第70話 ミィの覚悟
ノーブルーを出て早二週間が過ぎようとしていた。
すでにゼバーリック大陸は見えなくなり、前方には次なる大陸バレリアが薄らと見える。
バレリア大陸。ゲートの北西に位置する三日月形の大陸。山や森の多かったゼバーリック大陸と違い、山脈地帯が少なく、森も少ない。その代わり砂浜が多く、砂浜が大陸を囲んでいる。故に海水浴目的の観光客が多い大陸で、楽園だと一部の人から呼ばれている。
その大陸を見据えるパル。右手で頭に被った海賊ハットを押さえ、長い黒髪を激しく揺らすパルは、僅かに目を細め、その綺麗な顔の眉間にシワを寄せる。複雑だった。このまま、あの大陸にクロト達を連れて行っていいのだろうかと。
これでも、全ての大陸を海賊として見て来た。雪が降り続ける大陸。暖かい気候が続く大陸。全ての大陸を見て、様々な町を巡り、色んな人に出会った。だからこそ、パルは思う。今のクロト達にとってバレリアが一番危険な大陸だと。
悩み苦しんでいた。バレリアへの航路を勧めたのはパル自身だった為、本当にこれでよかったのかと。瞼を閉じ唇を噛み締めるパルの背後に、朱色のショートの髪を揺らすミィが静かに足を進める。激しい揺れに、バランスをとる様に右へ左へと上半身を傾けるミィは、「おっととと」と声をあげた。その声にパルは静かに瞼を開くと、振り返り不安そうな表情を向ける。
「どうしたんスか? そんな顔して?」
パルの不安げな表情にミィは無邪気な笑みを浮かべる。昔と変わりないミィのその笑顔に、パルは静かに息を吐き笑みを浮かべた。ミィの笑顔を見ていると、自然と心が安らぐ。昔からそうだった。だから、パルはミィと一緒に居たし、ずっと一緒に居たいと思った。
静かに息を吐いたパルは、ミィへと穏やかな目を向ける。
「相変わらずだね。あんたは」
「そうッスか?」
パルの声に首を傾げるミィ。本人的には大分大人になったつもりだった。パルと別れた数年。商人としても成長し、これでも色々経験してきた。人の悪い所も沢山見て来た。色々変わってきたと思っていたが、根本的な所は変わっていなかったのだろう。だから、パルにはミィは昔と変わらぬ姿に映っていたのだ。
穏やかな表情でミィを見据えるパルは、髪を右手で耳へと掛けると小さく鼻から息を吐き、渋い表情を見せた。この事はちゃんと伝えておくべきだろうと、言う考えに至り、静かに口を開く。
「これから行くバレリア大陸の事なんだが……」
パルがそう言うと、それを遮る様にミィが声を上げる。
「その事なんスけど……」
眉を八の字に曲げ、困ったような笑みを浮かべるミィ。その表情に、パルは不思議そうな表情を浮かべ首を傾げる。
すると、ミィは顔を横へと向け、荒れる海へと視線を向け寂しげな表情を浮かべた。その表情を見た瞬間、パルの目は真剣なモノへと変わる。そして、甲板を軋ませミィの前まで足を進めると、その肩を両手で掴み、自分の方へとミィの顔を向け、その目を真っ直ぐに見据え問う。
「あんた。何考えてんの? 変な事だったら、許さないよ」
「ち、違うッス。変な事じゃないッス」
「じゃあ、何? あんたが、そう言う目をする時はいっつも……」
パルが言葉を濁し、唇を噛み締める。幼い頃を思い出す。まだミィと一緒にスラムで暮らしていた時の事を。その頃、一度だけミィが大怪我をして帰ってきた事があった。その時と同じ表情をしていた。後になってパル知ったが、その日ミィは一人で商人の商品を奪おうとして失敗し、リンチにあったそうだ。
唇を噛み締め怖い顔を見せるパルへと、ミィは僅かに目を伏せ拳を握る。ミィも覚悟があった。そして、強い眼差しをパルへと向け静かに口を開く。
「自分、クロト達とはここで別れるッス」
ミィの言葉にパルは訝しげな表情を浮かべる。一瞬何を言っているのか分からず、困惑するパルに、ミィは俯き悲しげな表情を浮かべた。そんなミィへとパルは不思議そうな顔で尋ねる。
「ど、どう言う事だ?」
「クロト達は良い人達ッス。でも、自分、商人として自立して頑張りたいんス。だから、バレリアには一緒に行かないッス」
「なら、これからどうするんだ?」
「パルの船で一船員、一商人として雇って欲しいッス」
「私は構わないが、クロト達には話したのか?」
眉間にシワを寄せたまま問い掛けると、ミィは小さく頷く。
「セラとルーイットには伝えたッス」
「クロトとケルベロスには?」
「クロトは……その……」
言い辛そうなミィにパルが首を傾げると、ミィが苦笑し右手で頬を掻く。その表情に一層怪訝そうな表情を見せたパルに、ミィは呆れた様に小さくため息を吐く。
「クロトは船酔いでダウンしてるッス」
「ふ、船酔い? アイツ、船に弱いのか?」
「船って言うか……乗り物全般苦手みたいッス」
「そ、そうなのか……」
呆れるパルが失笑すると、ミィは更に複雑そうな表情を向け目を細める。その眼差しにパルも目を細める。ケルベロスの事だろうと、パルは分かっていた。困った表情を見せるパルは、眉間にシワを寄せる。
「まぁ、ケルベロスは言わなくても大丈夫だろ?
