聴取を終わり衛兵に任せてしばらくすると、兵舎に銃声がこだました。例の通信兵が自決したのだ。このような場合、衛兵は弾が1発だけ入った拳銃を机の上に置いて部屋を出るらしい。通信兵は無言の圧力で自決を強要されるのだ。

新田は衛兵に喰ってかかった。

「なんでそんなことをするんだ。」

「これが彼のためであります。」

「なぜだ。」

「軍法会議で死刑になって執行されると彼は「犯罪者」になります。」

「しかし自決であれば戦場で死んだのであり「名誉の戦死」であり「英霊」になれるのです。」

「残された遺族への周りの扱いも全然異なるのです。どうかご理解ください。」

結局、先の通信兵は死刑になった。そうでもしないと軍の規律が守れないのだ。結果的に彼の行為は間違っていなかったのだ。

新田は心が痛んだ。自分が動かなければ彼も死ぬことはなかっただろうに。


それと同時に新田は内地に帰る機会を逸した。元帥閣下の死に関する重要人物を現地から連行するという重要な命令とともに彼は帰るはずだった。しかし現地で自決されては、その手が使えなくなった。当面ラバウルに滞在することになった。


ラバウルでは確かに一見平和な時間が流れた。しかし偵察機からの報告では周りは敵の艦船ばかりらしい。なぜラバウルを攻めてこないか、不思議だった。


大本営は大本営で米国暗号を解読していた。その暗号のなかには「ラバウル等の南方小基地は無視して本隊はフィリピンを目指す」というものがあった。

「我々もなめられたもんだな。」

「しかしこれではラバウルは兵糧攻めになるぞ。」

「ラバウルはまだいい。自給自足できる可能性がある。問題はもっと小さな基地だ。」

「数十人を救うために艦船を使うわけにはいかない。制海権は完全に敵にあるのだから。」

・・・

「見捨てるしかないな。」

「おい、通信兵。」

「ラバウル以外の南方航空基地に打電。「戦局変化に伴い主力艦隊は北方に転進。孤軍奮闘を祈る。」以上だ。」

大本営にいたみんなに「敗戦」という言葉が頭をよぎった。もちろん誰も口にする者はいなかった。


昭和18年9月30日の御前会議で絶対国防圏の構想が認可された。国防圏の内側は守るということは、外側は見捨てることを示す。ブーゲンビルもラバウルも圏外だった。


ブーゲンビルでは昭和18年11月から終戦まで米国との戦いが続いた。よく玉砕しなかったものだと、私は大佐の顔を思い出した。


一方ラバウルは天国だった。敵艦も敵機も全く来なかった。これは米軍の、小さい基地は無視して早くフィリピンを目指す作戦だった。


しかし大本営からは「南方の要として、米国本隊の北上を阻止せよ」との命令文が来た。大佐はちょうど滞在していた新田中佐に相談した。

「攻撃といっても、一度に出せるのは零戦50機程度だ。たかが知れている。」

「しかし命令を無視するわけにはいかんでしょう。」

「では半分の25機に 500kg 爆弾を架装して、残りの25機で護衛するっていうのはどうだろう。」

「それは私も考えましたが、やはりそのような案しか出てこないでしょうか。」

「しかし、零戦に爆弾を架装すると、全く動きがとれず、敵のカモになるんだ。なかなか命令しにくいものだ。」

「では、私がその爆弾を架装した零戦に乗りましょう。操縦は得意な教科でしたから。」

「教科ねぇ。」と大佐は笑った。

「よし、君に1週間の猶予を与えるので、零戦の爆弾架装あり、なし、の操縦性をじっくり学んでくれ。階級的には、君は小隊長だからな。」


いよいよ、実戦への参加が決まった。訓練にも気合いが入った。敵機が上空で待ち伏せしていた時の待避行動についても何度も練習した。これが出来ないと命取りになりかねない。


運良く零戦の航続距離圏内に敵艦隊を偵察機が見つけていた。

電信はイ号暗号ではなくロ号暗号を使って大本営と大隊長に連絡して、作戦は決行された。

米軍はその情報をすぐに解読して、F4ヘルキャットで零戦を上空で待ち伏せする作戦だ。


何とか機体が識別出来るほどの早暁に零戦50機は離陸した。

新田中佐は小隊長として、2重V字体型の爆弾架装機の先頭をつとめた。

1時間ほどで敵の船団が見えてきた。貨物船ではなく軍艦のようだ。これは腕が鳴る。

しかし、同時に敵機の待ち伏せがあることを示した。V字の外側を飛んでいた機から「敵機発見」の合図が出た。それとほぼ同時に敵機が斜め後方から攻めてきた。全機が斜め前方に降下して、回避行動をとった。新田中佐も同じ行動をとったが、実戦が初めてのせいか、行動が一瞬遅れた。敵機はそれを見逃さなかった。数機の機銃が新田機に集中した。このような場合は爆弾を投下して逃げろ、と教本には書いてある。新田中佐もその基本通りに爆弾を切り離して身軽になって敵機からの回避行動にでた。敵は小回りの効かないF4ヘルキャットだ。急旋回を繰り返していれば、そこそこ逃げることができた。

