第75話 完成される呪い
闇夜に聞こえる波の音。
砂浜で対峙するケルベロスとロズヴェル。
冷たい潮風が吹き抜け、二人の衣服の裾が揺れる。ケルベロスの黒髪が僅かに揺れ、ロズヴェルはずれ落ちたメガネを右手で上げる。穏やかな細い眼を向けるロズヴェルに対し、相変わらずの冷ややかな眼差しのケルベロス。
静かに対峙する二人の対照的な眼差しは交錯し、ケルベロスはその視線から逃れる様に瞼を閉じ小さく吐息を漏らした。今日、何度目のため息だろうか。そんなため息に眉をひそめるロズヴェルは申し訳なさそうな表情を見せる。会って間もないケルベロスに頼むべき事では無いと分かっているのだ。だが、一度引き受けると言った以上、ケルベロスは嫌そうな顔を見せながらも静かに告げた。
「それで、その少女は何処に?」
不満そうな声だったが、それでもロズヴェルは安心した様に笑みを浮かべる。
「彼女は今、私の教会に居ます。セラさんと一緒に」
「……なぁ。一つ聞くが……」
「はい。何ですか?」
静かなケルベロスの口調に、ロズヴェルはきょとんとした表情を見せ首を傾げた。そんなロズヴェルに相変わらず険しい表情を向けるケルベロスは町の方へと顔を向け、静かに口を開く。
「無事なんだろうな? セラもその子も」
「えぇ。無事ですよ? どうして、そんな事聞くんですか?」
ニコヤカに答えるロズヴェルに、ケルベロスの表情が曇る。その表情にロズヴェルも怪訝そうに眉間にシワを寄せた。ケルベロスが何を考えているのか分からないが、ジッと町の方を見据える。ロズヴェルは町の方に何かあるのだろうかと、顔を向けた。
何も変らない闇の中に薄らとだが煙が見え、町の方が少しだけ明るんで見えた。違和感と妙な胸騒ぎを覚え、ロズヴェルは表情をしかめる。嫌な予感が脳裏を過ぎり、ロズヴェルが走り出す。その行動にケルベロスは小さく舌打ちをし、ロズヴェルの後を追った。
暗がりの中を駆ける二人。そして、二人は町へと足を踏み入れる。石畳の街道を駆け抜け、最短距離で教会を目指す。闇を照らす明かりは教会に近付くにつれ大きくなり、ロズヴェルの胸騒ぎは一層大きくなる。無事で居てくれと願い。何故、自分はあの時教会を離れたのだろうかと悔やんだ。
教会に近付くと、人だかりが出来ていた。そして、その向こうには轟々と燃え上がる教会の姿があった。それはまさしくセラとレベッカがいる教会だった。
呆然とその光景を見据えるロズヴェルに遅れてケルベロスがその場に辿り着く。僅かに呼吸を乱し、燃え上がる教会を見据えるケルベロスは眉間にシワを寄せ、教会の前の道に群がる武装した集団を睨んだ。
「くっくっくっ……撲殺牧師。昼間は世話になったな」
「…………」
何も言わず俯くロズヴェル。その拳が僅かに震え、その背中に憎悪が滲み出ていた。明らかに今までと違う雰囲気にケルベロスは表情をしかめる。その異変に武装していた集団も気付いたのか、皆押し黙った。
異様な空気に逃げ出そうとする者も居たが、足が動かない。ロズヴェルの放つ殺気に完全に膝が言う事を利かなくなっていた。
「や、ヤベェー……」
「何だ、アイツ……」
口々にもれる震える声。
その中で、ゆっくりとロズヴェルは動き出す。足を引きずりゆっくりと一歩、また一歩と武装した集団へと迫る。俯いたまま、ゆっくりと静かに。
張り詰めた空気。漂う殺気。全てを呑み込むその憎悪。身もよだつその気配に、ケルベロスは息を呑み奥歯を噛み締めた。
「くっ! やっちまえ!」
一人の男が叫ぶと、武装した集団は声を上げ武器を振り上げる。だが、誰一人動けない。皆、膝が震えていた。
静かに歩みを進めるロズヴェルのその手に鋼鉄の棍棒が召喚され、ロズヴェルはそれを引き摺る。不気味な音を響かせ、火花を散らせるその棍棒。やがて、その音が止み、ロズヴェルに一番近い所に居た武装した男の頭が大きく跳ね上がる。
「がはっ!」