元々、人間嫌いだし、ミィが抜けると言えば喜ぶだろ」
「そうッスね……」
ションボリとするミィの頭をパルは優しく撫でる。朱色の髪が激しく乱れ、ミィは頬を膨らし不満げな表情を向ける。
「やめるッス! クロトみたいな事しないで欲しいッス」
「へぇーっ。クロトもよくこうするのか?」
妙に嬉しそうに笑みを浮かべながら一層激しくミィの頭を撫で回す。
「痛いッス! クロトはもっと優しく撫でるッス。
てか、何で、そんな嬉しそうなんスか?」
「べ、別に、そ、そんな顔して無いだろ!」
ミィの言葉に慌てた様に頭から手を離したパルは、顔を真っ赤にして全力で否定する。その言動にミィはキョトンとした表情を浮かべ、目を細める。パルがこんなにも慌てた所を見るのは久しぶりで、ミィもスッカリ忘れていたが、派手な服装をする割に恋には奥手と言うベッタベタな性格だと言う事を。しかも、その言動が分かりやすい為、すぐにパルが好きになった相手を特定出来る。
久しぶりにその事を思い出し「ぷっ」と笑いを噴出すミィは、右手で口元を押さえニヤニヤした目でパルを見据える。そんなミィへと背を向けるパルは海賊ハットの縁を掴み顔を隠す様に深々と被った。だが、その耳が真っ赤な為、図星なのだろうとミィは確信し、この船で再会した時の事を思い出し声を上げる。
「この船で再会した時は、あんなに危険だなんだって言ってたのに……。
はっ! まさか、クロトは良い男だから、恋する危険がって事ッスか?」
「ち、違う! ば、バカな事言ってんじゃないよ!
だ、大体、あ、あんな優男の何処が良いって……」
大声を上げるパルは腕を組みソッポを向く。その顔を真っ赤に染めて。だが、その時、その視線が一人の少年とぶつかる。揺れる甲板で手すりに掴まり気持ち悪そうにそこに佇む黒髪を激しく揺らす、その少年の姿にパルは驚き頭から湯気を噴出させ言葉にならない悲鳴をあげる。
「――っ!」
「ど、どど、どうしたんスか?」
その声に驚くミィが振り返ると、そこにいたのはクロトだった。青ざめた顔で手すりに掴まり、引きつった笑みを浮かべる。
激しい揺れにクロトの気分は最悪だった。胃がムカつき、喉元へと上がってくる胃酸。今にも吐き出しそうな勢いのモウロウとするクロト。二人がどんな会話をしていたのかは聞き取れなかったが、自分の名前が出てきた事とパルが大声を上げたのは分かった為、何か文句を言われているモノだと解釈し、引きつった笑みを浮かべ弱々しく右手を挙げる。
「ご、ごめん……。ホント、アレは悪かったと思ってる……」
「はぁ?」
突然謝るクロトにパルとミィが間の抜けた声をあげる。突然過ぎて何故謝られたのか分からなかった。その為、顔を見合わせ首を傾げる。
一方、クロトはゼバーリック大陸を出た時、パルに言った一言をまだ怒っているモノだと勘違いしていた。だから、謝ったのだ。だが、反応が薄い為これじゃないのだと、クロトは分かったがそれ以上考える事が出来ず、「うぷっ」と、両手で口を押さえる。
「わわっ! こ、ここで吐いちゃダメッスよ!」
「気持ち悪いなら、部屋で寝てろ!」
「ううっ……よ、酔い止めを……も、もら――うぷっ!」
「わわわっ! よ、酔い止め、い、今出すッスから!」
今にも吐き出しそうなクロトの姿に大慌てでカバンから酔い止めを取り出すミィ。パルも慌ててクロトへと駆け寄り、その背中を優しく擦った。
「ず、ずびばぜん……」
「い、いや、謝るのはいいから、とっとと部屋に行くぞ」
「全く……世話が焼けるッス」
