第87話 グレイ対ロズヴェル
「しゅ、襲撃だ!」
褐色の肌、尖った耳の魔人族の青年が、慌ただしく声をあげる。町に響いたその声に、治療する者は手を止め、悲しみ泣く者は怒りの眼差しを向けた。
静寂に包まれる中、轟く爆音。間違いなく襲撃は始まっていた。
その音に険しい表情を浮かべるグレイ。彼は腕を組み右手で顎を触る。
考えていた。王国軍の指揮者の事を。
グレイの考えでは二・三日は攻撃は無いと踏んでいた。敵将のグライデンは非常に慎重。故に、アレだけの反撃を受けた直後に進攻してくるなどありえない。元々、勝てる戦しかしないし、不利となればすぐに逃げ出す様な男だった。
眉間にシワを寄せるグレイは、小さく息を吐く。一つの最悪のシナリオ。それが脳裏に浮かんでいた。ここにもう一軍来ると言う最悪の。
しかし、違和感も感じていた。プライドの高いグライデンが増援を求めると言う事は無い。だとしたら、一体誰が。この国の王が増援を送るなど、まずありえない。何故なら、この国で一番プライドが高いのは国王自身。そして、何よりも兵士を使い捨てのコマだと思っている。故に例え討伐に失敗し、全滅しようとも彼とっては関係ない。そんな男が増援など絶対にありえないのだ。
訝しげな表情を浮かべる。もしかすると、軍ではないのか。その考えが頭を過ぎり、グレイは先ほどの青年へと目を向けた。
「相手は何人だ!」
その声に青年は驚き目を丸くする。他にも何人か驚いた顔でグレイを見据える。皆、初めてグレイの声を聞くのだろう。ダリアが驚く位だ。他の者達が驚いても仕方が無い。皆、彼が喋れないと思っていたのだろう。
しかし、そんな彼らの驚きなど関係ないと、グレイは怒鳴る。
「相手は何人だと聞いてるんだ!」
「えっ! あっ……はい!」
緊張。それから、動揺。戸惑いから視線が地面へと向く。唇を噛み締め、拳を震わせる。堅く瞼を閉じる青年は、奥歯を噛み締めたまま答える。
「……とりです」
何と言ったのか聞き取れず、グレイが表情を歪める。
「何だ? もっとハッキリと言え!」
「ひ、一人です!」
グレイの怒声に青年が顔を上げ大声で叫ぶ。その声に皆が驚き、ザワメク。一人で攻めて来たのか、無謀な奴だと。だが、その声に対し、青年は青ざめた顔をする。唇が僅かに震え、彼の喉が小さく動く。
訝しげな表情を浮かべるグレイ。たかが兵一人なら、見張りをしている数十人でどうにかできるだろうと。だが、彼の慌てようは何だ。一体、何が起きていると言う不安が胸をざわめかせる。
その隣りに座るクロトも同じく妙な胸騒ぎを覚えていた。魔族は強い。それは、分かっている。魔人族の魔力。獣魔族の身体能力。龍魔族のブレス。どれをとっても人間に劣っている所など無いはず。なのに、彼の慌てよう。それは間違いなく魔族がやられていると言う事。しかも、ただ一人の兵に。
魔族を圧倒する一人の兵。一体、どんな奴なのか気になった。いや、もしかすると、その人物を知っている。そんな気がした。
「グレイ」
静かにその名を呼ぶと、グレイは背を向けたまま静かに告げる。
「俺が行く。お前はここに居ろ」
「でも――」
「いいか。よく聞け。現状、戦えるのは俺とお前だけだ」
静かな口調だが、何処か荒々しい声質。その声に、クロトは眉間にシワを寄せ、ゆっくりとダリアの方に顔を向ける。
「ダリアさんが居るだろ」