他の零戦も自分の安全を守るのに必死で新田機を助けにいく余裕などなかった。

零戦には防弾装備が一切ない。操縦席も燃料タンクもジュラルミン1枚しかまとっていない。新田中佐の回避飛行にも限界がある。一瞬の隙をついて銃弾が操縦席を斜めに貫いた。


「う、うっ」銃弾は彼の右の太ももを貫通した。痛みでまともに操縦することが出来ない。しかしそうなると確実に撃墜される。彼は最後の気力を振り絞って不時着水を試みた。

もちろん初めての経験だったが、片翼を失いながらもなんとか海水面より高い位置に操縦席がとどまった。さすがに敵機も撃っては来なかった。

随分長い時間に感じたが、実際には数分で米軍のボートがやってきた。

彼には以下の選択肢があった。

1.持っている拳銃で自決する。

2.拳銃で敵と相撃ちする。

3.降伏する。

彼は3番目の選択肢を選んだ。ここで死んでも誰のためにもならないと思ったからだ。

彼は両手を高々と挙げて交戦の意図がないことを示した。やがて米兵に引き上げられて操縦席から引きずり出された。被弾した右足がさほど痛くないのが不思議だった。ボートで駆逐艦まで運ばれた。私が丸腰であることを確認してすぐに医務室に連れていかれた。

医務室ではすぐに麻酔をかけられた。遠のく意識の中で「・・・切断・・・」と聞こえた。


数時間後、彼は目が醒めた。何か体の感覚に違和感があった。首は普通に動く。両手も正常だ。両足も問題ない。この違和感の理由がわからなかった。

そのうち軍医がやって来た。彼は英語が出来るので、手術のお礼を言った。

軍医は「そのうち違和感は消えるので、ゆっくりリハビリしてください。」と言って部屋を出ていった。

「リハビリ?」彼には意味がわからなかった。

彼を助けてくれたお礼を中佐として艦長か副艦長にしなければ、と思いベッドから立った瞬間に思い切り床に倒れた。足が滑ったな、と思い立ち上がろうとしたら、また転んだ。

彼は自分の足を見た。右足が太ももから下が無かった。感覚的にはまだ右足はあるのに、現実には切断されていた。

看護兵に軍医を呼んでもらった。

「右足の太ももから下を銃弾が貫通していて、再生は不可能でした。切断があなたを救う最良の方法だと判断しました。」

そうか、斜め後ろから撃たれたあの時だ。ちくしょう、片足になるとは。

数日間は普通の病院と同じように過ごすことが出来た。米軍の懐の深さに感激した。

数日後から尋問が始まった。

「名前と階級と所属は?」

「・・・」

「黙秘かね。君の携帯していた手帳から、だいたいの事はわかっているんだよ。」

「・・・」

「我々は君の命を救ったんだよ。話してくれないかなぁ。」

「新田中佐。大本営作戦課」

「内勤の君がなんで最前線にいるのかね。」

「最前線の現場視察。」

「どうしてそんな必要があるのかね。」

「あなた達の方がご存じでしょう。」

「あなたの口から聞きたいのです。」

「私が喋ると軍事法廷の証拠になるでしょう。従って質問には答えられません。」

「・・・そうですか、では一端終わりにしましょう。」


「彼は日本が負けると思っていますね。日本兵の捕虜を見る限り、階級が上になるほど敗戦すると思っています。」

「入ってくる情報量が多いからだろうな。」

「だったらはやく負けを認めて戦争を終結させればいいのに。」

「戦争の言い出しっぺから止めるわけにもいかないのだろう。」

「このあと、どんどん死者が増えていくんですよ。」

「死を恐れないサムライの精神ですかね。」

「どこかで気がつくだろうさ。」

「捕虜になるより自決したほうが立派なんて、私には信じられません。」

「日本の最高会議・・・なんでしたっけ・・・そう御前会議、あそこで全てが決まるのでしょ。ですから、天皇にこの現状が伝わっていないとダメでしょうね。」

「戦場で捕虜になる士官は、日本は負ける、と思っている。しかし天皇は、日本は勝つ、と思っている。このギャップはどこで生まれるのだろうか。勝つと思う士官は自決して、負けると思う士官は捕虜になるってことかもな。」