血を吐き吹き飛んだ男の体が地面を転げる。顎が割れ、大きく口を開いたまま血を吐く男の姿に他の集団から悲鳴の様な声が上がる。
「こ、殺される!」
「に、にげ、逃げろ!」
口々に声を上げるが、逃げる事など出来ない。それを許さぬ様に鋭く速く棍棒が突き出される。目にも止まらぬ一撃に次々と男達の体が吹き飛ぶ。皆顎を砕かれて。のた打ち回る男達を見下すロズヴェルは、静かにその顔を踏み締め棍棒を振り上げる。
その瞬間、何処からともなく幼い少女の声が響く。
「ダメです! ロズヴェル! 殺生は!」
その声にロズヴェルの動きが止まる。
怪訝そうな表情を浮かべたケルベロスがその声の方へと顔を向ける。燃え上がる教会の裏手からゆっくりと姿を見せたのは小さな少女とセラの二人だった。その少女は寝巻き姿で、煤で汚れた金色の髪を揺らし裸足でロズヴェルの方へと走り出す。蹲る人達の合間をぬい転びそうになりながら、その小柄な体でロズヴェルへと突っ込みその体へと抱きつき押さえ込む。
「ロズヴェル! ダメです! 人を殺しちゃ! あなたは、神に仕える身なのですよ!」
その金色の髪を揺らし、ロズヴェルの胸へと顔を埋め、その背中に腕を回す少女の声が響く。今にも泣き出してしまいそうな震えた声が。その姿を見たケルベロスは悟る。彼女が、ロズヴェルが守ろうとした少女なのだと。だが、そんな少女の声すらロズヴェルには届かない。左手で彼女の顔を叩き、自らの体へとしがみつく彼女の体を弾き飛ばす。
その行動にセラは叫ぶ。
「レベッカちゃん!」
そして、ケルベロスは小さく舌打ちをし走り出す。その右拳へと蒼い炎を纏わせて。その瞬間、セラはケルベロスがそこに居る事に気付き、声をあげ叫ぶ。
「ケルベロス! お願い! レベッカちゃんを!」
「分かってる!」
セラの声へと叫びロズヴェルへと向かう。その漆黒の髪を揺らし、赤い瞳を閃かせて。
ロズヴェルは弾き飛ばしたレベッカへと体を向ける。石畳の街道に倒れこむレベッカ。顔を叩かれ意識を失ったのか、うつ伏せに倒れ動かない。ケルベロスの地を蹴る音だけが響き、ロズヴェルの高らかと振り上げられた右腕が静かにレベッカへと振り下ろされる。
「くっ!」
その瞬間、ケルベロスは力強く地を蹴り、レベッカへとダイブする。まだ距離があるが、それでもダイブしなければ間に合わないとケルベロスは判断したのだ。しかし、まだ距離が遠く、ケルベロスは右拳を振りかぶる。
「くっそ! いい加減にしろ! 蒼炎拳!」
ダイブしながら右拳を振り抜く。拳を覆っていた蒼い炎が前方へと放たれ、ロズヴェルの振り下ろした鋼鉄の棍棒へと直撃する。蒼い炎が僅かな破裂音と閃光を広げ、振り下ろされた棍棒の軌道を少しだけそらした。振り下ろされた棍棒の先が火花を散らし、衝撃音を広げる。横たわるレベッカの頭を僅かにそれ、石畳の地面へと棍棒は突き刺さっていた。少量の砕石が跳ね上がり、石畳の地面には深い亀裂が走る。
それに遅れ、ケルベロスは地面とレベッカの腹部の隙間へと左手を差込、そのまま抱き上げ石畳の上を転げる。砂埃が舞い上がり、風が吹き抜けた。オールバックにしていたロズヴェルの黒髪は乱れ、額を覆い、いつの間にか掛けていた黒縁メガネは無く、開かれたその目の奥に見える灰色の瞳がジッとケルベロスを見据えていた。
「くっ……。そう言う事か……」
ケルベロスはここで理解し、静かに立ち上がり、叫ぶ。
「セラ!」
と。その叫び声にケルベロスの方に向かっていたセラは足を止め、驚く。
「わわっ!」
空を舞う小柄なレベッカ。その体を受け止めたセラは後方へと二度転がり、左手で頭部を押さえながら体を起こす。
「うぅっ……。あ、危ないじゃない! ケルベロス!」
ケルベロスの方へとセラは視線を向ける。静かで真剣な面持ちのケルベロスは、後方に投げ出した左腕を静かに引き戻しその拳へと蒼い炎を灯す。その赤い瞳はただ一点を見据える。目の前に佇むロズヴェルの灰色の瞳を。
