第66話 無駄な時間
相変わらず船は静かに進む。
アレから数日。波も風も緩やかな為、船は殆ど進んでいなかった。流石のパルもこのままではいけないと、頭を抱えている中、クロトはケルベロスと初めての手合わせをしていた。ケルベロスの傷が殆ど完治した為、相手をして欲しいと頼まれたのだ。
ケルベロスから頼み事をされるなんて初めての事だった為、最初は戸惑っていたクロトだったが、それでも快く引き受けた。クロトも直にケルベロスと言う男の強さを知っておきたいと思ったのだ。経験や才能、戦闘能力、どれをとってもケルベロスがクロトよりも圧倒的に高い。だが、ケルベロスは知っている。クロトの潜在能力の高さを。あの地獄の炎である業火を使うだけの魔力量を持つからだけではなく、明らかに戦いを重ねる度に強くなっている印象があった。
お互いにお互いを意識する中で行われる初めての手合わせ。広い甲板に二人、静かに対峙する。緩やかな潮風が二人の黒髪を撫で、静けさが漂う。
息を呑むのはセラとルーイット。ケルベロスの性格を二人共よく知っている為、少々不安そうな表情でクロトを見据えていた。二人の心配は、クロトがケルベロスに瞬殺されるんじゃないか、と言う所にあったのだ。
そんな心配そうな眼差しを受け、困り顔のクロトは目を細めケルベロスの顔を見据える。とりあえず、ケルベロスも本気では無いだろうと、安心するクロトは軽く屈伸運動を繰り返す。一方でケルベロスも両手首を回し静かに準備運動をしていた。落ち着いた様子のケルベロスは数分間の準備運動を終えると、静かに両手に蒼い炎を灯す。両手を包む美しい蒼い炎にクロトは表情を引きつらせる。一瞬だが頭に過ぎる不安を払拭する為、クロトはケルベロスへと問う。
「え、えっと……手合わせ……だよね?」
「ああ。そうだが?」
「だよね。まさか、本気でなんてないよね?」
笑顔でそう言うクロトに訝しげな表情を浮かべるケルベロス。妙な間が空き、ケルベロスは呆れた様に小さく吐息を漏らすと、
「手合わせは本気でやらなきゃ意味が無いだろ」
と、面倒臭そうに首の骨を鳴らしながら告げる。目を細めるクロトは「ですよねぇー」と小声で呟き、遠くを見据える。ケルベロスが入念に準備運動をしている事から、そんな気がしていた。呆然とそして悲しげな表情のクロトに対し、ケルベロスは静かに息を吐くと真剣な顔つきで言い放つ。
「今日は、お前に肉弾戦を教えてやろう」
「いや、結構です」
即答するクロトにケルベロスは鋭い目を向ける。明らかに怒りの見え隠れするケルベロスの目から視線をそらしたクロトは目を細めた。嫌そうなクロトに対し、ジト目を向けるケルベロスは拳を握ると小さく息を吐く。
「仕方ないな……なら、お前を本気にさせればいいわけだな」
「は、はぁ?」
驚くクロトを無視し、ケルベロスは甲板を駆ける。両拳に蒼い炎を灯したまま。迫るケルベロスの姿に、クロトは慌てて身構え右拳を握り「仕方ないなぁ」と、諦めた様に呟くと、静かに息を吐き叫ぶ。
「業火!」
と。だが、その声と裏腹にクロトの右拳には赤黒い炎は出ていなかった。
「あれ?」
驚くクロトの奇怪な声が響き、ケルベロスの額に青筋が浮かぶ。そして、左足を踏み込むと同時に腰を回転させ右拳を振り抜く。だが、クロトはそれを上体を仰け反らせかわす。目の前を蒼い炎が通過し、前髪の毛先が僅かに燃える。
素早く飛び退くクロトは息を切らせ、ケルベロスを睨む。だが、そのクロトの視線よりも更に強く睨みつけるケルベロスは、更に拳に灯した炎の火力を上げると、静かに告げる。
「お前、ふざけてるのか?」
