喜びのディソナンス
教室に入ると、異常な臭気が鼻を突いた。
だが、別に今日に限ったことではない。どうしていつも、こんなに臭いのだろうか。ほとんど毎日のように、有明中学二年三組の教室の中は臭いのだ。
とはいえ、ほかの皆は平然たる顔つきをしている。人間というものは恐ろしい。いかなる苦痛に対しても、何らかの対策を講じればいずれ慣れてしまうのである。〝いかなる〟苦痛などと言うと少し語弊はあるが、細かいことはどうでも良い。とにかく、苦痛でさえ慣れてしまうというのは人間の醜悪な習性ではないかと、つくづく疑問に思っている。
何かに慣れるまでに要する時間は人それぞれだが、ボクは他の人よりも大分遅いほうな気がする。この教室の臭さだってそうだ。皆平気な顔をしているのに、ボク一人だけずっと顔をしかめっ放しなのだ。「いっつも顔色悪いよな」と常に言わたりしている。何か精神的な病にでも侵されているのかもしれないが、真偽のほどは定かではない。そんなことで、わざわざカウンセラーに相談したくもなかった。いや、そもそも皆本当に慣れているのか? アイツを恐れているだけではないのだろうか。
とにもかくにも窓を開けたかった。この臭気を少しでも和らげるためにも、教室の窓を全部開けたかった。でも、出来なかった。ぜんぶアイツのせいだ。窓を開けようとすると、アイツが何をしてくるか分からない。
「ひでえ話だと思わない?」
「何が?」
ボクのぶっきらぼうな返事に、憲吾はげんなりとしたような表情を浮かべた。
「チュウ太は相変わらずだな」
「何がだよ?」
「まあ、確かにお前の気持ちは分かる。俺はいつもお前に愚痴ばっかり言ってっからな」
言われてみれば、確かにその通りだった。憲吾と友達になって以来、ボクはいつの間にか憲吾の愚痴りサンドバックになっていたのである。
「で、何だっけ?」
「もういいよ」憲吾は苦笑いした。「今日は特別にお前の愚痴を俺が聞いてやる」
刹那、ボクの心臓は跳ねた。そして、一気に体中が熱くなる。自分の愚痴といえば、真っ先に思いつくのは〝アレ〟だった。しかし、それを堂々とアイツがいるこの教室で今言えるはずがない。もちろん、特になしなどという憲吾の親切な提案を無下にするような無愛想極まりない返事も避けたかった。
「うーんと、じゃあアレだ。皆からチュウ太って呼ばれてるんだけど、いい加減止めて欲しいと思ってるんだ」
すると、憲吾は首を傾げ不思議そうな顔をした。
「え、何でだよ? 別に良いじゃねえかよ、何が不満なんだ」
「いや、なんていうかその……」
「くりくりした円らな瞳、体が小さくて少し出っ歯。おまけに名前が灰谷健太。どう考えたって、お前のあだ名はチュウ太だよ」
恐らく憲吾のこの説明だけを聞いても、よほどの発想力がない限りボクのあだ名がチュウ太である理由は分からないだろう。
つまり、こういうことだ。ネズミが本当にチュウと鳴くかどうかは不明だが、とりあえず百歩譲ってチュウと鳴くとする。ネズミの目はくりくりしていて、体も小さくて出っ歯である。というより、そういうイメージを大体の人が持っている。そして、体の色は灰色である。このように、ボクとネズミのイメージとの奇跡的な類似に気付いたアイツがボクのことをチュウ太と呼び始め、そういう呼び名が定着してしまったのだ。
このあだ名で呼ばれることも、ボクはなかなか慣れることができなかった。自分のコンプレックスを見事なまでに悪用されているのだ。バカにされているのだ。
そもそも、アイツがこんなあだ名を思いついたから、こんなにも辛い思いをせねばならないのである。報復的な行為として、ボクもアイツのことをこう呼んでやりたい――〝臭い汗かき人間〟と。
腑に落ちてなさそうな顔をしているのだろう、ボクの顔を凝視する憲吾は溜め息を吐き肩をすくめた。
「だいたい、皆からあだ名で呼ばれてるってのは、俺にとってみれば羨ましい限りだ。俺なんか、憲吾とか神山だぜ? なんか味気ないよ」
「ボクはむしろそっちのほうが良いよ」
「そうか? ふつうの名前で呼ばれるとさ、なんか愛想なく聞こえないか? 皆本当に俺のこと友達って思ってるのかってな」
憲吾の主張が間違っているとは一概にはいえなかった。ただ、別にそれはそれで良いじゃないかというのが本音だ。本名で呼ぶことが必ずしも無愛想かどうかは些か疑問である。少なくとも、自分の外見上のコンプレックス全てを使ったあだ名で呼ばれるよりはマシじゃないのか。
あれこれ考えるのが億劫になったボクは、こんな話はもう止めようと思い、話を変えた。
「ところでさ、いつも気になってたんだけど……この教室臭くない?」
「お、お前何言ってんだ!」
突然血相を変えた憲吾が声をひそめながらも語気を荒げる。そして、周りをキョロキョロ見回した。ボクもすぐに自分の過ちに気付いてしまった。
遂に言ってしまった。アイツがいる場で口に出してはいけないことを言ってしまった。思わずボクも慌てて周りを見回し、アイツを探した。
アイツは教壇から見て、一番左端の廊下側の椅子に座っていた。机のフックに掛けられた黒いカバンは不憫なほどへしゃげている。アイツにとって通学カバンなど何の意味もなさない。なぜなら、どうせ何も入っていないからだ。
その周りには、手下ともいえる何人かの生徒がアイツを取り囲むようにして輪になっていた。その手下全員の髪の色は、赤や金や黒や茶というように、まさに多種多様である。
ボクは、心底ほっとした。憲吾も同じく安堵の表情を浮かべている。アイツはボクたちのほうを見向きもしなかった。雑談に夢中らしく、ボクの声も聞こえなかったのだろう。
我を忘れて何かに夢中になるというのは時に悲劇を生むことがある。口が滑るというのが良い例で、社会人にでもなるとその場の良い雰囲気を台無しにしてしまって信用を失うなんてこともあるに違いない。いわゆる、KYな発言をするということになるだろうか。