まとう禍々しいオーラ。気付くべきだった。あの雰囲気が変った瞬間に。あの瞬間、ロズヴェルの体に刻まれた呪いは発動した。あくまで、ケルベロスの推測だが、あの呪いは受けた者の憎悪によって発動されるモノ。どれ程の強い憎悪によって発動するのかは定かではないが、間違いなくあの瞬間ロズヴェルが放ったその殺気、憎しみは相当のモノだった。そして、その呪いは受けた者の自我を奪い、破壊衝動に駆られる。
それにより、ロズヴェルは自分の守るべき存在であるレベッカに手を上げたのだ。
険しい表情を見せるケルベロスは、セラへと背を向けたまま叫ぶ。
「セラ! ここから離れろ!」
「えっ? で、でも……」
「いいから。砂浜にある小屋にクロト達がいる。そこに隠れてろ」
「う、うん。わ、分かった」
厳しい口調のケルベロスにセラは静かに答え頷くと、レベッカの体を抱き上げ走り出す。
静まり返るその場に流れる冷たい風。ケルベロスの両拳に灯した蒼い炎が揺らぎ、火の粉が僅かに舞う。街道に横たわる男達など気に留める様子もなく、ケルベロスが拳を構えると、その視界へと迫る。棍棒の先が。
「くっ!」
一瞬の事だったが、ケルベロスは何とか反応し上半身をそらしそれをかわした。だが、すぐに棍棒は引かれ、また放たれる。風を切る音だけが聞こえ、ケルベロスはその棍棒を手の甲で弾き軌道を逸らす。鋭いその突きに押され、ケルベロスは徐々に後退していく。それでも、強い眼差しでロズヴェルを睨みつけ、奥歯を噛み締め、拳を強く握る。
「いい加減、目を覚ませ!」
突き出された棍棒を左手で弾いたケルベロスは一気に地を蹴り間合いを詰める。だが、その瞬間、ロズヴェルは左肩からケルベロスへと突っ込み体をぶつける。
「ぐっ!」
二人の体が激しく衝突し、弾かれまた距離が開く。よろめくケルベロスが表情を引きつらせ、視線をロズヴェルの方に向ける。その視界に飛び込む棍棒の先。すでにロズヴェルは棍棒を突き出していた。
整わない体勢のまま、ケルベロスは反射的に右手で棍棒を掴む。だが、掴むのが少し遅れた為、棍棒の先が僅かに腹部に減り込む。
「うぐっ……」
腹部を襲う鈍い衝撃と圧迫感。喉元からこみ上げる胃液。思わず、全てを吐き出しそうになるが、それを堪え、ケルベロスは両足へと力を込める。二人の動きがピタリと止まり、大きく肩を揺らすケルベロスはジッとロズヴェルの顔を見据え、小さく舌打ちをする。
すでに呪いは完成した。この状態から元の状態に戻す事は不可能だと、ケルベロスは判断した。
「ロズヴェル。お前との約束は守る。何があってもあの娘は守ってやる」
ケルベロスは静かにそう告げると、腰へと力を込め、右手で掴んだ棍棒を自分の方へと引く。それにより、ロズヴェルの体がケルベロスの方へと引き寄せられ、それと同時にケルベロスは握った左拳をロズヴェルの右頬へと叩き込んだ。
鈍く重々しい打撃音が響き、ロズヴェルの体は吹き飛び、石畳の上を激しく転がった。呼吸を乱すケルベロスは手元に残った棍棒を燃え上がる教会の方へと放り投げると、ロズヴェルへと背を向け走り出した。
ケルベロスが立ち去り、静まり返ったその一帯に響く二つの足音。金属と金属の擦れる音。その足音の主は兵士だった。この国の――。そんな彼らは横たわるロズヴェルの前へと膝を着くと静かに告げる。
「お迎えに上がりました。第三兵団隊長。ロズヴェル様」
「…………あぁ」
その声に静かに返答したロズヴェルは、ゆっくりと体を起こす。灰色の瞳に色が宿る。紫色の恐ろしい瞳。鋭く釣りあがったその目を開き、ロズヴェルはオールバックにした髪を右手でかき乱す。
「くっ……くくくっ……。ようやくか……」
静かに笑うロズヴェルは、そう呟き自分のその手を見据える。その体からあふれ出す殺意と激しい憎悪。口元へと浮かんだ不適な笑み。そして、静かに唇が開く。
「皆殺しだ……。魔族は全員。この俺の手で」
と。濁った背筋をぞっとさせる様な声が響き渡った。