「日本では陸軍と海軍の仲が悪いと聞きます。陸軍も海軍も自分から、負ける、と言い出せないし、もっと言えば作戦の失敗をなすり付け合っているのではないでしょうか。」

「そんなところだろうが、我々の仕事は証拠を集めることだからなぁ。内地にいる陸海大将や陸海大臣の証言がとれればなぁ。」

「今日の新田中佐はどうしましょう。」

「怪我の回復とともにこちらに気持ちを開くかもしれん。気長にやるさ。」


一方、ラバウルでは、

「新田小隊長機はどうした。」と大佐が訊ねた。

「爆撃直前に上空から敵機が襲来し、その一撃で不時着水したもようであります。」

「生存は確認できたのか。」

「敵艦に収容されたもようであります。」

「そうか、生きているのか。生きていればいいんだ。彼なら捕虜の心得も知っているだろう。」

「捕虜になることは恥ではないのですか。」

「例外はあって、彼はいいんだよ。そうか、生きていたか。」

50機で出撃して帰還したのは40機だった。生還率8割。悪い数値ではないが、大佐は帰って来なかった2割に心を痛めた。


その頃、サイパン島、テニアン島、グアム島などが陥落した。

テニアン島には、滑走路が急ピッチで造られB29の日本爆撃の拠点になった。


昭和19年11月、いよいよ帝都への空襲が始まった。

新田中佐の実家では、父が軽井沢への疎開の準備を始めていた。田舎の軽井沢になど行かない、と言っていた母も着物の整理を始めた。家政婦の多恵や娘の由紀はラッキーだった。彼女たちの親戚や多くの人には疎開しようにも行き先がない人々が多かった。

母が、正月はこの家で過ごしたい、と言うので、父も疎開は2月初旬ころを考えていた。

由紀は女学校時代の友人と会えなくなるので、銀座で会食をすることにした。日取りは1月27日にした。多恵は疎開先への引っ越しで大忙しだった。


年も明けた1月27日、由紀は銀座にいた。女学校時代の友人と銀座4丁目の交差点で待ち合わせしていた。すると大きなサイレンが鳴った。空襲警報だった。事態が飲み込めないまま、人の流れにのって銀座4丁目の地下鉄のホームに向かった。みんな地下鉄なら防空壕になると思ったのだ。確かに焼夷弾程度なら銀座線のホームで持ち堪えられる。しかしこの頃は通常爆弾だったので、銀座線のホーム程度の深度では防御することは出来なかった。

程なくB29による爆撃が始まった。耳をつんざく爆音が地下鉄の構内中に響いた。

このままでは危ない、と多くの連中が外に出た。そこに爆弾が落ちて血の海となった。

「私の寿命はここで尽きるのかしら」由紀は自問自答した。

「そんなはずはない。もう一度あの人に会うまでは絶対に死ねない。」

彼女は地下に潜る階段の下に強固に煉瓦を積んで出来た空間を見つけた。そのくぼみの中にしゃがんで体を丸くした。

空襲は15分ほどで終わった。彼女は死ななかった。瓦礫をどけて地上に出るのが大変だった。地上はこの世のものではなかった。特に有楽町駅付近は死体の山だった。


多恵は銀座が空襲だと聞いて、心配で心配でならなかった。

「由紀は無事でしょうか」と主人や母に何度も聞いていた。

「電話は不通だし、国鉄も地下鉄も止まっているっていうし、すぐに夜になるし。」

「多恵さん。悪い方に考えちゃいけないよ。由紀ちゃんも立派な大人なんだから、しっかり考えて行動しているよ。」と主人が励ました。


由紀は電話はもちろん国鉄も地下鉄も当てにしていなかった。自分の足で帰るつもりだった。ただ問題は日没が近いことだ。女学校時代に有事の行動方法とかいう授業があって、帝都だから大丈夫よ、と言いながら受けた記憶を思い出した。たしか、夜間は行動するな、なるべく多くの人がいるところで出来れば一睡もせず休め、大通りを歩け、貴重品は体に巻き付けろ、水は水道水以外飲むな、とか、そんな事を教えてもらった。

銀座から四谷の主人宅まで急いで歩きたかったが、日没を恐れ日比谷公園で人混みに合流した。有楽町と銀座が空襲をうけたので日比谷公園はごった返していた。由紀は地面に座って夜を明かした。

日の出とともに由紀は出発した。今回の空襲は局地的なものだったので、歩き出してすぐに普通の整備された道路になった。


夜通し起きていた多恵は、由紀を迎えにいく、と言って聞かなかった。

「あなたが出かけて、その間に由紀ちゃんが帰ってきたら、今度はあなたが迷子になるのよ」と母が宥めた。

そうこうしている時に、玄関が開いて「ただいま戻りました」と由紀の元気な声が聞こえた。多恵は由紀を抱きしめて号泣した。

戦争という悲劇の一端を身にしみて感じる出来事だった。

主人は軽井沢への疎開を早めることにした。


由紀は新田に週に2回欠かさずに手紙を書いた。しかし、もうかれこれ2ヶ月ほど返事が来なかった。彼女は忙しいしるしだと明るく考えるようにした。しかし、その後も彼からの手紙が来ることはなかった。

