第54話 早朝の襲撃
朝方、森の中を大勢の人影が駆け抜ける。
静かに足音も立てずゆっくりと進行するその者達の気配に、ケルベロスは目を覚ます。昨夜は色々あり結局寝たのはつい二・三時間前だったが、それでもケルベロスはその気配にすぐさま目を覚まし、体を起こす。
椅子に座ったまま寝ていた為、多少腰が痛んだがそんな事を気にする余裕は無く、すぐに寝ているクロトに声を掛ける。
「おい。起きろ!」
「ん、んんっ……な、何だよ? ようやく、眠れたのに……ふぁぁぁぁっ」
ケルベロスの声に、大きな欠伸をするクロトは目を擦りながら腰を伸ばす。クロトもケルベロス同様に椅子に座り眠っていたのだが、慣れない体勢だった為結局眠りに就いたのはケルベロスよりも三十分程遅れてからだった。
「んんーっ!」
椅子から立ったクロトは思いっきり背筋を伸ばすと、ゆっくりとケルベロスの方へと足を進める。まだ頭がボンヤリとするクロトの胸倉を掴んだケルベロスは、自分の方へと引き寄せる。
「痛いって! 何だよ? 急に?」
胸倉を引っ張られ不快そうな表情を浮かべるクロトに、ケルベロスは顔を近付け小声で告げる。
「いいか。落ち着いて聞け。俺達は囲まれた」
「囲まれた? 誰に?」
「決まってるだろ。獣魔族だ」
ケルベロスの低音の声が頭の中で反響する。数秒間ボーッとするクロトの頭が徐々に回転速度を上げ、思考回路がようやく正常に動き出す。そして、驚き声を上げようとした刹那、ケルベロスがその口を右手で押さえた。
「むぐっ! むごごごっ!」
「落ち着いて聞けと言っただろ!」
「むごっ! むごごごっ!」
「いいか。ルーイットが言ってただろ。
獣魔族には耳がいい者や目がいい者がいると。多分、今回のメンバーの中に、耳のいい奴がいる可能性がある。
だから、大声は出すな。いいな?」
クロトが二度頷くと、ケルベロスはその口から手を離し、ゆっくりと部屋を見渡す。ベッドで寝るセラとルーイット、ミィの三人を見据え、最後に隅で膝を抱えるパルへと目を向ける。厳しそうに表情を歪めるケルベロスは腕を組むと小さく息を吐いた。
「どうする……考えろ……」
「なぁ、裏から逃げるって言うのはどうだ?」
「バカ言え。この場所を知っているって事は、おそらく裏口も――」
「知ってるわよ。ガーディンは」
唐突に背後からルーイットの綺麗な声が飛ぶ。その声に視線を向けるケルベロスは眉間にシワを寄せると、「やはりか……」と小声で呟く。一方で、クロトは軽く右腕を挙げ「おはよう」とルーイットに声を掛け、ルーイットは眠そうに目を擦り「おはよう」と返答する。
ベッドから起き上がりゆっくりと二人の下に足を進めるルーイットは口元を押さえながら欠伸をすると、ケルベロスの方に眠そうな目を向け告げる。
「彼、今はロゼ様直属部隊の第三軍を任されてるわ。あんた同様に異名があるわよ」
「異名? そんなのあるのか?」
「あるわよ。確か、“番犬”よね」
「人間達が勝手にそう呼んでるだけだ」
不機嫌そうなケルベロスの声に、クロトは苦笑する。何となくその異名が合っている様な気がした。そして、思い出す。ミィがよく、ケルベロスの事を番犬と言っていた事を。よっぽど人間達の間ではケルベロスの異名が広がっているんだとクロトは頷く。
不快な表情を見せるケルベロスが腕を組み眉間にシワを寄せると、ルーイットは少々複雑そうな表情でケルベロスを見据える。
「アイツ、強いわよ。ハッキリ言って。それに、“快刀”の異名は伊達じゃないわよ」
「快刀?」
「覚えてるでしょ? ガーディンの戦闘スタイル」
真っ直ぐに向けられたルーイットの眼差しに、ケルベロスは右手で口元に沿わせると下唇を噛む。思い出していた。この国で修行していた時の事を。
ガーディン。彼もまた、ケルベロスとルーイット同様に同じ師の下で修行した中だ。歳はケルベロスよりも二つ程上だったが、当時の彼には戦闘に対する才能は無く、ルーイットについで成績は悪かった。その理由はルーイットと同じく、僅かな魔力と引き換えに獣魔族の特徴である高い身体能力が失われていたのだ。
だから、ケルベロスは殆ど相手にしていなかったし、そこまで記憶に残っていなかった。
「悪い。覚えてないな」
「お、覚えてないって、本当に?」
「ああ。名前もうろ覚えだったからな」
「あんたって……」
ルーイットの目に僅かに怒気が込められる。だが、その刹那、クロトは異変を感じルーイットを下がらせ、入り口の方へと体を向けた。右目が薄らと赤く輝き、その反応にケルベロスもすぐに振り向き身を構える。
遅れて響く轟音。地響きが洞窟内を揺らし、土が僅かに降り注ぐ。その轟音にミィも目を覚まし、流石のセラも眠気眼で体を起こす。
「な、何スか!」
「朝からうるさいよぉー」
「ルーイット! 抜け道は!」
「あるけど、ガーディンだってその場所知ってるわよ?」