ミィは小さく吐息を漏らし肩を落とす。だが、すぐに何かを思いついた様に顔を上げると、ニヤニヤと笑みを浮かべ、酔い止めの入った瓶をパルへと渡す。その行動に、クロトへと肩を貸すパルは怪訝そうな表情を浮かべミィへと目を向ける。
「な、何だこれは?」
「酔い止めッス! 今、クロトは弱ってるッス! チャンスッス!」
パルの耳元でそう囁くミィへと、パルは顔を真っ赤する。そして、クロトの手を離すと、ミィの方へと顔を向け大きく手を振りながら否定する。
「ち、違うって言ってるだろ! そんなんじゃ――」
と、その時、『ゴンッ!』と鈍い音が激しい波の音の合間に響き渡り、ミィが「あっ」と小さく声を漏らす。その視線の先ではクロトがうつ伏せに倒れていた。パルが手を離した事により、クロトは顔面から甲板へと倒れこんだのだ。
甲板へと僅かに広がる血に、パルとミィの顔が僅かに青ざめる。
「く、クロト!」
「し、し、しし、確りするッス!」
二人の声が響き渡った。横たわるクロト。鼻を思いっきり強打し、鼻血が出ただけで特に命に別状は無かった。ただ、その日、その時の事がクロトの記憶からはバッサリと消えて去った。
静かな一室。精神統一を続けるケルベロス。激しい揺れなど関係なく、丸椅子に胡坐を掻きいつものスタイルで両手の指先へと蒼い炎を灯すケルベロスに、ドアの向こうから静かな声が響く。
「ちょっと良いかな?」
「ああ……」
妙に大人しげな女性の声。その声を聞き、すぐにケルベロスはそれがセラであると気付いた。そして、セラが何か悩んでいる事もすぐに分かった。
ドアが軋み開かれると、そこにはケルベロスの読み通りセラが立っていた。浮かない表情、寂しげな眼差しをしたセラは、静かに部屋へと入ると、肩口まで伸ばした茶色の髪の毛先を右手で弄り赤みを帯びた瞳でケルベロスを真っ直ぐに見据える。
だが、ケルベロスは精神統一を続けたまま微動だにしない。何かを聞くわけでもなく、ただその場で動かず蒼い炎だけを指先に灯したまま。
「ミィちゃんの事だけど……」
その静寂の中でセラの乾いた唇が静かに開かれ、か細い声がケルベロスの耳に届く。ずっと、泣いていたのだろうか、声が僅かにかれている様に思えた。だが、ケルベロスはそれでも答えない。
「ここでお別れだって……」
今にも泣き出しそうな声。ずっと一緒に旅をしてきたミィがいなくなるのが、寂しかった。だから、自然とセラの頬を涙が伝う。しかし、ケルベロスはそんなセラに冷たい口調で言い放つ。
「本人がそう決めたなら、それでいいんじゃないか」
「でも、一緒に――」
「それは、成り行きだ。本来なら、人間であるミィが魔族の俺達と一緒にいるなどおかしいな事だ」
静かで落ち着いた口調。分かってはいる。人間と魔族の間にはそれだけ深い溝、見えない壁があるのだと言う事は。セラも正直、人間が怖いと思う事がある。でも、魔族と人間は共存していく事が出来ると、言う事をその目で見た。中立都市であるローグスタウンで、港町ノーブルーで。人間と魔族は一緒に暮らしていた。中立だから、争ってはいけないと言う決まりがあるのかも知れないけど、それでも人間と魔族は共存していた。だから――
「セラ様。ハッキリと言います。次の大陸、バレリアで、その様な考えですと、死にますよ」
静かにケルベロスの瞼が開き、冷酷で冷ややかな眼差しがセラへと向けられる。全てが凍りつく様な、そんな印象を感じ、涙を流すセラは息を呑む。初めて見る。ケルベロスがこんなにも殺気だった風貌を見せるのは。
それ程、次に向かう大陸、バレリアが危険な場所なのだと、ケルベロスは分かっていた。