「アイツはダメだ。ロックスの死で、自分を見失っている。錯乱状態だ。
そんな状態では冷静な判断は出来ない。だから、お前しかいない。ここを任せられるのは」
いつの間にか彼の体はクロトの方へと向けられていた。真剣な眼差しが真っ直ぐにクロトを見据え、その手が肩を握る。強く想いを乗せて。その握力に肩が痛む。僅かに表情を歪めたが、クロトはその目を真っ直ぐに見据えた。
「頼むぞ。俺にもしもの事があった時は、皆を逃がす事だけを考えろ。決して戦おうなどと思うな」
強い眼差し、強い口調。それに、クロトは渋々首を縦に振った。
それから、グレイの手が離れ、ゆっくりと反転し走り出す。轟音が鳴り響く場所へと向かって。
背中を見据えるクロトは眉間にシワを寄せる。すると、その頭の中に声が響く。
(危険だな)
「ベル? 何が危険なんだ?」
頭に響いたベルの声に、クロトが独り言の様に呟く。すると、少し間が空き、ゆっくりと答える。
(アイツは何もかも背負い過ぎている。ジンの事も。この町の事も。
まぁ、対等な立場の奴がここには居ないから仕方ないと言えば、仕方ないが……)
淡々と述べるベルに、クロトは目を細める。その言葉を聞いて少しだけ心配になる。何事もなければ言いと。
洞窟から町へと続く緩やかな坂。
先刻の戦いで土は抉れ、木々が倒れる。黒焦げ、砕けた地面。その土をグレイは踏み締めた。
転がるのは傷付き倒れる魔族達。腕を、足を、砕かれ、皆呻き声だけを上げる。そんな中、蹲る魔族の背中に座る一人の男。手に持った鋼鉄の棍棒を地面へ突き立て、堂々とした不適な笑み。
威圧的な紫の瞳。それが、坂の上に立つグレイを見上げる。
突き立てた棍棒を右手に握り、彼はゆっくりと腰を上げる。棍棒の先が地面へと減り込み、亀裂が生じ、土が盛り上がった。浅く息を吐き、背筋を伸ばす。堂々と胸を張り、不適な笑みを浮かべグレイを睨む。足元に転がる龍魔族の青年。口から血を吐き、苦痛に表情を歪めた。その右手がゆっくりと伸びる。その男の左足へと。
だが、その手は届かない。左足を掴む前に、彼の足が持ち上がり、やがて落ちる。龍魔族の青年の右手へと、踵から。
鈍く痛々しい音。そして、鮮血が弾けた。地面が砕ける音と骨が砕ける音が重なる。
「ぐああああっ!」
龍魔族の青年の叫び声。その声に、グレイの表情が僅かにだが歪む。怒りがその目に宿る。しかし、それを心の奥、腹の底へと押し込み、奥歯を噛み締めたまま口から吐息を吹く。
「不気味な仮面だな。魔族の内ではやってんのか?」
男の静かな問いかけ。その間も彼の左足は龍魔族の青年の手を踏み締める。彼のその行為に、グレイのコメカミに青筋が浮かぶ。拳が僅かに震え、腕の血管が浮き上がる。それでも、怒りを堪えた。
彼の言葉に答えず、黙り込むグレイ。呆れた表情で肩を竦めた男は、鋭い眼差しをグレイへと向ける。
「まぁいい。俺はロズヴェル。一応、名乗っておくぜ」
(……ロズヴェル? 聞いた事の無い名だ)
グレイは訝しげな表情を浮かべる。彼の名を知らない。これでも、王国軍の情報はある程度知っている。
現在、王国軍は七つの部隊プラスの特殊部隊から成り立つ。軍の兵数はおおよそ三万前後。合計二十五万程の兵が国に仕えている。
各部隊には隊をまとめる隊長が一人と三人の副将が配置される。グレイは各隊の隊長と副将の名前まで全て覚えていた。だが、ロズヴェルと言う名の隊長も副将も聞いた事が無い。一人で十数人の魔族を倒す程の実力者。間違いなく隊長、副将クラスのはず。
