第41話 空腹
荒い息遣いが響くその部屋で、クロトは汗だくで床に転がっていた。
ほんの三十分しか時間は経っていないが、もうクロトは立ち上がれない位疲弊していた。息を整える様に深く空気を吸い吐き出す。その目は虚ろに天井を見据え、両手の指先は小刻みに震える。
結局、一度も指先を合わせる事は出来なかった。何度も弾かれ、その度に指先に集めた魔力は消失し、また一から魔力を練らなきゃいけなくなり、また大量に魔力を放出していた。
「あぁー……もう、限界……」
『お前……不器用だな。結構』
横たわるクロトに対し、テーブルに置かれたベルが静かに告げると、クロトはゆっくりと上半身を起き上がらせる。
「そ、そうか? これでも、結構器用な方だと思ってたんだけど……」
疲労感から声を震わせるクロトは、弱々しい笑顔をベルへと向けテーブルを掴み立ち上がる。足元がふらつき、倒れそうになるが何とか堪えた。
『大丈夫か? 流石に、今日はもう無理だぞ? もう魔力も残ってないだろ? 少し寝て魔力の回復に努めろ』
「わ、分かってるけど……とりあえず、シャワーを……」
呼吸を乱すクロトは、机に手を着いたままゆっくりと膝を震わせ壁まで移動する。そんなクロトの姿にベルは苦笑し呆れた様にため息を吐く。
『お前……この状況でシャワーって……』
「汗だくでベッドには寝れないだろ?」
『いや、どうせ、寝てるだけでも汗掻くだろ? 違うのか?』
「そりゃ、掻くけど……」
ベルに図星を突かれ、困った様に顔を伏せる。そして、僅かに頬を赤くし叫ぶ。
「い、いいだろ! 汗くらい流させろよ!」
『分かった分かった。それじゃあ、私は戻るよ。本来の姿じゃないにしろ、転送するのにも僅かながら魔力を使うからな』
「あ、ああ。それじゃあ、また明日な」
『お前が私を転送できる程の魔力が回復してたらな』
皮肉を言うとベルは消滅しクロトは深くため息を吐き、ベルの置かれていたテーブルへジト目を向けた。ベルの言う通り、明日になるまで魔力がどれ程回復するか分からない。下手をすると、ベルを出す魔力すら回復しない可能性があった。
だが、クロトはその僅かな可能性に不安になるよりも、前向ききっと回復していると信じ静かに息を吐き壁を伝い歩き出す。
「まぁ、なるようになるだろ……」
と、呟き風呂場へとゆっくりと移動した。
数十分掛けシャワーを浴びたクロトは、濡れた髪のままベッドに横たわっていた。開かれた窓から部屋へと流れ込む冷たい夜風。空はすっかり暗くなり、街道に明かりが灯っていた。
魔科学の発展している国だけあって、この街の科学力は進歩していた。ローグスタウンもそうだったが、街灯が普通に備わっており、クロトが最初に訪れた港町とは全く違った風景に見えた。
同じ大陸、同じ人達が住んでいる街だと言うのに、国やその地域によってここまで違いが出るモノなのかと、クロトは不思議に思っていた。
ローグスタウンと違い、この街の街道には露天などは並んで折らず、二階建ての広い店が一軒あるだけ。後は防衛用の小さな要塞と、飲食店が数軒に、飛行場に倉庫と工場が数軒。いわゆる、工業地帯と言う所なのだろう。
しかし、国境ギリギリに工場を作ると言うのはいかがな物だろうか、とクロトはこの街に来た当初に見た工場を思い出し含み笑いを浮かべた。もし、この街が落とされ、工場を占拠されたら、この国の技術を盗まれかねないのに、と。
だが、逆に言えば、この街の防衛力に絶対の自信がある表れなのだろうが、それを糸も簡単にやってのけたあのモンスターを思い出すと、少しだけこの国の内政に不安を感じる。
「この国……大丈夫かな……」
