第59話 傷付きながら……
ケルベロス達は西に向かって森を駆けていた。
この森の西には大河が流れており、そこにパルの海賊船が停泊しているのだ。川幅が広く川底も深い為、パルの大型の海賊船でも停泊する事が出来たが、少々問題がある。それは川の流れだ。
普段は穏やかでそれこそ波も立たない程静かだが、この川は一月に一度大荒れする日がある。濁流となり波は激流と化し、全てを海へと吐き出す様に流れ出す。その激しさは一日中続き、誰もその日は川に近づけない。その大荒れする日が丁度明日に迫っていた。
先頭を走るケルベロスは焼け爛れた両手に蒼い炎を灯し、後ろから着いて来る者達の為に邪魔な枝や草を焼き払っていた。もちろん傷付いたその手で蒼い炎をまとう代償は大きく、傷口から放出する蒼い炎が体内へと流れる。それにより出血は広がりその手を振るう度に血が飛び散っていた。
そのケルベロスの後に続くルーイットは心配そうにその背中を見据え、ルーイットにやや遅れてパルとミィが続く。最後尾にはセラとクロトの二人が居た。
クロトがケルベロス達と合流したのは出発する直前。待ち時間三十分丁度の事だった。傷だらけで足を引きずりながら水路から出てきたクロト。もちろん、その治療をしている時間もなく今に至る。その姿を見ればどれ程傷付いているのかも、どれ程疲弊しているのかもケルベロスは分かっていたが、それでも休む時間を与えず、こうして走り続けていた。
荒い呼吸を繰り返し、左手で右脇腹を押さえるクロトを脇で心配そうに見据えるセラ。何度も「大丈夫?」と声を掛けるセラだが、クロトの答えは決まって「大丈夫」と笑みを見せる。心配させまいと無理をしているのは分かるが、セラにはどうする事も出来ない。幾ら魔力を持っていても魔族であるセラには聖力を要する回復系の術を使う事が出来ないのだ。
魔力と聖力は正反対の性質の力の為、魔力を持つ者が聖力を使うのは不可能だった。故に聖力を扱う者には人間が多い。
「ケルベロス」
先頭を行くケルベロスに、不意に背後からルーイットが声を掛ける。最後尾を行くクロトを肩越しに見据え、その苦痛で歪む表情に耐え切れなくなったのだ。
「少し休もう。クロトも、それにあんただって――」
「言っただろ。今は休んでる暇は無い」
「けど!」
「お前は人の心配より、自分の心配をしろ」
「はぁ? なに――うべっ!」
ルーイットの声が途切れ、ケルベロスの視界から消えた。長い紺色の髪だけを舞い上げて。静かに足を止め振り返ると、うつ伏せにその場に倒れるルーイットの姿があった。足場が悪く非常に走り辛い中、喋りながら走れる程ルーイットの運動神経は無く、派手に横転したのだ。こうなる事が分かっていた為大きくため息を吐いたケルベロスは腰に手をあて肩を落とす。
遅れていたパルやミィ、クロトとセラが追いつき、足を止める。軽装のパルは福与かな胸を持ち上げる様に腕を組むと小さく吐息を漏らしケルベロスへと視線を向けた。
「この娘の言う通り、少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「いや、休んでる暇は無い。今夜にも川は荒れる。そうなったら、ここから逃げるすべを失う」
「だからって……」
パルは腕を組んだまま心配そうに腹部に血を滲ませるクロトの方へと視線を向ける。強がっては居るが明らかに膝が震え苦しそうだった。ケルベロスもその姿に表情を険しくするが、それでも厳しい言葉を告げる。
「ここから逃げられなかったら今までの苦労が水の泡だ。それに、お前の船も激流に呑まれるぞ」
「はぁ……けど、はぁ……焦りは、はぁ……禁物ッス」