違和感と疑念。怪しむ彼の眼差しに、ロズヴェルは静かに笑う。その声に一層グレイの表情は険しくなる。
「警戒してんのか? それとも、ビビッたか?」
挑発的な言葉にグレイの眉がビクッと動く。眉間にシワを寄せ唇を噛み締める。不快だった。彼の言動、その表情全てが。挑発だと分かっていても、その感情だけは抑える事が出来なかった。
睨みを利かせるグレイに、ロズヴェルは静かに棍棒を構える。足場が悪いその場所で、静かにゆっくりと。その構えにグレイも静かに腰を落とし、剣を抜く。
互いの姿をジッと見据え、息を呑む。重苦しい空気。漂う殺気が混ざり合う。
互いに動き出すタイミングを探る。鋭い視線。赤い瞳と紫の瞳が交錯し、静かに二人の右足が半歩前に出る。
音が消えた。風がおさまったのだ。無音の中で静かに二人が地を蹴る。二人の足音だけが響く。そして、衝突。振り下ろされた鋼鉄の棍棒と横一線に振り抜かれた剣が――。金属音を響かせ火花を散らす。
衝撃で突風が吹き荒れ、地面に横たわっていた魔族は転がる。土煙が巻き上がり、二人は互いの武器を交え顔を近づける。不適な笑みを浮かべるロズヴェルに対し、グレイは表情を強張らせる。
武器を交えてハッキリと分かる。この男は強いと。重々しい手応え。それが、剣越しに伝わる。刃が棍棒と擦れ合い、軋む。それ程、彼の力は強かった。
このままでは何れ押し切られる。そう判断したグレイは、バックステップで距離を取った。
彼の突然の行動に、前のめりになるロズヴェル。それでも、すぐに棍棒の先を地面へと突き立て、体勢を整える。
後ろに跳んだグレイは足元へと土煙を巻き上げ動きを止めた。重々しい一撃で腕が僅かに震える。本当に、こんな奴が今まで無名だったのか、と疑問を抱く。この実力なら確実に隊長クラス。間違いなくこの部隊の隊長グライデンよりも強い。そんな男が何故――。
疑念から眉間にシワが寄る。だが、考える猶予は与えず、ロズヴェルは地を蹴り連続で突きを見舞う。
風を切る鋭い音。
遅れて金属が擦れる音。
何とか剣の平で棍棒を受け流す。
顔の横で散る火花。
耳元を過ぎる風音。
その一撃一撃に凄まじい殺気が込められ、グレイは静かに後退する。
防戦一方になるグレイに、追い討ちをかける様に彼の体を精神力の薄い光が包む。何か来る。そう判断し、グレイは身を構える。
棍棒が引かれ、踏み出された左足へと重心が移動した。棍棒の表面に僅かに迸る雷撃。
「猛虎雷砲!」
全体重を乗せ、棍棒が突き出された。
虎の咆哮の如く、雷鳴が轟く。瞬き。蒼い雷撃が大気を裂く。上半身を捻り大きく仰け反るグレイ。その体を掠める雷撃。衣服が裂け、仮面が弾け飛ぶ。前髪が焼け焦げ、異臭が漂う。
大きく抉れる大地は黒煙を噴き、突き出された棍棒がまとう稲妻が爆ぜる。胸を僅かに焦がすグレイはその威力に驚愕していた。だが、すぐに我に返り、その場を飛び退く。
一瞬だった。突き出されてから雷撃が飛ぶまで。光速の突き。しかも、遠距離攻撃も可能な。
虎の咆哮の如く轟いた雷鳴。砲弾の如く放たれた雷撃。それを受けていたらと思うと寒気がした。
ほんの一瞬だった。彼がかわそうと判断したのは。もちろん、完全に避け切れないと、剣の平で僅かに突きの軌道を変えた。それでも、雷撃は体を掠め、衣服を裂き皮膚を焦がした。