しかし、アイツらはかなりのKYである。色々な意味で、かなりKYである。常人からすると信じられない奴らだ。
授業中、隣の人とコソコソ話すぐらいは良くあるKYかもしれないが、あんなにも堂々と雑談する奴らなんてそうそういないだろう。まるで、昼休憩の時間であるかのようだ。なんて恐ろしい奴らなのだろう。
だが、注意しても聞く耳持たれずアイツらに無視されてきた教師が、もはやアイツらがこの教室にいないかのように注意を促しもせず淡々と授業しているのも恐ろしい。
教師もアイツらの素行不良に慣れてしまっているのだ。
危うく遅刻しそうになった。
寝坊したというわけではないが、通学路の途中にある公園で警察沙汰になるような事件があったようだ。詳しくは知らないし、首を突っ込む気もなかった。だが、何か事情を知らないかと警察にあれこれ聞かれたのである。当然、何も知ってるはずがないので、「知りません」とだけ答えた。
高いコンクリートのフェンスに囲まれた有明中学には、大きめの駐輪場が設備されている。正門から入って右に進み、突き当りにある。
駐輪場には、ぎっしりと自転車が並んでいた。徒歩通学の生徒もいるだろうが、これだけ自転車の数が多いと、自転車通学の生徒のほうが多そうだ。
正門をくぐり、校舎の中へと入って行った。二年三組の教室は二階の一番東端にある。階段を上っていると良く知っている体育教師とすれ違った。珍しいことに女の体育教師だ。二十代後半で焦げ茶色のボブヘアーがサラサラと揺れている。
「今日はギリギリね。寝坊でもしたの?」
なぜか顔が熱くなるのを感じた。
「い、いや違います。ちょっと面倒なことになって――」
すると、体育教師は怪訝な顔をした。
「面倒なこと?」
眉根を寄せてボクの顔を覗きこんで言った。何かボクが悪いことでもしたのではと邪推しているかのような目つきである。話がそういう方向に進むとそれこそ面倒なので、平静を装い軽くあしらった。
「大したことじゃありません。じゃあ、そろそろ授業が始まるので――」
体育教師は未だに訝しげな表情だったが、
「あらそう。じゃあ、また体育の時間にね」
と、頓狂な声を出し、なんとか立ち去ってくれた。
再び階段を上り始めたが、自分の胸が激しくドキドキしていることに気付いた。あの体育教師と会話する時はいつもこうなる。けど、これは恐らく自分だけではないはずだ。学校の教師であんなにも容姿端麗なのは、なかなかいないと思う。三年ほど前に五十代後半の教頭があの教師を口説いたことがあるという、なんとも無謀で理解しがたい都市伝説まであるのだ。気持ちは分からないでもない。
ところで、公園の隅に偽札一千万円の入ったアタッシュケースが落ちていたというのは驚きを隠せなかった。やはり公園のすぐ近くにある、あの建物の人間が関係しているのだろうか。いや、というかほぼ間違いないだろう。警察もそれを視野に入れながら捜査しているはずだ。まあ、何がどうなろうと自分には一切関係のないことである。
休憩時間での喧騒はいつも通りだが、吐き気を催すような臭気もいつも通りだった。
教室に入り自分の席に向かったが、何か妙な物が自分の椅子に置かれていることに気付いた。手にとって見てみると、造りは粗いが猫の人形だ。なるほど、ネズミのライバルであるネコを置いたのだろう。一体誰が置いたのかは見当もつかないが、候補は何人か頭に浮かんだ。
「これ置いたの君かい?」
真剣な顔でマンガを読んでいた憲吾は間抜けな顔で首を横に振った。
「いや、違うよ。お前が置いたんじゃなかったんだ」
「うん、一体誰が何のために置いたんだろう」
頬杖を付きながら、机に置いた猫の人形を見つめていると、突然、おぞましく鋭い視線を感じた。瞬時に全身の肌が粟立った。
「どうしたんだ?」
「いや、何でもないよ」
そうか、アイツの仕業だな。でも、なんで急にこんなことを――。
一時間目の授業が始まったが、嫌いな数学の授業だったので集中力は二十分で切れてしまった。ボクは集中力がなくなると、すぐに窓の外に目をやる癖がある。今日も他のクラスによる体育の授業の様子をじっと見つめていた。サッカーをやっていたが、見れば見るほど羨ましくなって仕方がない。無理もない、難解な公式を覚えるのに汗を流すよりも、サッカーをやって汗を流すほうがボクにとって百倍楽しいのだから。
「はあ、やっと終わったか」
「地獄の時間が過ぎたあ」憲吾に呼応するかのようにボクもほとんど同時に、思わずため息混じりの声を漏らした。
「ちょっと、トイレ行かない?」
「良いよ。ボクもちょうど行きたかったし」
学校のトイレは汚いし、臭かった。それぐらいはごく当たり前のことかもしれないが、この学校の男子トイレの汚さや臭さは全国でも一二を争うに違いない。トイレ掃除係なるものがいるはずだが、手を抜いているのは一目瞭然だ。だが、この臭さは自分たちの教室と同じくらいか、それよりマシだろう。そのくらい、アイツの汗は臭かった。
用を足し、少し爽快な気分で席についた。机のフックに掛けたカバンから、次の授業の教科書やノートを出そうとしたその時、異変に気付いた。
カバンの中が、黄色い何かで埋め尽くされていたのだ。そして、カバンを開けた途端、チーズのような匂いが嗅覚を刺激した。これは、チーズケーキだ。しかも、そのチーズケーキは包装されておらず、ミキサーにでもかけたかのようにグチャグチャにされていた。
