第9話 黒き雷鳴
クロトが赤黒い炎を灯してから、一週間が過ぎようとしていた。
未だ、その炎を消すことが出来ず、特殊なロープを右足に縛り海面を浮遊していた。船は着実に進んでいるのに、クロトは全く黒い炎を自らのモノに出来そうに無かった。
「くっそ! 何で、消えねぇんだ!」
怒鳴り海面を両拳で叩く。飛沫が上がりすぐに蒸発する。海中に両拳が潜ると、気泡がぶくぶくと激しく沸き立つ。
その様子を船尾から見据えるセラは、ジト目をクロトに向け、
「進歩無いねぇー」
と、呆れ顔で呟いた。一週間この繰り返しだった。両手に炎が灯っている為、食事もままならず、クロトのイライラは頂点に達しようとしていた。
「くっそ! 消えろ! コラァァァァッ!」
拳で何度も海面を叩き、一生懸命炎を消そうとするクロトの姿に、セラはため息を一つ吐いた。
「ケルベロスぅ。何かヒント教えてあげれば?」
「俺に、一体何の助言をしろと?」
「だって、ケルベロスも炎を操るんでしょ? しかも、魔界の炎を? だったら――」
「アレは、俺の扱う炎とは質が違い過ぎる。正直、俺も助言が出来るならしたい所だ」
ケルベロスが、双眼鏡を片手に持ちながら、そう返答した。その言葉にあからさまに残念そうにため息を吐いたセラは、海面を叩くクロトに目を向け、
「ファイト! クロトなら出来るよぉ」
と、声援を送った。
「うががががっ!」
しかし、声援はクロトに届かず、更にクロトは荒れていた。
劫火の炎。
本来、儀式を行い、会得する事の出来る炎。全てを焼き払い、無に返すその力を会得するには、それ相応の器と、強大な魔力が必要とされている。それゆえ、現在この世界にこの炎を使えるのは、魔王であるデュバルのみ。そんな彼ですら儀式を行い、生死を数ヶ月さまよい会得したその力を、儀式も行わずに会得しているなど、ケルベロスには信じがたいモノだった。
だからだろう。ケルベロスも、クロトの様子を何度も気にしていた。
(アレから、一週間……炎が暴走してるにしろ、一週間もあの炎を灯し続けても、魔力はそこを尽きないのか……)
クロトの拳に灯った赤黒い炎を見据え、渋い表情を浮かべた。魔王であるデュバルですら、一回使うだけで大量の魔力を消費する為、極力使わない様にしているというのに。
クロトにデュバル以上の魔力があるとは思えず、一層渋い表情を浮かべるケルベロスに、突然セラの声が響く。
「眉間! シワ寄ってるよ? 悪い癖だぞぉ?」
その言葉に、瞼を閉じると、左手の親指で眉間を押さえ、セラに背を向けた。
「全く。ケルベロスは、考え込むといつもああなんだから」
「うがぁぁぁぁぁぁっ!」
「あんたはうるさい! もう少し静かに出来ないの!」
セラの一声で、クロトも黙り込み、そのまま海に身を任せる様に体の力を抜いた。無駄な力を抜いた事により、水面に横たわる様に浮かぶ。もう何をやっても無駄な気がして、クロトはただ真っ直ぐ空を見上げた。
地球と変わらないその空の青さに、静かに息を吐き、瞼を閉じる。心を落ち着ける様に、無になる様に、穏やかに、その身を流れに任せる。何も考えず――。
「ちょ、ちょっとクロト!」
不意にセラの声が耳に届き、
「うるさいなぁ……」
と、瞼を開くと、何かの口が見えた。大きく鋭利な牙。それが、迫る。
「うおっ!」
とっさに体をよじりその牙をかわすが、そいつはすぐに反転して戻ってきた。大口を開け、鋭い牙を向けて。クロトよりも三倍近く大きな体。サメの様な背びれを揺らしているが、体は茶色の毛に覆われ、水を弾きながら凄まじい飛沫を上げクロトへと直進する。毛に覆われた赤い目が不気味にきらめく。
「クロト! アレは、海の荒くれ者って呼ばれてる生物で、カイオーって呼ばれるモンスターだよぉ」
冷静にそう言うセラに、クロトは必死にカイオーと呼ばれるモンスターの一撃をかわし、叫ぶ。
「も、モンスターって、そ、そう言うの、いるなら、も、もっと――うおっ! 早く言えよ!」
カイオーは間を空けず、繰り返しクロトへと襲い掛かる。ぎりぎりでその牙から逃れているが、つかまるのは時間の問題だった。海の生物に、海中の動きで勝てるわけが無いからだ。ましてや、戦い方など知らないクロトが、どう太刀打ちできると言うだろう。
突っ込んで来るカイオーをかわし続けるクロトの姿に、ケルベロスは小さく舌打ちをした。
(何で、その手の炎を使わない!)