小声で呟いたクロトは、天井を見上げたまま瞼を閉じ、両腕を天井に向かって伸ばす。もう指の震えは無かった。肉体的な疲労は大分落ち着いて来た様だが、体内に流れる魔力の波長は未だ弱々しいままだった。
両手を見据えていると、唐突にクロトのお腹が鳴り、両腕を伸ばしたまま頭上へと落とす。
「腹……減った……」
虚ろな目で天井を見上げたまま呟く。考えてみたら、ここ数日まともな食事をした事が無かった。飛行艇では乗り物に酔い、食べる余裕は無く、この街に着いてからは食べ物を買うお金が無かったから。
だが、今日は違う。依頼料も入り、懐も厚い。やっとまともな食事にありつけるのだ。しかし、現在クロトは動き回る体力も無く、ベッドに横になってルーイットの帰りを待つ事しか出来ない。
「くぅーっ……ルーイット……早く帰って来てくれ……」
寝返りをうち、ベッドに顔を押し付けくぐもった声でクロトは叫んだ。
それから更に数時間が過ぎ、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。クロトの尖った耳が僅かに動き、それに連動する様に手の指が動き、肩が跳ね上がる。それと同時に、部屋のドアが乱暴に開かれルーイットが部屋へとなだれ込む。
「ただいま! クロト!」
「お、遅いぞ……ルーイット……」
布団に顔を埋めたまま、弱々しく右腕を上げて答えるクロト。空腹でもうそこから動く事が出来なかったのだ。ベッドに埋まるクロトの姿に、手に持った大量の荷物をテーブルに置きながら不思議そうな表情を浮かべる。
「ど、どうしたの?」
「空腹で……」
「えっ? な、何で? お金あるでしょ? ルームサービス頼めば――あっ、もしかして、私の事待ってたの?」
「あぁーっ……うん」
「もう、そんな、私の事なんて気にしなくていいのに!」
クロトの言葉に頬を赤くし照れるルーイットに、クロトは言えなかった。実はこの世界の字が読めなくて、ルームサービルがある事を知らなかったと言う事を。だから、布団に埋めたその顔は申し訳なさそうで、心の中で何度も謝る。
そんな事とは知らず、体をくねらせ照れるルーイットは、テーブルに置いた買ってきたモノを広げ、食材をその手に持つ。
「それじゃあ、私が、手料理振舞っちゃうぞ!」
「えっ? 手料理?」
「うん。こう見えても、料理は得意なんだよぉ」
腕まくりをして、買ってきた葉野菜系の食材を右手に持ち笑顔を見せるルーイットに、クロトは体を反転させ顔を見せると、怪訝そうにルーイットを見据える。そんなクロトの視線に「えへへ」と、ルーイットが笑うと、クロトは小さくため息を吐き、体を静かに起き上がらせる。
「あっ、いいよ。寝てて。出来たら起こすから!」
慌ててそう言うルーイットに、クロトは申し訳なさそうに告げる。
「張り切ってる所、言い難いんだけど……」
「えっ? 何々? 何か苦手なモノでもあるの?」
クロトの言いたい事をまるっきし理解していないルーイットに、クロトは右手で頬を掻き部屋を見回してから小さく息を吐き、困った表情を浮かべる。
「ここ、キッチン無いんだけど……」
「へっ?」
「いや、だから、この宿、部屋にキッチンは無いぞ」
クロトの言葉にルーイットは慌てて部屋を見回す。格安の狭い部屋の為、キッチンなんて無い。いや、元々どんな宿でも部屋にキッチンは無いだろう。そう思い苦笑するクロトに、驚愕するルーイットは、
「そ、そうでしたーっ!」
と、叫びながら床にひれ伏した。呆れ顔でそんなルーイットを見据えるクロトは思う。
(やっぱり、ルーイットって何処か抜けてる……)
と。