ネズミはチーズを好むからということか。でも、残念ながらそれは間違っている。とあるテレビ番組で、ネズミにチーズを与えてみて本当に好きかどうか実験をしていた。誰もが、すぐにチーズに飛びつくだろうと予想していたが、ネズミは全く見向きもせず他の餌のほうに走っていったのだ。つまり、ネズミはチーズなんて嫌いだ。そんなことも知らないのかと心の中で嘲笑った。一方でアイツらは、大声で笑っている。無性に腹が立ったが、ボクはアイツらのほうに目を向けることさえできなかった。
ボクは一人で、夕日に照らされてできた自分の影を鬱然と見つめながらアスファルトの上を歩いていた。一度でいいから、影になりたい。影になれればこの世の全てから逃れることができる。そう信じていた。
影になれなくても良いから、生きるうえで何かしら大きな喜びを得たい。贅沢かもしれないが、喜び以外のものを蹂躙するような喜びが欲しかった。喜び以外のものを全部ひっくるめて比較しても、それを超越するような喜びが欲しかった。
今の自分にとっての大きな喜びとは何だろうか。
もしかしたら、それはガールフレンドかもしれない。思春期なのだから仕方ないといえば仕方ない。だが、少し違うような気がする。
では、富と名声か。いや、それも違うような気がする。
あれこれ思案しているうちに、家の近くにある公園に着いた。今日の朝、事件があった公園だ。
その公園から車二台分の距離に、例の小さな建物はあった。
何の装飾もない質素な三階建ての建物である。一階はむき出しの駐車スペースで、真っ黒な高級車が停まっていた。その奥には、公衆トイレかと勘違いしてしまいそうな薄緑色の簡素なドアが見える。
すると、坊主頭でサングラスをかけ、白いスーツを着た中年の男がその建物へと歩いていった。がっしりとした体形で、何かしら格闘技をやっているに違いない。
明らかに、ヤクザだった。この建物は正真正銘、ヤクザの組事務所なのである。
『明日の三時限目に駐輪場に来い。来なければ、大変なことになるからな』
折り畳まれた紙片に書かれていた文章を見た瞬間、ボクの心臓は針で刺されたかのようにピクっと反応して内側から胸を叩いた。その後しばらく、動悸が続いた。
明日の授業に必要な教科書をカバンに入れようとして、それに気付いた時は思わずガッツポーズをつくった。ついに自分にも恋人ができるのかと思うと、高揚感を抑えることは出来なかった。片思いの相手を何人か頭の中で浮かべだ。そのうちの誰かなら、どんなに幸せだろうかと涙が出そうになった。
でも、そのうちの誰でもなかったのだ。それどころか、ラブレターでもなかった。刹那、心の深淵から闇が溢れ出すのを感じた。空にまで届く高さまで積み上げた期待という積木は、瞬時にして崩れ去ってしまったのである。
駐輪場というのは、やはり学校の駐輪場なのだろう。確かに授業中であれば、あそこには人っ子一人いない。何か悪いことを企んでいるのであれば、絶好の場所である。仮にボクがアイツらにリンチされようが、目撃者は喋ることの出来ない多くの自転車だけだろう。死人に口なしというが、まさに自転車に口なしである。
ついにこの日が来たか。恋人からの告白だったら最高だったが、アイツからの脅迫とは――。いや、脅迫どころでは済まないかもしれない。暴力を伴う何かかもしれない。親や教師に相談するべきか。いや、そんなことをしたらタダじゃ済まない。何をされるか、想像しただけでも恐ろしい。
一体ボクが何をしたというのだ。何も心当たりはない。ついこの間までは、「おい、チュウ太。焼きそばパン買ってこいや」などとボクに色々と命令してきたが、最近は話しかけられることさえなくなっていた。アイツの考えていることなど皆目見当もつかないので、どういう心境の変化なのかも分からなかった。急にこんな手紙をボクのカバンにこっそり入れておくとは、いったい何をしようとしているのだろうか。ボクの頭の中は、もはや恐怖と不安の文字で溢れていた。
でも、これはやはり行くべきである。腹を括って勇気を出すべきである。怖いのは当然だが、逃げたくはなかった。逃げたら相手の勝ちである。何でもかんでもそうだ。逃げるということは、自動的に自分の負けを認め、相手の勝利となってしまう。いかなる苦痛や悲愴に直面しようとも、逃げたら苦痛や悲愴の勝利だ。勝利すべきではない不条理な存在の勝ちを認めるのは、どうも癪だった。
何が起きるか分からない五里霧中の状態ではあるが、この勝負は受けて立とうと決心した。ゴミ置き場から拾ってきたような猫の人形が椅子に置かれたり、チーズケーキでカバンを汚されたことへの仕返しをしてやろうじゃないか。
目覚まし時計が、近所迷惑ではないかと感じる程のけたたましい音を出した。
バネが跳ねるかのように飛び上がって起きたボクは、窓のカーテンを開けた。どうも近頃、部屋を真っ暗にしなければ寝れないみたいだ。部屋の電気も豆電球まで消している。テスト期間中は、確かにストレスからか不眠症に陥ることもある。神経質にもなっているのだろう、明かりが一切なくなるようにしていた。目を瞑っていても、豆電球の光さえ気になって眠れないなんてことは頻繁にあった。テスト期間中は本当に厄介だ。
でも、その症状がテスト期間中でなくとも発症するのは珍しかった。以前、酔っ払いのオジサンに「オジサンの家はどこですか?」と、ボクが分かるはずもない質問をされ、「知りません」と答えると殴りかかられたことがある。それがトラウマになって寝れなくなったことはあった。ということは、今回もそういった時と同じような精神状態となっているに違いないのだ。
ボクは今、アイツにいじめられていると言っても過言ではない。でもアイツが異常なだけだ。ボクをいじめているのは正直アイツだけである。少数派にいじめられても痛くも痒くもないはずが、なぜか睡眠障害を起こすほどダメージを受けているのは、どうも合点がいかなかった。
朝食を頬張りながら、ボクは家を出た。いよいよ決戦の舞台へと旅立つのである。
