テレキャスターの女
路上ライブ。人通りの多い駅などで行われるライブ。1人で弾き語る者もいれば、2人でギターとヴォーカルとでパートを分ける者、形態は人それぞれだ。
やはり、手軽だからだろうか。皆の持つ楽器はアコースティックギターで染まっている。それが当り前。少し大がかりなライブになれば、PA機材を用いて音量を上げたりするのだが普通は使わない。人手がかかる、準備も手間もかかる。
そんな常識を簡単に破ったとでも言うべきなのだろうか、ただの馬鹿と言うべきだろうか。
とある地方にある駅付近で路上ライブをする者ならば、誰もが知る事になるパフォーマーが、1つの世界を築いていく。
†
ある平日の日の夕暮れ。冬の足音が徐々に聞こえてくる秋の日だった。
仕事を終え、家に帰る途中で駅周辺を物色するサラリーマン。学校からの帰りにカフェに入る高校生。皆が明日への日常を鑑みながら、今日の疲れを癒していく。
そんな雑踏の中に彼女は居た。暗い赤に染まったショートカットの髪。毛先は黒。黒のスラックスにこれまた髪の色と同じような赤のワイシャツ、それを包み込む黒のジャケット。タバコを吹かしながら路上パフォーマンスができるように、と自由に解放された空間で準備に取りかかっていた。彼女が重々しく持ってくる機材に通りかかる人々は目を向ける。
駅入り口に広がる平地の隅。人々の視界に入りやすく、しかし通り過ぎていくリスナーの動線の邪魔にならない最高の場所。
そこに無造作に置かれているのは、ギター、ギターアンプ、エフェクターケースと思われる箱などなど。
路上ライブは珍しくないが、この大がかりなライブはそう滅多にあることではない。男たちの歌声に虜になる女子高生、ギターを抱えたいかにもと言った男、この時間のこの道を通いなれた者、みんなが興味を向ける。しかし足を止める訳ではない。
少し離れていた所に停車していた自動車から機材を全て出し終えたのか、彼女は持ち出してきた機材のセッティングを始めた。
ギタースタンドを広げ、ケースからギターを出す。黒いボディのテレキャスターだ。アコースティックギターが当り前のこの路上に、エレキギター――異質である。アンプが2台あるものの、まさかエレキギターが出てくるのは周囲の予想を超えていた。彼女に視線を向け、興味ありげに歩みを遅くする人が増え始める。
そんな周囲の反応を余所に、彼女は“ライブハウスでならよくある準備”を始めていく、この路上で。
セッティングが進んで行く事に、彼女のパフォーマンスを見ようと興味を持った人々が足を止めはじめた。今この時点でさえ、通常ライブをしているパフォーマーよりもリスナーを集めることに成功している。物珍しさ、という点での話ではあるが。
「今日なんかあったっけ?」「有名な人なの?」「1人だけ?」
観客から漏れてくるのはそんな疑問ばかり。こんなに大がかりな機材を持ち出すのだから、今日は何か特別な事があるのだろう。そんな観客の心境を表す。
そんな観客のボルテージを上げていく最中、彼女は設営を終えた。ギターが繋がれたジャズコーラスと銘打たれているアンプのボリュームを少しずつ捻る。シングルコイルである、と自己紹介するかの様なノイズがアンプからはき出される。サウンドチェックをしているようだ。ピックを持ち、軽くコードストロークをする。ガラスを引っ掻いたかの様な音でアンプが歌う。手癖と思われるフレーズを少し弾いて、彼女はギターのボリュームを閉めた。
観客から漏れる興奮の音。いよいよはじまる、そんな息遣いが周囲を染める。
「あー、あー、てすてす」
女声の中では低い方かもしれない、そんな彼女の声が周辺のビルのコンクリートを叩き、反響した。マイクに声を入れる時に見ていたミキサーのノブを少し回し、彼女はアンプの上に置かれていた水を含む。
周囲は静まりかえっていた。いつ始まるのか、これは一体なんのイベントなのか……疑問は渦を巻く。しかし答えを知る者はいない。出題者は何も語らない。
広がっていく緊張、輪郭のハッキリしてくる焦燥感、足を埋める重圧、そんなモノが自動車の走る音、電車の停止音をかき消していく。ここ一体だけが現実から切り離される。塗りつぶされていく。染め上げられていく。
ガラスが無音を切り裂く。彼女はピックを持ち、緩やかなテンポでストロークをしていく。メジャー7thコードがジャズコーラスによって、幻想的な、水面の波紋の様に彩られる。
ピックをピックスタンドに取り付け、指で進行を広げていく。親指で曲の性格を決める和音――コードの1番低い音であるルートを動かし、残りの指で彩りをつける。時にはコードをずらし、また時には同時にならす。水面の波紋が増える、広がる、消えていく。
――遠く昔に 音が鳴る
――誰かに向けた 音が鳴る
循環し始めたコードの進行に沿って、彼女が旋律を紡ぐ。マイクテストで聴いた声とはまた違い、淀みのないヌケの良い声。
テンポ良く小節の頭にギターを叩く音が、リスナーをビートに乗せる。
キャッチーなメロディに乗せて聞こえてくるのは、どことも知らない未来に思いを馳せる声。心は現在にはなく、虚無。無。空白……いや白すらも存在しない世界。