膝に両手を着き苦しそうな呼吸をするミィがそう呟くと、パルは心配そうにその背中を擦る。
左手で右脇腹を押さえるクロトは横転して動かないルーイットの方へと歩みを進め、静かに声を掛ける。
「だ、大丈夫? ルーイット」
「むーっ! 私より、クロトの方こそ大丈夫なの!」
ガバッと勢いよく体を起こしたルーイットがクロトに対しそう怒鳴る。その迫力に苦笑するクロトは左手を差し出す。ムスッとした表情のルーイットは差し出された手を取ると、その手に伝わる妙な感触にルーイットの眉間にシワが寄る。だが、クロトは何も感じないのか、そのままルーイットの腕を引き立ち上がらせた。
「気をつけろよ? ほら、膝擦り剥いてるじゃないか」
「あっ、ホントだ。大丈夫?」
セラがルーイットの擦り剥いた膝を覗き込み心配そうな声を上げる。そこまで酷くは無いが、それでも出血し血が溢れていた。
「う、うん。大丈夫……」
「まぁ、一応、止血はしておこう。ミィ!」
「何スか?」
クロトの声に、大分息の整った声でミィが返答し振り返ると、クロトは右手を挙げ「ガーゼと包帯くれないか」とお願いした。ミィは少々不満げな表情を浮かべたが、この際お金の事を言うのは野暮だろうと自分のリュックから包帯とガーゼを取り出しクロトの下へと歩みを進めた。
「無駄遣いはダメッスからね? ガーゼも包帯もただじゃねぇーッスよ?」
「わ、分かってるって」
「あと、消毒液とかあると助かるんだけどなぁー」
ミィの言葉に戸惑い表情を引きつらせるクロトの隣で、セラが満面の笑みをミィへと向けそう呟くと、ミィは諦めた様に小さくため息を吐き、リュックから更に消毒液を取り出しクロトへと手渡した。商人として色々と常備しているが、流石にクロト達と出会ってから薬品の類の消費が激しくミィの苦悩は続く。元々売り物として持ち歩いており、薬品の類の相場は結構高い。その売り物がそれはもう飛ぶようになくなっていくのだから、ミィの落ち込むのも無理は無かった。
ルーイットの膝へと消毒液をしみこませたガーゼをあて包帯を巻いたクロトは、その残りの包帯とガーゼを誰にも気付かれない様に自分のズボンのポケットへと押し込み、ケルベロスの方へと視線を向け声を上げる。
「そろそろ行こうか?」
明るく誰にも心配掛けない様にと声を張るクロトに、ケルベロスの表情が僅かに不快そうな表情へと変わったが、すぐにその表情はいつも通りの表情に戻り静かに頷く。
「そうだな。行くか」
「ちょ、ちょっと待て。クロトは――」
「俺は大丈夫だよ。心配しなくていいよ。パル」
ケルベロスの肩を掴み止めようとしたパルに、クロトはそう告げ笑みを向ける。そんなに状態で何故そんな笑みを浮かべられるのか分からず、パルは怪訝そうな表情を向け「クロト……」と静かに呟いた。だが、それだけ。他に言葉が出てこなかった。
「じゃあ、行くぞ」
「ああ。急ごう」
ケルベロスが声をあげ、クロトがその声へと返答すると、二人は走り出す。パルとミィは小さくため息を吐き肩をやや落とすと渋々と言う感じで二人の後へと続いた。
一方、呆然と自分の左手を見据えるルーイット。そのルーイットにセラは小首を傾げると、その眉を八の字に曲げ「ルーイット?」とその名を呼んだ。その声で我に返ったルーイットは拳を握ると、セラへと笑みを向ける。
「どうかした?」
「ううん。何でも無い。それじゃあ、私達も行こうか」
「う、うん」
ぎこちなく答えたセラは、ルーイットに何処か違和感を感じていた。それが何なのかは分からないが、さっきまでと違い、何処か動揺している様に感じ、まるで何かを隠している様だった。
だが、セラが問いただす前にルーイットは駆け出す。その左手をドロドロの血で真っ赤に染めたまま。