ドスの効いた低く腹に響く声に背筋がゾッとする。明らかな殺気を漂わせるケルベロスに、クロトは思わず息を呑む。背筋に薄らと滲む汗。寒気が漂いクロトは自然と足を退く。ギリッと奥歯を噛み締めるケルベロスは、口から白い息を吐き出すと怒気の篭った眼差しを向け口を開く。
「何で業火を出さない?」
「だ、出さないじゃなくて……でないんだけど?」
苦笑しおどけて見せるクロトに対し、青筋を浮かべるケルベロスは静かに瞼を閉じる。何をふざけている、バカにしているのかと、怒りを増幅させるケルベロス。その怒りに鼓動する様にその拳の蒼い炎も火力を増す。
このままでは殺されかねないと、クロトは慌てて両手を前に出し声を荒げる。
「ま、待て待て! 落ち着け! 一旦落ち着け! そうだ。うん。まず、その炎を消して、お互い話し合おう」
「お前が、いつまでもふざけてるなら、俺はお前を殺す気で行くぞ!」
ケルベロスが甲板を蹴りクロトへと間合いを詰め拳を振るう。蒼い炎が揺らぎ右へ左へと拳が振り抜かれ、クロトは軽快に後退しながら上体を逸らせ拳をかわす。顔を狙うケルベロスの拳が、クロトの目の前を何度も通過する。
距離を離そうに強く甲板を蹴るクロトだが、ケルベロスも離されまい一気に距離を縮め拳を突き出す。蒼い炎を纏ったケルベロスの拳を、腕で弾く事も出来ず必死に上体を捻りかわすクロトの腹部へとケルベロスの右拳が下から抉る様に突き上げられる。
「くっ!」
流石にコレはかわせないと、クロトは意を決し左手の平でその拳を弾く。蒼い炎に直に触れたクロトは表情を歪める。一方、右腕を弾かれたケルベロスは左拳を巻き込む様にクロトの右脇腹へと打ち込む。だが、その拳は空を切る。クロトが後方へと飛び退いた事により、額から汗を滲ませるクロトに、ケルベロスは小さく舌打ちをすると、その目の前にセラが飛び出す。
「す、ストォォォォプ!」
突如、間に割ってはいるセラに驚くケルベロスは、踏み込んだ足に全体重を乗せ動きを止める。それに遅れて、ケルベロスの後頭部をルーイットが思いっきりどつく。その軽い叩く音が響き、ケルベロスがイラッとした表情を浮かべルーイットを睨むが、そのケルベロスにルーイットは荒々しい声で捲くし立てる。
「あんたバカなの! 何、本気になってんのよ! あんたが、本気になったらクロトなんて瞬殺でしょ!
殺す気なの? 少しは考えて行動しなさいよね!」
その激しい言葉にケルベロスは圧倒される。コレでも、女性は苦手としていた。その為、女性であるルーイットに激しく捲くし立てられ、思わず身を退いていた。眉間にシワを寄せ面倒臭そうな表情を見せるケルベロスに対し、ルーイットの怒りは収まらず更に声を荒げる。
「何? その目は? 言いたい事があるなら言ってみなさいよ!」
「いや……何でも無い」
静かに呟くケルベロスは両手の炎を消すと、静かにクロトを睨んだ。これでも、クロトの実力を認めていた為、初めて本気で手合わせしたいと思っていた分、今回のクロトの態度には正直怒りしかなかった。まさか、業火も使わずただ逃げ回るだけ。しかも、全く反撃すらして来なかった事が更に腹ただしかった。
唇を噛み締め、小さく舌打ちしたケルベロスはクロトへと背を向けると、セラが怒った様に頬を膨らせ叫ぶ。
「ケルベロス!」
「俺は部屋に戻る。無駄な時間を過ごした」
低く怒気の篭った声でそう告げ歩き出す。セラに対する口調から、その場に居た誰もが気付いた。相当怒っていると。
一方、その背中を見据えるクロトは小さく息を吐くと、訝しげな表情で自分の手を見据える。何故、業火が出なかったのかと、疑念を抱きながら。