――この音彼方へ 届けばいい
メロディは止まり、延々と繰り返されていたコード進行が前に出る。耳が慣れた観衆の中には、このまったり緩やかなビートに体を横に揺らし始めているモノもいた。
余計なモノはいらない。歌を唄い、それを聴く。たったそれだけ。必要最低限の構成で、彼女は世界を組み立て、染め上げる。
いつまでも続くと思われたコードの進行にギターの音がもう1つ聞こえてくる。
いつの間にかにエフェクターで録音されていたコード進行を流し、彼女自身の声で奏でていたメロディを響かせる。たった1人で音の壁を厚くしていく。
静かな演奏。テレキャスターが奏でるガラスの世界。いわゆるクリーントーンと呼ばれるその音色。ジャズコーラスによって揺らぎ焦点がずれた音は、決してアコースティックギターでは奏でられぬ幻想。しかし、エレクトロニックな世界では決して近づく事のできないそのアナログ性。まさに中間。アコースティックエレクトロニックな世界。
彼女が更にアクションを起こす。先ほど弾いていたメロディもエフェクターで録音して、ループし始めたのだ。そして1オクターブ高い旋律を紡ぐ。
単純に考えて、聞こえてくるギターの本数は3本。観客からどよめきの様な歓声が漏れる。数小節かフレーズを繰り返した彼女は、手拍子を始めた。リズムに合わせながら観客を煽る。ギターは3本分聞こえたまま、つまり、また録音してループしている。
この手拍子が、彼女が観客に対して初めて行ったアクションである。隔離され、彼女の世界に内包された観客たちは恥ずかしげもなく手拍子をし始める。徐々に大きくなったのではない。みんなが待っていましたとばかりにし始めたのだ。年齢、性別、立場、そんなモノの壁が消え去った空間。次々と足を止めていくリスナーたち。大きくなる手拍子。
――探している景色に
――響いていたら嬉しいな
観客の生み出すグルーヴ、数分前の自分が奏でたコード、メロディに乗って再開された彼女の旋律。
この2つを繰り返す。
繰り返す、
繰り返す。
繰り返していく。
誰が言ったわけでも無く合唱し始める観客たち。駅周辺の一角。現実の世界から乖離した世界。遠くから眺める人々は異質な視線を向ける。電話中の者はあからさまに嫌な顔をする。しかし彼女らには見えていない、関係のない、知らない世界。
「探している景色に。響いていたら、嬉しいな」
数十回と繰り返されたその言葉を、終末に相応しくなるようなフレーズに切り替えて曲を締めくくった。
テレキャスターのガラスの様な音、観客たち彼女の歌声が、しばらく周囲に響く。
そして爽やかに広がる拍手。盛大では無く、あくまで静かに、余韻に浸っているかのような拍手。
彼女はそんな拍手に特にリアクションを取るわけでも無く、水を口に含む。
次第に拍手は止み、彼女の次の世界を待ちわびる。
彼女はそんな待ちわびている沈黙に応えるかの様に口を開いた。
「ある日ある時、ある人はいつの間にかに離れていきました。原因はなんだったのか、誰が変ってしまったのか……いつもそんな事ばかり考えています」
彼女の誰に向けているのかわからない告白に、人々は黙って聴き入っている。
「この夕暮れの時間。地平線に沈んで行く朱色に染まる太陽は、また昇る。いつか私にもそんな時が来ればいい。繰り返す自問と解答……」
――――!
いつの間にか持っていたピックで鋭いストロークを始める。
先ほどの曲とは打って変わった鋭さ、激しさ。かといってジャズコーラスからはき出される音色は歪んでおらず、6本あるギターの弦それぞれがそれぞれの音を鳴らし、コードを形成していく。
水面は揺らがない。幻想も打ち消す。まるで、今まで形成してきた世界を全て切り刻んでいくかの様なギターの音。ガラスの砕けるような音。
彼女も先ほどとは打って変わった声をあげる。
――バイバイ シェリー
――バイバイ ケリー
――静かに揺れる 手の平は僕のもの
喉の中で歌声を軽く歪ませる。この曲から奏でられる世界は広がらずに、観客たちをすり抜けていく。それも推進力を持って、高速に。
別れの歌詞。
――静かに揺れる 手の平は僕のもの
隔離され、色を失っていた世界は急速に崩壊を始め、観客たちに喧噪が、色が戻っていく。ひとつひとつ再構成されていく社会という概念。流れ始める世間。再開されたそれぞれの日常。乱雑に崩壊していく。虚無、無、何も無い、色すら無い、音のみが生きる世界が消えていく。無いものが消えていく。
手拍子は発生しない。彼女の奏でるビートに体を揺らす者はいない。
しかしそれでいい。誰も疑問に持つ者はいない。
観客たちを元の世界に戻しただけであって、さっきまでが異常だった。これでいい。
――時が流れる その中で
――静かに塵となる
たった1曲で生み出された世界は、たった1曲で塵となって霧散していった。
世界の流動。激流。最後に訪れたのは日常という繰り返しへの解放。
日常に縛られた者が、日常へと解放されていった。
たったそれだけの話である。
Fin.