その代わりに来たのは死亡通知だった。由紀は三日三晩泣き続けた。

主人は、おかしい、と思った。今回の息子の任務は大本営の命令によるものだ。こんな紙1枚で過ごされるものではない。より上官からの説明があるべきだ。

そのことを弔問にきた大本営で息子と同期の田島に問うた。

彼は答えに窮していたが、意を決して把握している限りの情報を主人に伝えた。

「新田中佐はラバウルに滞在し、敵への攻撃で被弾して敵の捕虜になった模様であります。」

「で、負傷したのかね。」

「そこまではわかりかねます。」

「本当のことを教えてくれてありがとう。」父は深々と頭をさげた。

「そうか、生きていたか。」父は嬉しかった。

「息子は英語が得意だから、何とかなるだろう。」

捕虜の件は父ひとりの胸に収めた。

「生きて虜囚の辱を受けず」と言われるほど捕虜になることは罪悪とされていた。

一方、母や多恵や由紀は心の整理がついたら、新田中佐の葬儀の準備にとりかかった。このように内地では遺体のない葬儀がもはや常識化していた。


新田はそんな自宅の状況など知る術もなく、毎日尋問を受けていた。

尋問は海軍に志願する前の話にまで及んだ。

彼も、軍隊組織や作戦や戦果については一切話さなかったが、自分の個人的話には返事をするようになった。一宿一飯の恩義というやつだ。

「君も赤紙で招集されたのかね。」

「私は志願しました。」

「で大本営作戦課かね。」

「違います。」

「ではどこかね。」

「また黙秘か。」


新田が松葉杖で通路を歩いていると、むこうから見慣れた顔がやってきた。大本営作戦課の2つ下の大尉だった。

「これは奇遇ですね、新田中佐。私もポートモレスビーで捕虜になりまして。」

「ベラベラしゃべっているのは君か。」

「ええ、そうです。私は知っていることは全て話しています。」

「なんでそんなことをするんだ。」

「新田中佐もこの戦争は日本の負けだと思っているでしょ。そのためには米軍を応援してはやく勝たせるしかないんです。」

「しゃべったメリットもあっていろいろな作戦を教えてくれます。来年3月には帝都東京に大がかりな空爆があります。今までの通常爆弾ではなく焼夷弾を使って帝都を焼き払う戦法のようです。また8月には巨大な威力を持つ新型爆弾が投下されます。でも、知っていても日本軍に伝える術がありませんけどね。もちろん自分ごときが言っても誰も信用しませんけど。」

新田中佐は大尉の知っている情報を全て書き留めた。


問題はどうやって日本に伝えるかだ。

新田は艦から飛び降りることを真剣に考えていた。

「数日後に着岸しますよ。どこの米軍基地かわかりませんけど。」

「その直前に飛び降りよう。」

「でもその足で大丈夫ですか。」

「じゃあ、君ひとり残るかい。」

「中佐がいなくなったら、私の立場は危ういですね。私が手引きしたと思われます。現実そうだし。この船での生活にも飽きてきたので、そろそろおいとましますか。」

「具体的にどうするんだい。」

「中佐の足を考えると泳ぐのは不可能ですから、ボートを1艘盗みましょう。夜中なら何とかなるでしょう。」

そう言ってから数日後、いよいよ決行の時が来た。夜になった頃、怪しまれないように手ぶらでデッキに出て待ち合わせた。衛兵の巡回する時間はだいたいわかっている。その間をぬってゴムボートの準備をした。新田にははしごを降りることは不可能なので、大尉が背負って降りることにした。そのために時間がかかって衛兵が異常に気づいた。すぐにかけより機銃掃射した。大尉は仕方なくはしごから飛び降りた。サーチライトがふたりを照らすまでに時間があったのでふたりともボートに乗り込むことができた。ボートのエンジンをかけて逃げ始めた頃にサーチライトが彼らを見つけた。また機銃掃射を浴びた。回避運転をしたが、ボートに穴が開いた。

「ともかく岸まで辿り着かないと。」大尉は必死だった。一方、新田中佐は言葉少なだった。

「中佐、中佐、どうしたんですか。」

「銃弾がちょっと擦っただけだ。心配するな。」

「落ち着いたらきちんと治療しましょう。このボートには米軍の緊急セットがありますから。」


「さて、ともかく陸地には着きました。早速傷を見せてください。」

新田は大尉に右腕を見せた。

「こりゃひどい。下手したら切断ですよ。ともかく止血と消毒をしておきます。中佐のためにも早く味方を見つけないと。」

新田は見つかりにくい洞穴に身を隠して、大尉が友軍を探すことにした。そもそもここがどこかもわからなかった。

数時間して友軍の見回りの声が聞こえた。早速大尉が大声で存在をアピールした。友軍は慎重に大尉に近づいた。今までの経緯を簡単に説明すると信じてくれた。近くに中佐がいることを伝え、一緒に連れて戻ることになった。すでに中佐は意識朦朧としていた。