腕を組み、こみ上げてくる怒りを堪えながら、ジッとクロトの様子を見据える。彼が、どう対処するのかを見届けようとしていた。
セラも、そのつもりだったが、流石にそろそろヤバイと思い、ケルベロスの方に顔を向ける。
「ケルベロス……」
「くっ! おい! バカ! 貴様は、何の為にその炎を拳にまとっているんだ!」
セラの言葉に、ケルベロスは溜まっていた怒りを爆発させる様にクロトに叫ぶ。だが、クロトは意外な言葉を返す。
「使えるわけ無いだろ! こんな危ないもん、幾らモンスターだからって!」
その言葉に、更にケルベロスは怒る。
「貴様はバカか! 自分の命を捨てる気か! もう死ね! 今、そこで死んでしまえ!」
怒声を響かせるケルベロスに、苦笑するセラ。流石に、今回はケルベロスの言い分が正しいと、セラも何も言えずにいた。
(くっそ! そろそろ、足が……)
クロトも限界だった。足が重く動かすのが辛い。それでも一向にやむ事の無いカイオーの突進。牙からは逃れているが、何度もカイオーの毛がクロトの体に触れる。その度、体に痺れが走り、体力が奪われていく。これが、カイオーの狩りの仕方だった。その毛から発せられる微量の神経性の毒で、相手を徐々に弱らせていく。
クロトも、このカイオーの罠にはまっていた。
「はぁ…うぷっ……はっ……」
海面から何とか顔を出し、持ちこたえる。だが、息を整えようとした瞬間だった。視界は突如暗くなり、体が吸い込まれる。大量の海水と一緒に。そして、気付く。カイオー以外の何か巨大な生物に。それは、クロトだけでなく、セラやケルベロスの乗った船すらも飲み込もうとする巨大なもの。
この異変にケルベロスやセラも気付いたが、すでに対処出来ないものとなっていた。
「くっ! ダメだ。波が……」
「ど、どうするのよ!」
焦るセラ。ケルベロスもいつに無く焦りが見えた。開かれた大口に木製の船はあがなう事が出来ぬまま、吸い寄せられていく。
(くっ……何とかしないと……)
海面に顔を出し、表情をゆがめながらも考えを張り巡らせる。だが、何も思いつかない。何も浮かばない。思考が完全にストップしたその時、頭の中に声が響く。
“我が力。解放しよう”
声が消えると突如激痛が頭を襲う。頭が割れる様に痛み、突如両手に纏っていた赤黒い炎が消滅した。魔力が切れた――わけではなく。体中に電気が走った様なそんな感覚に見舞われる。カイオーの毒の所為なのか、とクロトは奥歯を噛み締め激痛に耐える。
“ジジッ、ジッ”
突如聞こえた奇妙な音に、クロトは気付いた。その瞬間、右腕に刺す様な痛みが走り、「イッ!」と、思わず腕を上げると、轟音が辺りを包み込んだ。衝撃に大気が震え、波が収まった。
見上げると、大きな風穴が巨大な口の上に空いていた。その周囲が黒焦げ、黒い電撃が僅かに弾けていた。