喧騒のない静寂に包まれた住宅街を歩いていると、微かにハトの鳴き声が耳に吸い込まれていった。相変わらず何ともいえない鳴き声だ。朝の訪れを告げる癒しの音にも聞こえるし、不吉なことが起きるのを知らせる不気味な予兆の音にも聞こえた。その鳴き声が急に大きくなったかと思うと、ボクが横切ったすぐ近くの電信柱の周辺で数匹たむろしていることに気付いた。ボクが近寄っても微動だにせず、道に落ちていた何かを嘴で突いている。木の実か人間が落とした食べ物のカスかと最初は思ったが、良く見ると違った。この辺りに住む子供たちが、エアガンで遊んで落ちたBB弾だったのだ。BB弾は食べても美味しくないぞと助言したかったが、人間の言葉が通じるはずもないので、そのまま学校へと向かった。
吉野公園にはゲートボールを楽しむ老人たちの声が響いていた。自転車で横を少し通り過ぎただけだが、その様子は一瞬視界に捉えただけでも微笑ましかった。
木陰の赤いベンチで、汗をタオルで拭いながら一休みする老人。真剣な眼差しで、ゲートを見つめながらスティックを構える老人。ボールがゲートに入るやいなやバンザイして喜び、とびきりの笑顔を見せる老人。
老人たちはもはや、老体ではなかった。スポーツに夢中となっている彼らは、若者だった頃にタイムスリップしていたのである。そう長くはない余生を、あんなにも笑顔で過すことが出来たらどんなに良いだろう。ボクは、ただただ羨ましくなった。
けど、そういった彼らの笑顔を台無しにしてしまいかねないものが、この公園の目と鼻の先にはあった。あのヤクザの組事務所である。老人たちの愉しみを嘲笑うかのように、その建物はそびえ立っていた。いっそのこと、なくなってしまえば良いのに……いや、待てよ。アイツはここのヤクザにでもボコボコにされれば良いんだ。そうだ、もしそうなれば一番ラッキーだ。そうなるまでは、残ってもらわねばならないな――。
「灰谷くん。あれ、灰谷くんはいませんか?」
ボクは窓から空をぼうっと見上げていた。そして、誰もが憧れるであろう夢を頭の中で描いていた。空を優雅に浮遊するあの雲に乗って、大空を旅してみたい。乗り心地は飛行機のファーストクラスよりも快適だ。ファーストクラスなんて一切縁もないから根拠は全くないが、間違いなくそれよりは気持ちが良いだろう。緩やかな風を肌で感じ、干したての布団のようにふかふかで温かいものに寝転がりながら、流れゆく街の景色を眺める――実際にこんなことが出来たら、ボクはもう死んでしまっても良い。
肩を憲吾に小突かれて我に返ったボクは、理科の教師が自分の名前を呼んでいることに気付いた。慌てて、「はい!」と快活な声を出した。
今日はアイツの姿は教室にはなかった。確かに、いつもの悪臭が全然しない。まるで、天国にでもいるかのような気分になった。恐らく、何か準備をしているに違いない。ボクを呼び出して何をする気なんだろうか。本当に気になって仕方がなかった。
けど、あまりにも怖がり過ぎて委縮してしまったらアイツにとって有利だ。あくまでも平静を装ったほうが、アイツも少し鼻白むに違いない。逆効果にだけはならないことを願う。
とうとう、三時限目が始まる前の休み時間が訪れた。何も知らない憲吾は、突然意味の分からないことをボクに訊いてきた。
「カツ丼のカツって何? まさか本当に勝利のカツじゃないよな」
こっちは急いでいるんだ。君のバカみたいな質問に答えている暇はない。
「さあ、知らないな。もう勝利のカツってことで良いんじゃないか?」
「いや、それじゃ納得いかないんだ。ちゃんと知りたいんだよ!」
急に語気を荒げてもらっても、知らないものは知らない。
「うーんとじゃあ、勝海舟が考案したんじゃないかな? なんか勝海舟って、グルメって感じするじゃん」
すると憲吾は目を見開き、人さし指でボクを指差した。
「それだ! 間違いない。お前頭良いな」
なるほど、こんなにもいい加減な返答で納得するのならこっちとしては楽だ。おまけに頭良いなどという褒め言葉まで貰えるとは、嬉しい限りである。
「じゃあ――」
「おいおい、ちょっと待てよ。もういいだろ」
「いや、まだだ。なんか今のスッキリした気分をもう一回味わいてえ。だから、もう一個だけ教えてくれ」
あと一個ぐらいなら良いかと思い、ボクは渋々首を縦に振った。
「隣の一組の浅山さんだっけ。あの子可愛いけど――処女かな?」
ボクは即答してやった。
「知らん。じゃあ、もう行くから」
「おい、ちょっと待てよ。分かった、質問変えるから」
「もういいって」
「じゃあ、アレだ。体育の先生って処女かな」
「……」
ボクはさすがに言葉に詰まった。たしかにそれは気になる。
「結婚指輪してないし、処女じゃない?」
憲吾は神妙な面持ちで頷いた。
「処女であってほしいというのが本音だ」
「この学校の男子は皆そう思ってるよ、きっと」
「だろうな」
話に夢中になり過ぎていたのか、教室が静まり返っていたことに気付かなかった。気付けば、クラスの皆が僕たちを不思議そうな顔で見つめていた。お前たちはいったい何の話をしているんだと言わんばかりの表情を皆していた。
思わずボクは、急いで教室を出たくなった。しかし、チャイムが鳴ると同時に英語の教師が入ってきた。
「はいみなさん、今日も頑張りましょう。おや、灰谷くん? どこへ行くのですか、もうチャイムは鳴ってますよ」
「いやちょっと、トイレに行こうかなと……」
すると、英語の教師は苦笑いを浮かべた。
「駄目ですよ。授業が終わるまで我慢しなさい。今日は始めに小テストを行いますから、始めるのが遅れたら皆に迷惑がかかるでしょ」
授業が終わるまで我慢しろだと。なんてサディスティックな教師なんだ。膀胱炎にでもなったら、本当にちゃんと責任は取ってくれるのか。ふざけるな、と言いたい。