「ところでここはどこですか。」

「糸満の近くであります。」

「糸満って沖縄の。」

「さようであります。」

「普通の言葉使いでいいよ。で、今日の日付は。」

「3月8日です。」

「司令長官に会わせて欲しいのだが。」

「ともかく基地に戻ってからです。」


新田中佐の傷は深かった。右脚に続いて右腕も切断することになった。本人は「生きてもっと大きな恩返しをお国にするためだ」と納得した。


中佐と大尉は現地司令官の大佐と面会した。挨拶も程々に、新田の右腕の切断手術が始まった 。その間、大尉は手術を見守った。

手術が無事終わって、大きな痛みも引いた頃、新田は司令官の大佐にお礼を言うとともに、自分が捕虜中に知り得た全ての情報を話した。しかし大尉は何も話さなかった。

「大尉は日本の被害を最小限にするために早くアメリカに勝たせたいのです。だから日本軍に加勢しない気です。それが戦争終結への早道だと思っています。」と新田中佐。

「なぜ思っていることを話さないんですか。」と大佐が大尉に尋ねた。

「沖縄戦のことですか。もう万歳突撃や玉砕なんかやめさせませんか。そのためには早く米軍に勝ってもらうのが一番です。そうは思いませんか。」と大尉。

しかし新田の心の中に「日本が勝って欲しい」と言う願望があることも事実だった。

「きっと日本は負けるだろう。しかしそれは戦い尽くしたあとの話だ」そう新田には思えてならなかった。「最後まで戦い抜く」ほとんどの軍人がそう考えているだろう。今回の南方視察で出会った全ての軍人たちも「お国のために」闘っていた。


「負けがわかっていても9回まで闘おう」それはわかる。でも問題は誰が9回だと宣言するかだ。9回はまだまだ先だと思ってズルズル闘い続ける可能性がある。今の日本はもうその状態かも知れない。

「コールドゲームにして早く負けを確定させよう」これがこの大尉の方法だ。正しそうだが、そのためには味方の多くの犠牲が必要だ。


司令官の大佐はふたりの曖昧な態度に立腹した。ふたりが言いたい事はもちろん理解できたが、立場上、決して同意できるものではなかった。

「あなたがたのご意見はわかりました。しかし米軍が強くなれば強くなるほど、みんな万歳攻撃をして玉砕するものです。民間人も巻き込まれるでしょう。結局最後まで戦うしかないのです。」


新田の右手の切断からほどなく3月10日になった。帝都東京が大空襲に見舞われた。死者は10万人を越えた。

新田の父母と多恵さんと由紀さんは軽井沢に疎開しているのでひとまず安心だ。しかしそんなエゴイズムに陥っている自分に失望した。

「仇を取るぞ」という気持ちと「もうこれ以上非戦闘員の命を失ってはならない」という気持ちが新田のなかで錯綜した。

「現実に仇を取ることは不可能に近い。早く降伏してこれ以上民間人の犠牲者を出さないことが一番だ」そう新田は結論を出した。


新田に大本営からの帰還命令がやっと出た。

「手足がないのは何かと不自由でしょうが、命があることの素晴らしさを噛み締めてください。どうかご無事で本土を守ってください。」と大佐が最後に新田に挨拶した。

「大尉の考えにも一理あります。しかし戦っているのは生身の人間です。そう理屈通りにはいきません。」

ふたりは沖に停泊している本土と連絡している巡洋艦に乗った。大尉も大佐を看護する役割で帰還命令がでていた。

米軍が上陸して本格的な沖縄戦が始まる1週間前だった。この艦が沖縄から満身創痍ながらも本土に帰ってきた最後の軍艦だった。

お世話になった大佐の隊は玉砕したという報告がなかった。きっと上手に生き延びているか、捕虜になっているか、元気にしていることだろう。


横須賀港までの間に大本営への報告書をまとめた。たぶん日本は負ける。そうなると我々は軍事法廷の被告となる。その時の不利な証拠にならないように文章を練った。結局、何が言いたいかわからない報告書になってしまった。「日本が勝っている」と連呼している報告書の方がましかもしれなかった。

家人への手紙も証拠になるので、父や由紀にも黙っていた。

国の行く末よりも我を優先する自分を恥じた。


艦は横須賀港に着岸した。

今回は家人には到着のことは電信しなかった。個人電信が出来るような高位の士官と思われたくなかった。

従って大本営への通常連絡に帰港時間を記した。これで、同期の田島が私の家人に連絡してくれるだろう。

しかし、前線での新田には由紀からの手紙は届いていないので、家人の疎開のことも知らなかった。

田島には万が一と母が疎開先を連絡してくれていたので、彼から家人へは確実に連絡がとれているはずだった。新田は父母には会いたかったが、もう由紀とは会いたくなかった。こんな体を見せたくはなかった。


この2年間で家人にもいろいろな変化があった。


昭和20年の2月も終わる頃、新田家の四谷から軽井沢への疎開が済んだ。

四谷と比べると全てが不便だった。水道なんかもちろん無く井戸水だった。家政婦の多恵の親戚から送ってもらっている野菜も雪道を1時間近く歩いた郵便局まで取りに行く必要があった。