クロトのいつに無く慌てた様な怒声に、ルーイットは僅かに戸惑いながら答える。入り口に亀裂が走り、クロトの右目には赤い煙が映り込む。異様な空気を感じ、息を呑むクロトは決断する。
「ケルベロス」
「ああ。そうだな。ルーイット。抜け道を開け」
「はぁ? 何で私があんたの――」
「ルーイット! 揉めてる場合じゃないんだ! 急いで――」
クロトが言い終える前に衝撃が洞窟内を突き抜ける。入り口の壁が破壊され、砕石が飛び交う。舞い上がる土煙の向こうに日の光が差し込み、クロト達は目を細めた。
一つの静かな足音が洞窟内に入ってくる。逆光に浮かぶ一つの影を見据え、表情を険しくしたのはケルベロスだった。異様な空気を纏う男。根元は黒く、毛先に行くにつれ白髪に変わった異質な髪色の男にクロトは足を退く。前髪が右目を覆い、穏やかな表情を向けるその男にケルベロスは拳を握り叫ぶ。
「クロト。ここは俺が引き止める。早く皆を連れて行け」
「で、でも――」
「へぇーっ。キミがここにいるなんて意外だね。ケルベロス」
静かで背筋が凍りつく様な声が洞窟内に響く。動きを止めるクロトの視線がその声の主へと向けられ、ドクッと心臓が大きくはねる。
ルーイットもその声に瞳孔を広げると大声を上げる。
「こ、こっちよ! こっちに抜け道が!」
慌てて古びたベッドを退けると、その床には階段が続いていた。使われた形跡が無くクモの巣や埃の溜まったその階段は、この洞くつの地下にある水脈へと続くもしもの時の抜け穴となっていた。
その声でルーイットの存在に気付いたガーディンは、その視線をルーイットの方へと向け微笑む。
「アレ? ルーイットも一緒? 珍しい組み合わせだね」
その微笑を見た瞬間、ルーイットは反射的に身構え息を呑む。明らかな作られた笑みだと分かる程、彼の笑顔には感情が篭っていなかった。僅かに震える体を必死に押さえ込もうとするルーイットに、ケルベロスは叫ぶ。
「早く行け! ここは俺が――」
「危ない!」
ルーイットの叫び声でケルベロスは気付く。自分に迫る鋭い刃に。ルーイットやセラの存在に気を取られたケルベロスの死角を突く様に振りぬかれた刃を、ケルベロスは後方へと飛び退きかわした。
「ぐっ!」
「流石だね。普通だったら、今ので首を切り落とされているよ」
ノド元に僅かに赤い線が走り、鮮血があふれ出す。完全にかわしたと思っていたが、どうやら切っ先が僅かに皮膚を掠めていた。左手でノドを押さえ表情を歪めるケルベロスは、深く息を吐き何が起こったのかを考えていた。
正直、何が起こったのか分かっていない。いきなり死角から鋭利な物が飛び込んで来たのは分かったが、その際ガーディンとの距離は変わらずずっと同じ位置に立っていたのケルベロスは確認していた。
一体、何で攻撃を仕掛けたのか分からず、険しい表情を向けるケルベロスの横をすり抜け、クロトがガーディンの前へと出る。
「お、お前!」
「誰? キミ? 見た事無い顔だけど?」
「ここは、俺に任せてくれないか?」
「なっ! ふざけるな! お前はセラ達と一緒に――」
「へぇーっ。ここにセラもいるんだ」
「くっ!」
ガーディンの目の色が変わり、ケルベロスはしまったと小さく声を漏らす。最悪の状況になりつつある中で、クロトは右手をかざす。
「来い! ベルヴェラート!」
眩い光と共に現る錆びれた剣。それを握り締め、クロトは真っ直ぐにガーディンを見据える。そんなクロトにケルベロスは不快そうな表情を浮かべ、怒声を響かせた。
「人の話を聞いてるのか! お前は――」
「俺よりも! ケルベロスが守る方が安全だろ! 力不足の俺じゃ、抜け道の先に待ち伏せしてる奴に勝てる可能性が低い。だから、ここで時間を稼ぐのが俺の役割だ!」
「くっ!」
「へぇーっ。待ち伏せがいる事知ってたのか」
表情を強張らせるケルベロスに、不適な笑みを浮かべるガーディン。落ち着いたその言動から、間違いなく待ち伏せしているのはガーディンと同格の人物だと悟ったケルベロスは、そこで決断する。クロトの覚悟を信じ、ここをクロトに任せると言う決断を。
今のクロトでは間違いなくガーディンには勝てない事は分かっていた。正直、ケルベロスが戦っても相打ちに持って行くのがやっとかもしれない。それ程までガーディンは強くなっていた。
奥歯を噛み締め、拳を強く握り締めたケルベロスは、自分の目の前にそびえる背中に静かに告げる。
「分かった……。ここは、お前に任せる。必ず後からついて来い。俺はこの先の道を切り開く」
「おう。また後でな」
クロトの返答を聞きケルベロスは駆け出す。すでにミィとセラはパルを連れて階段を下りており、階段の入り口に立ち尽くすルーイットはそんなクロトの背中を見据え祈る。クロトの無事を。
「行くぞ」
「うん……」
ケルベロスが静かに告げると、ルーイットも素直に頷き階段を駆け下りる。その足音だけが洞窟内へと響き渡った。