とはいえ、実際はトイレになんて行く必要はなかった。駐輪場に早く行かなければならなかった。たぶんこの教師は見抜いているのだ。ボクがトイレに行きたいのではなく、それ以外の理由で授業を抜けたいのだと見抜いているのだ。百戦錬磨のベテラン教師には、ボクの顔を見ただけで、何もかもバレバレなのか。
もちろんサボるというわけではないが、どうしても行かなければならなかった。ウソを吐いてでも行かなければならなかった。ボクは苦渋の末、投げやりな口調で言った。
「もうボクはゼロ点で結構です!」
すると、教師は唖然とした顔をした。
「そ、そうですか。ならば自由にしなさい」
そして、ボクは駆け足で駐輪場へとむかった。
人気のない駐輪場は、あまりにも閑散としていた。
中年男性の呻き声のような音を立てて強めの風が吹いている。その風に揺られた木々の葉は、人気歌手のコンサートに来た観客たちの叫び声のようにざわめいていた。
とにかく不気味だった。駐輪場の奥に足を進めれば進めるほど、胸の鼓動が速まっていく。そして遂に、あの悪臭がボクの鼻を突いた。
小峰竜平の切れ長で細い目は、睨みつけた相手を委縮させるほど鋭かった。いかり気味の肩からは丸みを帯びた猫背が伸びている。小太りだが背は高く、NFLのアメフト選手のようにがっしりとした体格だった。小峰はなぜか自転車のサドルに座って待っていた。そして、ゆるりと立ちあがった。
「久しぶりだよな、こうして二人で喋るのは」
ドスのきいたバリトンボイスは、ヤクザの組員さながらだった。小峰の汗の臭いに鼻がもげそうになったが、なんとか堪えて小さな声で答える。
「そうだっけ?」
「おう、そうだ。俺が言うんだから間違いない」
黄ばんだ前歯をむき出しにして微笑する小峰の顔は、悪魔そのものだった。両足が震えている。ボクは吃りながらも、気になっていたことを訊いた。
「きょ、今日は何かボクに用かい?」
すると、小峰は徐にボクのほうへと歩いてきた。砂利の散らばるコンクリートの地面を、ザァザァと大きな靴で擦りながら小峰が近づいてくる。ギリシャ神話にでも登場しそうな怪物かと錯覚するほど、異様なオーラを発していた。胸倉を掴みに来るのだろうと予想したが、案の定、そうだった。そして、ボクの鼻は完全に機能停止し、恐怖メーターの針は振り切った。
「俺の汗が臭いって言ったそうだな。良い度胸じゃねえか」
体から変な汗が噴き出した。頭から手足の指先まで凍りつく。
どうしてそれを知っているんだ。あの時のボクの失敗には、憲吾以外誰も気付いていなかったんじないのか。
「どうして知ってるんだっていう顔してんな? 教えてやってもいいぜ」
ボクはゆっくりと小峰の目を見た。黒い光を放つ小峰の双眸は、縄張りを守ろうとする猫のようだった。
「たまたま、俺の仲間がお前たちの近くにいたんだよ。そいつは言ってみれば監視役だ。誰か俺の悪口を陰で言ってないかどうか、監視させていた。そしたらお前が俺の悪口を言ってたっていうんで、お前を呼び出したんだ」
そんな、バカな。偶然にもボクが口を滑らしてしまった時に、偶然にも小峰の監視役がボクの小声を聞き取れるほどの距離にいたなんて。なんて不運なんだ。どうしてその監視役とやらに気付くことさえ出来なかったんだ。
小峰は腕を組んで、ボクの顔をねめつけた。
「さあて、どうしてくれる? 著しく名誉を棄損されたんだ。損害賠償を払って貰わねえとな」
通学カバンに何も入ってないような小峰の口から、次々と小難しい言葉が出てきたので、ボクは狼狽した。そういうことに関しては詳しいのか。
「ボ、ボクにそんなお金はないよ。五百円ならあるけど……」
すると、小峰はボクの腹を急に殴ってきた。内臓が破裂したかのような激痛を感じ、一瞬だが呼吸困難に陥った。大きな声を出すと教師にバレるからだろうか、小峰は猫撫で声で囁くように言った。
「てめえ、なめてんのか。五百円で償えるわけねえだろ。せめて百万だ」
「ひゃ、百円?」
「ああ、そうだ百円だ……って、違うわ。百万だ!」
ボクは再び言葉に窮した。中学二年生に百万など用意できるわけがない。やはりこいつに常識というものは皆無なのか。心の中で呟いていると、小峰が突然笑みを浮かべた。
「分かってるよ。お前の言いたいことは分かる。俺もそこまで非常識じゃない」
そして、小峰は人さし指を立てながら言った。
「俺に一つ提案がある。なあに、そんなに難しいことじゃない」
ボクは思わず息を呑んだ。何か突拍子もないことを言われるのは確実だった。
「お前に、ヤクザの組事務所に潜りこんでもらおうと思う」
「えっ、なんだって?」
「だから、お前にヤクザの組事務所に潜り込んでもらうんだよ。そんで、そこから金の入ったアタッシュケースを盗って来い」
あり得ない。そんなの絶対あり得ない。出来るはずがなかった。高所恐怖症の人がスカイダイビングするよりも勇気がいるじゃないか。ボクはほぼ無意識に首をブンブンと左右に振っていた。
「それだけは勘弁してください」
「駄目だ。もし出来ねえなら、今すぐ百万払えや」
「……」
「無理なら仕方ねえ。お前も知ってるよな、吉野公園の近くにあるヤクザ事務所だ。そこから盗って来い! 今日の夕方五時に、吉野公園で待ってる」
「ちょっと、本当に無理ですって」
ボクは小峰の服の袖を引っ張った。だが、逆にこっちが引っ張られ、自分の体が簡単にひきずられていることに、どうしようもない無力感を覚えた。力ずくでボクの腕を引き離し、小峰は悠然と立ち去った。ボクは小峰の後ろ姿を涙の溜まった目で見つめるしかなかった。
何が決戦だ。何が仕返しだ。結局は何も出来なかったじゃないか。なすがままに心を操られただけじゃないか。
そして、ボクは心の中でライオンが咆哮するかのように叫んだ。
どうしてこうなるのぉ!