由紀が期待して待ち望んでいた新田からの手紙は一通も来なかった。きっと四谷の住所に届いていると期待した。


そんな真冬の日、母が大きく咳き込んで、なかなか咳が止まらなかった。以前から「疲れた」と言って床に伏せる日が多かった。

主人は疎開の忙しさで疲れたのだろう位に気安く考えていた。

しかし母はとうとう吐血した。

主人は軽井沢に住む若い頃のテニス仲間の内科医に往診を頼んだ。彼は懐かしんで快諾してくれた。

彼の見立ては肺結核だった。

「ともかく安静にして部屋を暖かくして乾燥させないように」と指示が出た。

帰りしな医師は新田に小声で告げた。

「会いたい人がいたら呼ぶことだ。今のように元気でいれるのもそう長くはないと思う。おい、新田。自分を責めるなよ。全ては天命なのだから。」

主人は医師を途中まで送りながら涙が止まらなかった。

「そういえば、病気のシグナルはいっぱいあった。自分はそれを気軽にやり過ごしていた。」

「もっと早くに気付いて東京の病院に入院させておけば。」

「だから、いろいろ考えるなよ。それに東京の病院だって空襲の標的になるのだから、どちらがいいかわからんよ。」

「たしか息子さんがいたな。会わせることはできないのかい。」

「息子は南方で捕虜になったらしい。」

「それは心配だな。」


医師を送って自宅に戻った主人は、家族全員を母には声が聞こえない部屋によんだ。

「家内は肺結核で先はそう長くないそうだ。」

そんなに重病だったとは、多恵も由紀も驚いた。

「早速東京の病院に入院したら。」と多恵が提案した。

「国鉄はすし詰めで満員らしい。家内の体力ではとても無理だ。車で行くにもガソリンの配給量では往復出来ない。私はここで看取りたいと思う。」

「そこでみんなにお願いがあるのだが、それぞれに家内が興味を持つ話をしてくれないか。息子の死亡通知が来た今となっては、家内が最も会いたい息子に会わせることは不可能だからな。」父は新田が捕虜になっていることを敢えて言わなかった。万が一死亡していたら母や由紀や多恵を倍悲しませることになる。


それから、誰かしら母の部屋にいるようになった。

多恵さんは、子供の頃の丁稚奉公の話をした。ここでの暮らしは天国だと奥様に礼を言った。

由紀は最近の女学校の話をした。母の頃と比べると随分自由になったものだと驚いた。

主人は母のそばで黙々と軍艦を木片から削りだしていた。

「懐かしいわね。あなたからの最初のプレゼントがその木で造った船でしたものね。船といえば、裕仁(息子)はどうしているかしら。あの死亡通知は嘘っぱちよ。」

「そうだ、あれは間違いだよ。裕仁は生きている。」

「でも私は会えそうにないわ。」

「どうして。」

「自分の体のことは自分が一番よくわかります。私長くないんでしょ。」

「そんなことはないよ。この前の医者も風邪をこじらせただけって言ってたろ。」

「いいのよ。多恵さんや由紀ちゃんにまで気をつかわせて。逝く時は裕仁の写真を持って静かに逝きたいわ。」

「わかったよ。」主人は涙をこらえてうなずいた。

部屋の外では多恵も由紀も泣いていた。


それから数週間後、母は裕仁の写真を持って静かに眠るように逝った。


遺骨は育ち親しんだ四谷の近くに埋葬したかったが、時世が許すはずもなく、軽井沢で葬儀と納骨を済ませた。


昭和20年も3月の末になった。今年も千鳥ヶ淵の桜は満開だった。裕仁と由紀が歩いた時から2年が経った。

由紀は軽井沢で相変わらず疎開生活をしていた。

田島の計らいで横須賀港で裕仁と由紀は会えるはずだったが通信事情の悪化で連絡が取れなかった。


新田は不自由な体ながら、大本営で、自分が経験したことを詳細に報告した。

一方の大尉は何も話さなかった。巨大な新型爆弾の話などすれば米国のスパイと勘違いされるし、投下地点がわからなければ意味の無い情報だ。そもそも彼の思想自体が危険思想で投獄されてしかるべき存在だ。


手足が不自由な新田は田島に四谷の実家の様子を見てきてもらった。残念ながら度重なる空襲で実家の界隈は焼け野が原になっていた。代わりに母から聞いた疎開先の住所を教えた。

さっそく新田は疎開先の軽井沢に手紙を書いた。正確には右手を失った自分に代わって田島に代筆してもらった。手足を切断したことは書けなかった。


軽井沢で新田の手紙を受け取った由紀は大喜びだった。普通郵便で来たということは、無事に南方の最前線から帰ってきたのだ。それに消印が市ヶ谷になっている。つまり大本営に戻ったのだ。ちょうど桜の季節だ。またふたりで桜の下を歩けるかも知れない。会えなかった2年間分の想いがこみ上げてきた。手紙の筆跡が違うことに気付くゆとりなどなかった。