吉野公園では、小学生と思しき子供が数人遊んでいた。この公園は、ボール遊びが一応禁止されている。とはいえ、何だかんだで破られている規則だった。軟式の野球ボールで三人の子供が遊んでいる。
「なあみんな、このボールをどこまで上に投げられるか勝負しようぜ!」
「おっ、さんせーい」
短髪で腕白そうな少年は、膝を大きく曲げて勢いよくボールを上に投げた。
「すげえ、めちゃくちゃ高く飛んだ」
「あったりめーだ」
「よーし、じゃあ俺の番だ!」
次はあの小柄な体つきの少年が投げるようだ。
「ぬどりゃー」
ハンマー投げの選手みたいな声をあげながら小柄な少年が投げたボールは、綺麗な放物線を描き公園の外へと飛んで行った。ところが、通りかかった車のボンネットに運悪く落下したようである。
「何さらしてくれとんじゃあ」
サングラスをかけたスキンヘッドの男が、開けた運転席の窓から怒鳴った。その瞬間、子供たちは、「うぎゃー」と叫んで三々五々に走り去って行った。凄まじい逃げ脚である。
「――さて、そろそろ行くか」
ボクは独り言を呟いた。
まずは、突入する場所とタイミングが大事だった。もちろん、あの正面出入り口から堂々と入るのは不可能だ。ドアの音に気付かれるだろうし、内部構造がどうなっているのかも分からない。あのドアを開けた瞬間、ヤクザたちに出くわしてもおかしくはない。もちろん、外にヤクザがいる時も潜入不可能である。見つかったら、何もかも終わりだ。
あの正面出入り口以外にも、中に入れる所がどこかにあるはずである。とりあえず、建物の裏に回ってみよう。そこなら恐らく、ヤクザもいないだろう。
組事務所の隣には、『グッピー』なる喫茶店があった。ごくごく一般的な小さい喫茶店だ。店の前にはミニチュアサイズの黒板が立てられていて、メニューがチョークで書かれている。だが、殴り書きされていて全く読めなかった。まるで象形文字のようだ。これは、明らかに不自然である。客に見せるべきメニューの文字が乱雑過ぎて読めないのは、店にとって致命的なことではないだろうか。いや、そもそもヤクザの組事務所のすぐ隣にあること自体、不自然である。たぶんこの喫茶店は、ヤクザによるヤクザのための喫茶店なのだろう。ヤクザ以外の人間が訪れることを前提として建てられた店ではないのだ。そう思わざるを得なかった。
その喫茶店や組事務所の周りに円を描くようにして、ぐるりと百八十度歩いて回った。すると、組事務所には裏口があった。だが、二メートルほどのフェンスがあって、このフェンスをよじ登らない限り、あの裏口にも辿りつけそうにない。周りをキョロキョロと見回して確認してから、ボクは、なるべく音を立てずにフェンスに足をかけた。そして、ゆっくりと登っていった。
裏口のドアのカギは開いているだろうか。もし開いていたとして、ドアを開けた途端、ヤクザに出くわさないだろうか。でも、わざわざフェンスをよじ登ったんだし、ここで引き返したくはない。正面口よりは裏口のほうがはるかに安全だろうから、こんなにも恐れる必要はないのだ。不安や焦りがボクの心で渦巻いた。ボクは恐る恐る、ドアノブに手をかけて引いた。
きい、という音とともに古い木製のドアは開いた。ドアの隙間からは階段が見える。ドアの先には上へと通じる階段しかなかった。よかった、誰もいないようだ。
まるで老人であるかのようにゆったりと階段を上った先には、またもやドアがあった。そのドアは半開きだったので、その隙間から中を覗いてみた。
大きな棚には資料らしきものがぎっしり詰まっている。なぜか、六法全書も見えた。黒いスーツを身にまとったオールバックの男が、一つの資料を棚から出した。手にとって読みだしたが、どんな内容かは遠くて分からない。何か棒グラフのようなものが描かれているような気もする。すると、突然、その男が奇声をあげた。
「ああっ、何じゃこりゃ」
「なんだ、どうした?」
もう一人いた別のヤクザが血相を変えて近寄る。紫のアロハシャツに紫の短パンを着ている。何という奇妙奇天烈な格好だろうか。
「このページ、コーヒーで汚れてるじゃないか。お頭に殺されちまうぞ」
紫色の格好をした男が苦笑する。
「バカ、これはコーヒーで汚れたんじゃねえ。コーラで汚れたんだ」
「どっちでも良い。俺は汚れてることに焦ってるんだ!」
「そうか、じゃあもう一回印刷しなおそう」
「その手があったか」
オールバックのヤクザは「ふう」と息を吐いた。
棚に六法全書が置かれてるわりには、アホな奴らである。こんなにも低能な会話は、小学生でも頻繁にはしない。憲法を拳法、刑法を警報と勘違いしてそうだ。すると、案の定、わけのわからない会話を始めた。
「憲法第九条ってなんだっけ?」
オールバックのヤクザは顎に手をやり、眉間に皺を寄せた。深く考え込んでいるようだ。ボクはちなみに答えを知っている。戦争の放棄――つまり、平和になろうというやつだ。これだけは有名だからということで、社会の授業で教師が補足的に教えてくれたものである。しかし、オールバックのヤクザは衝撃の発言をした。
「酔拳! ちなみに、六条が太極拳だっけ?」
単なるアホだ。いや、アホを通り越してドアホだ。冗談で言ったのかもしれないが、特段おもしろくもない。
「はあ? なんだそりゃ」
「なんだ、その顔は。冗談に決まってるだろ」
小学生レベルの冗談に、思わず肩がブルブル震え始めた。笑いをどうしても堪えることができない。声は出すまいと思って、必死に口を閉じていた。すると、その震える肩に何かしらの違和感を覚えた。この感触は、明らかに人間の手だった。誰かが自分の右肩に手を置いている。振り向こうとした瞬間、背中にドスンという足の裏で蹴られたような衝撃が走り、ボクの体は吹き飛ばされた。半開きだったドアは吹き飛んだボクの体で勢いよく開き、ボクはそのドアの向こうに転んでしまった。
「なんじゃ、何事だぁ!」
紫色の格好をしたヤクザが大声を発し、ボクを訝しげな顔で見つめていた。ボクを蹴飛ばしたのはもちろん、この人たちの仲間だ。黒いスーツを着ていて、なぜか可愛らしい熊の顔がたくさん描かれたカラフルなネクタイをしていた。幅の広い額には、大きな傷があった。その男のほうを見た二人のヤクザは急に姿勢を正して頭を下げた。オールバックのヤクザが不思議そうな表情で言った。
「お、お頭じゃないですか。誰ですか、そのボウズは」
すると、組長がボクの顔を憎たらしげに見ながら口を開く。酷くしわがれた声だった。
「ドブネズミだ」
「この間のやつもお前の仕業か?」
組長は煙草の煙をボクのほうにブワっと吹きかけて訊いた。
ボクは組長に蹴飛ばされてから、しばらく動けなかった。完全に放心状態だったのだ。バレてしまったという衝撃と、自分より何倍も体の大きい大人に思いっきり蹴られた時に感じたあの痛み――。そのダブルパンチは思った以上に精神的なダメージをボクに与えた。
その後、組長が腕を強引に引っ張ってボクの体を起こした。もの凄い握力だった。少なくとも、中学生に対して発揮する力ではない。ボクは一言も喋れないまま、ヤクザたちに応接間へと連行された。応接間は案外、広い空間である。焦げ茶色をした四脚のソファーが、大き目の机を囲んでいた。歴代の組長や幹部の写真が壁の高い所に飾られていて、代紋入りの提灯が神棚の周りを囲んでいる。
「この間のやつ……ですか?」
「なんだ、知らねえのか。もしかして、とぼけてねえだろうな?」
ボクは勢いよく首を振った。
「本当に知りません! 何かあったんですか」
「金の入ったアタッシュケースが盗られたんだよ。挙句の果てには、すぐそこの公園に捨てられていたらしい。おかげで、サツにもあのことがバレちまった」
アタッシュケースという言葉にボクの心臓は大きく反応した。そういえば、今回のボクの目的はそれだった。
公園に落ちていたアタッシュケースは、やはりこのヤクザたちのものだったのか。組長の言う〝あのこと〟とは、偽札のことだろう。だが、それが盗まれていて公園に落ちていたというのは不可解だ。偽札であることに気付き、捨てたのだろうか。そもそも、ボクもアタッシュケースを盗もうとしていたのである。これは単なる偶然なのか。
組長は熱そうな緑茶を啜りながら、ボクの顔をじっと眺めた。そして、徐に口を開いた。
「お前、自分の意志でこの事務所にこっそり忍び込んだのか? お前みたいな気の弱そうな奴がそんなこと出来るとは思わねえが――」
そうだ、そもそもボクは自分の意志でやっているのではない。全て小峰が悪いのだ。
刹那、ボクの頭の中で何かが弾けた。全身に鳥肌が立つのを感じる。そしてボクは、はっきりとした口調で答えた。
「違います! ボクは命令されてやっています。ある人に脅されているんです」
組長の目つきがガラリと変貌した。
「脅されてるだあ? まさか、違う組のもんじゃねえだろうな」
「いや、そういうわけじゃないんです。ボクの同級生です」
「なんだと、生意気な中学生だ。よし、今からそいつをここに連れて来い」
「いや、もうそろそろ公園にいるはずです」
「ほんとか? おい、ちょっと確認しろ」
組長は他の二人のヤクザのほうを向いて言った。ヤクザ二人は、「へい!」と声を出し、確かめに行った。
三十秒ほどで帰ってきたヤクザ二人は、微かに笑みを浮かべて報告した。
「今、窓から確認したんですが生意気そうなガキが三人程いやしたぜ」
すると、組長がムクリと腰を上げた。
「じゃあ、行くか。おい、もうお前は帰っていいぞ」
ボクは、どうしても気になったので、小峰たちがヤクザに絡まれている様子を公園の木の陰から覗いていた。小峰やその他の奴も酷く怯えた表情をしている。そして、彼らは事務所の中へと連行された。
ボクは高揚感を抑えることできなかった。胸がワクワクした。最近ではあまりないほどの喜びを味わっているのかもしれない。恨みという感情しか抱いていなかった小峰が、今まさに地獄へ落とされようとしているのだ。これ以上の喜びがあるだろうか。