由紀はさっそく返事を書いた。


しかしふたりにはそれぞれ手紙に書いていないことがあった。

新田は右腕と右脚を失ったこと。

由紀は新田の母が亡くなったこと。

ともに手紙ではなく直接会って話そうと思った。


だだ、今回は会う機会を作ることができない。

せっかく疎開している由紀に空襲が続く東京に来いとは言えない。自分はこんな体だから介助者がいないと動けない。大本営の自分には軽井沢方面の仕事などなかった。


5月になった。東京への空襲は若干減ったようだった。そのかわり地方都市への空襲が増えた。

軽井沢にも遅い春がやってきた。由紀は新田と会える日をただただ待った。

6月には沖縄が陥落した。街にも物資がなくなり「いよいよ本土決戦か」の機運が高まった。

主人は「敗戦をとなえる勇気のある指導者は誰か」を考えていた。事態は精神論で乗り越えられるほど楽観視できなかった。

重大な国事が御前会議で決まるとすれば、だれかが天皇陛下に奏上する必要がある。そのだれかが不在の状態が続いた。


8月、ついに巨大爆弾つまり原子爆弾が投下された。大尉の米軍からの情報は正しかった。しかしその情報を活用する術を誰も知らなかっただろう。

そして日本は降伏した。思えば長い負け戦だった。


主人はいつ軽井沢から東京に戻るか思案していた。今すぐ戻ってもインフラが全くない。せめて水くらいは確保したい。しかしもたもたすると、そこを占拠した浮浪者が既得権益を主張しかねない。

しばらくは主人が二週間に一回ほど四谷に通って戻る時期を決めることにした。


新田も新田で田島に介助してもらって四谷の様子を見に出かけた。田島は新潟の奥地の出身なので実家の心配は無用だった。

新田が実家のあった辺りをみると、初老の男性がお祈りしていた。なんと、父親だった。

新田は車椅子で駆け寄った。父はすぐに息子だとわかった。息子の変わり果てた姿に驚いたが生きていたことが嬉しかった。父は駆け寄って顔を触り左手を触った。紛れもない自分の息子だった。

同様に新田も父に会えて嬉しかった。

「その腕と脚はどうしたんだ。」と父が尋ねた。

「ちょっとやんちゃやりました。脚は零戦に乗っている時にグラマンに撃たれて、腕は敵艦から飛び降りるときにやられたのです。」

「ところで父上はなぜお祈りを。」

「母さんが2月に肺結核で亡くなったんだ。最後までお前の写真を抱いてな。」

「えっ。母上が。そんな。人が死ぬのは戦争だけで十分です。」

「父上、そろそろ私たちは兵舎にもどります。我々は戦争犯罪人として行動はすべて連合軍の管理下にあるのです。ほら、我々にふたりMPがついているでしょ。」

「では手紙を書くよ。それから、田島君。いつもいつもお世話になってありがとう。これからも息子の力になってください。よろしくお願いします。」

「はい。私でできることであれば。では失礼します。」

そう言って、新田と田島とMPたちは兵舎の方に戻っていった。


程なく父も四谷の焼け跡から軽井沢に戻った。その途中で、息子に会ったこと、手足を失っていることを、どう由紀と多恵に伝えるか考えた。結局、正直に話すことにした。

「息子に偶然あった。米軍の管理下にある。戦闘でちょっと傷を負っている。」と淡々と説明した。

「傷って。」当然、由紀が尋ねた。

「右腕と右脚だ。切断している。」

「えっ、そんな大怪我を。でも命は大丈夫なのですね。」

「あぁ、元気そうだったよ。」

「南方の最前線から帰って来たのですから、多少の怪我は仕方ないわ。」と由紀は気丈だった。


由紀は早く新田と会いたかった。

主人は戦犯者との面会の方法を調べた。何とか15分位は面会できるらしい。

面会の日取りも決まって、主人と由紀と多恵は満員の汽車にゆられて軽井沢から巣鴨の練兵場の跡地に向かった。横須賀港で別れたときのように、山のようにおはぎを持っていった。

面会所でも随分待たされた。いよいよ新田と呼ばれた。

先に3人が面会室に入った。程なくドアが開いて鉄格子のむこうに新田と介助の田島が現れた。

手足を失った新田を初めて見た由紀と多恵は驚いた。しかし時間は15分しかない。持ってきたおはぎは渡すことは出来なかった。

由紀は、母の死のこと、疎開先のこと、話すことがいっぱいあった。しかしそれを我慢して新田の話を聞くことにした。しかし、新田は全ての言動が裁判の証拠になるので、ほとんど何もしゃべれなかった。