しばらくすると、小峰の手下二人は出てきたが、小峰は出てこなかった。ボクは思わず立ち上がり、憔悴しきった彼らのほうへと小走りに向かった。
「ねえ、小峰はどうしたの?」
赤い髪の色をした山下に訊いた。すると、山下は急に土下座して謝り始めた。
「本当に悪かった。俺たちも今さらだけど、お前らのグループに入れてくれねえか」
金髪の江川も同じく土下座してきた。
「ボクたちのグループ?」
「そうだ、もう小峰にはウンザリだ。俺たちもアイツに脅されてただけだ。アイツはちょっと他人とズレてて、友達ができなかった。だから、どうしても仲間が欲しかったんだ。不憫だったから仲間になってやったけど、もう我慢できねえ」
確かにアイツは少数派の人間だ。僕たち多数派の人間とはズレている。
「で、アイツはなんで帰って来ないの」
「裏切ってやったのさ。俺たちは関係ありません、こいつが主犯ですってな」
なるほど、小峰は今、絶体絶命のピンチにあるようだ。
「もう俺たちは帰る! チュウ太、一緒に帰ろうぜ」
ボクの心の中で得体の知れない何かがグルグル回っていた。光と闇が融合したような、曖昧な何かがボクの心を支配していた。
「ごめん、遠慮しとくよ。だから、もう君たちは帰っていいよ」
山下と江川は怪訝な顔でボクを見つめた。山下が口を開く。
「そうか、分かったよ。じゃあ、またな」
二人は颯爽とその場を後にした。
目を赤くした小峰が戻って来たのは、十分後ぐらいだった。
でも、ボクは彼に話しかけるどころか近づくことも出来なかった。今まで味わったことのないような並々ならぬ感情が、それを拒んで行動を起こせなかった。
肩を落とし鬱然とした顔で重そうな足を進める小峰を、ボクはただただ見つめることしかできなかった。そんな自分が情けなかった。でも、ボクはあることを気付くことができた。
大きな喜びには時として、他の誰かの悲しみを伴うことがある。ボクは今回、確かに憎き小峰が苦しむことで、大きな喜びを得た、でも、一方でボクは小峰に大きな悲しみを与えてしまった。これでは、小峰が今までボクにしてきたことと同じではないか。
例えば、スポーツの世界もよくよく考えてみればそうだ。甲子園で勝ち上がるには他のチームを負かしていかねばならない。試合に勝てれば喜びを得られる。だが、勝った相手に悲しみを与えなければならないのだ。負けたチームが大粒の涙を流して甲子園の土を袋に詰めるあの場面はあまりにも有名である。
世の中は想像以上に厳しい。そして、たいていの人間がそんなことをいちいち意識していないなんて恐ろしいにも程がある。
翌日の放課後、ボクは自分のカバンが少し今日の朝よりも重たくなっていることに気付いた。中を確認してみると、小さな箱が入っていた。そして、手紙が添えられていたのだ。
『ありがとう、すっきりした。あんな汗臭い奴がいなくなって良かった
今西より』
そうか、結局は誰もあの臭いに慣れてなんかいなかったんだ。どうやら、ボクの勘違いだったようだ。ところで、ボクはこの手紙を見ても正直何も嬉しくなかった。紛れもなく、片思い中の好きな女子からのラブレターだったが何も嬉しくなかった。箱を開けてみると、きちんと包装されたチーズケーキが入っていた。それでも、嬉しさは微塵も感じなかった。
「チュウ太、良いもんやるよ」
憲吾がいきなり授業中に話しかけてきたのは、あの事件から三日後である。
結局、小峰は三日経っても登校してこなかった。
「良いもんってなんだよ」
「まあ手出してみろ」
ボクは不承不承、手を憲吾のほうへ出した。
「パーして」
そして、憲吾はパーにしたボクの手に何か紙切れのようなものを重ねて、ボクの手を握った。
恐る恐るそれを見てみると、なんとそれは一万円札だった。こんなもの受け取れるはずがないと断ったが、しつこかったので受け取ることにした。
とはいえ、一万円札を貰っても特に高価なものは欲しくなかった。だから、コンビニで菓子パンでも買うことにした。てなわけで、ボクは今コンビニにいる。
お目当ての菓子パンをレジに持って行くと、店員が元気な声で言った。
「いらしゃいませ。百六十円です」
ボクは、ポケットから憲吾に貰った一万円札を取り出した。それを見た店員の顔が少し歪んだような気がした。無理もない。中学生がいきなり財布ではなくポケットから一万円を取り出し、たった百六十円の菓子パンを一万円札で買おうとしているのだ。不審に思われるのも仕方ない。でも、それは覚悟のうえだった。
すると、店員は徐に一万円札を天にかざすかのように上にあげた。そして、こう告げた。
「お客様、このお札には透かしがございません。警察を呼びますのでしばらく待機しておいてください」
うおぉぉ、ふざけんじゃねえ!≪完≫
第二編は、『怒りのラプソディア』です。公開日は未定です。どうか、楽しみにしていてください!!四編全て完成しましたら、タイトル『チュウ太の喜怒哀楽』としてシリーズにする予定です。