静かな15分だった。由紀のすすり泣く声だけが聞こえた。

いよいよ15分になった。面会室から出るように催促された。その瞬間、由紀は鉄格子に走り寄って、

「お願い。生きて帰って来て。」

と叫んだ。

新田は、

「あぁ。」

とにっこり笑った。


ここ巣鴨プリズンでは多くの戦犯者の軍事法廷が開かれた。もちろん、新田や田島やふたつ下の大尉も被告になった。

大尉は米軍の尋問に協力だったことから「懲役5年」で済んだ。

田島は作戦課での働きが不安材料だったが上司からの命令によるものと判断され「懲役10年」だった。

新田も懲役刑だと誰しも思っていた。しかし下された判決は「死刑」だった。

新田は「お国のために」働きすぎていた。大本営作戦課でもその発想は目を見張るものがあったし、南方派遣でも多くの情報を大本営に送っていた。そしてラバウルでは零戦で実戦にも参加したし、捕虜になってからも非協力的で、艦から脱走もしている。そして、これらの行動のいくつかは独断によるものだった。


「死刑」通知は家族のもとには刑の執行後に知らされる。

軽井沢で毎日新田の無事を祈っていた由紀のもとにも死刑通知書が送られてきた。3月中旬のことだった。以前に嘘の死亡通知書をもらっているので、今回も間違いだと思った。

「またこんなのが来たわよ。」と由紀は多恵や主人に見せた。

主人にはすぐにわかった。今回の差出人は駐留軍だ。どさくさに紛れた日本軍とは違う。

遺骨、遺品の引き取り日時も明記してある。これは本物だ。息子は死んだのだ。

由紀にやわりと説明した。由紀は号泣した。その泣き声は三日三晩続いた。


いよいよ遺骨の引き取りの日になった。

由紀は多恵が四谷の頃から白無垢を準備していたのを知っていた。「白無垢で行く」と聞かなかった。

主人は「万一の時は自分を忘れろ、と言っていたではないか」と諭した。

ともかく軽井沢と東京では随分気候も違うだろうと薄着をして出かけた。

国鉄の混雑は多少は緩和されていた。四谷の新田家の菩提寺も新しい遺骨の受付を開始したというので、主人は母の遺骨を抱いていた。


3人は巣鴨プリズンに到着した。

本当に簡単な手続きて遺骨と遺品をもらった。遺品といっても本当に最期に身につけていたものだけだった。白の詰め襟の軍服もサーベルもなかった。遺骨は由紀が大切に持った。

「これからお花見に行きませんか。」

「お花見。」

「千鳥ヶ淵。私たちが最後に行った場所なんです。」

「家内も桜が好きだったなぁ。行こうか、千鳥ヶ淵。」


3月末の千鳥ヶ淵の桜は満開だった。

主人は母の遺骨に話しかけ、由紀は新田の遺骨に話しかけた。

主人には日傘から笑いかける母の姿が見て、由紀には第2種軍装の白い詰め襟にサーベルをさげて敬礼をする新田中佐の姿が見えた。

以前は憲兵がいた憲兵詰所にはMPがガムを噛みながら立っていた。

誰の目にも桜吹雪がきれいだった。 


「このまま帰るのももったいないな。」と主人。

「そうですね。家人全員がそろった最後の場所に行きましょう。」と由紀。

「由紀がデートした翌日には出航でしたから、大忙しでおはぎ作りましたよ。」と多恵。


3人とふたりの遺骨は横須賀港に行った。残念ながら埠頭の先は米軍に接収されていたが、みんなが新田と別れた場所には立ち入ることができた。

「あの時、写真をとっておけばよかったですね。」

「遺影みたいで嫌だっていったのはあいつだぞ。」

「お坊ちゃまをお見送りした時も今日みたいに夕日がきれいでしたね。」


「軍事法廷で死刑になるとは、よほど国のために働いたのだろうなぁ。」



10年後・・・


「急いで下さいよ、今日は父親役なんですから。」

「しかし由紀ちゃんの白無垢姿はきれいだったなぁ。」

「そりゃ、私の娘ですから。」


「今日はよろしくお願いします。」

「由紀ちゃんを泣かしたら承知しないからな。」

「相変わらず厳しいなぁ。」


「田島家」と「新田家」の結婚式が始まった。

そもそも田島は独身だった。由紀はすでに新田家の養子になっていた。

ふたりで招待客の名簿を作る際に、戦争で命を落とした者の多さに驚いた。

と同時に自分たちの幸せを噛み締めた。

ふたりとも新田の事を忘れる日はなかった。



数年後の春・・・


「ねぇ、男の子だったら付けたい名前があるの。」

「僕もあるよ。」

「せーの。」

「ひ・ろ・ひ・と」

「漢字は」「裕仁」

「新田裕仁中佐!」

「はい!立派な赤ちゃんを産む所存であります。」


四谷の家から千鳥ヶ淵の緑道まで散歩に来たときの出来事だった。

ふたりは一面に咲き香る桜の下で平和の尊さを噛み締めた。



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