第31話 ケルベロスの意思
静かに歩き出したケルベロス。
その行き先は、光り輝くただ一点の場所。
光は木々の合間を抜け、森の中へと広がる。その眩い光に、ケルベロスの足はいつしか駆け足へと変わり、やがて疾走する。全力で。
足が地面を蹴る度に土が抉れ、その手を振るう度に枝が燃え上がる。光が薄れ、消えていく中で、ケルベロスはついに森を抜けた。茂みから飛び出す。半壊した集落へと。家々が燃え黒煙を上げ、魔族の遺体がそこら辺に散らばったその場所で、一部おかしな現象の起きている場所があった。一面凍り付き、氷の花が咲き誇るその場所。その場所に一人の少女がいた。槍を持った一人の少女が。
驚くその少女を見据え、ケルベロスは静かに息を吐く。燃え上がる様な肉体から吐き出された息は、漂う冷気と触れ合い白く凍りつく。息を吐き終えたケルベロスは、静かに息を吸うと、放つ。その口から、咆哮を。
“ウガアアアアアアッ!”
轟く咆哮。その衝撃が周囲の家を破壊し、同時に咲き誇っていた氷の花をも砕く。砕け散った破片は少女へと襲い掛かる。だが、その破片は彼女の前で砕け散る。何かの壁にぶつかった様に。
咆哮を放ったケルベロスは、その異変にすぐに気付き駆け出す。その立ちふさがる見えない壁を打ち崩す為に、拳に蒼い炎をまとわせ全力で。地を駆けるケルベロスの黒髪が大きくなびき、大きく振り被った右拳を振り抜く。
蒼い閃光が瞬き、その拳が衝撃を広げた。目の前には何も無いはずなのに、その拳はハッキリと何かに衝突する。その衝撃で、ケルベロスの右拳は弾かれ、後方へと腕は大きく伸びた。だが、その足は止まらない。見えざる壁の気配が消えた事を感覚的に感知し、一気に駆け抜けその少女へと弾かれた右腕に力を込め、蒼い炎をまとわせ振り下ろす。
そのケルベロスの姿に、少女は固く瞼を閉じその手に持った槍を前へと出す。遅れて、ケルベロスの左足が踏み込まれた。だが、その刹那、少女の出した槍の先が薄らと光を放つと、ケルベロスの意識が僅かに蘇り、その動きを止める。
拳は彼女の目の前でギリギリ止まり、蒼い炎だけが僅かに揺らめく。現状を把握する為にケルベロスは僅かに顔を動かし、周りを確認する。この集落にケルベロスは見覚えがあった。いや、ハッキリ言えば、以前この集落で過ごした事があった。と、言っても随分幼い頃の事だ。殆ど覚えていないだが、懐かしい感じがした。
そんな感情を覚えながらも、すぐに表情は苦悶に歪む。体内を蝕む毒薬の効果によって。呼吸を乱すケルベロスに対し、目の前に佇む一人の少女は恐る恐ると言った感じで瞼を開くと、その目で真っ直ぐにケルベロスを見据える。二人の視線が僅かに交錯し、ケルベロスは苦悶の表情を浮かべ、口を開く。
「うぐっ……うぅっ……にげ、ろ……死に……たく、ない……なら……」
声を振り絞り吐き出したその言葉。人間を憎んでいるケルベロスだが、自分の意思で殺すのと、そうでないのとでは意味が違っていた。それに、ケルベロスも別にだれかれ構わず人間を殺したいわけでも無い。だからこそ、彼女に対し、その様な言葉を告げたのだ。
そんなケルベロスを見据えたまま、少女は僅かに唇を震わせ、静かに口を開く。
「あ、あなた、もしかして……」
少女の澄んだ綺麗な声に、ケルベロスは表情を歪め睨みを利かせると、
「黙れ……人間。お、れは……にん、げんは、嫌い……だ。早く……しないと、殺すぞ」
ケルベロスの強い眼差しに、彼女は表情を歪め僅かに後退し唇を噛み締め、その手の槍を構える。その行動にケルベロスは驚愕する。何を考えているのか分からず、奥歯を噛み締めると、その眉間にシワを寄せ、声を振り絞る。
「な、んの……つもり、だ……」
「私は貴方を救いたい。だから、逃げない」
彼女は強い眼差しをケルベロスへと向け力強い口調でそう述べると、槍の切っ先をケルベロスへと向けたまま腰を僅かに落とす。その行動にケルベロスは表情を歪めた。
「くっ……もう……俺は、押さえ……切れない……」
ケルベロスの言葉が途切れ、意識が闇へと誘われる。そして、また暴走が始まった。目が赤く充血し、殺気が周囲全体に漂う。
「ぐううううっ!」
喉を鳴らすケルベロス。何かの気配を感じ取ったのか、すぐにその拳を振り被り、踏み出した左足へと全体重を乗せ、その拳を打ち出す。雄たけびと共に。
「うがあああっ!」
打ち出された拳がまた何も無いその空間で何か硬いモノへと衝突する。轟々しい衝撃音が轟き、衝撃波がケルベロスの全身を襲う。それでも、踏み込んだ左足を地に確りと踏み止まらせ、更に拳へと力を込めた。そして、ついにその拳が振り切る。存在するはずの無いその壁を打ち抜いたのだ。
その瞬間、少女が叫ぶ。
「セルフィーユ!」
と、何も無いその場所へと視線を向ける。その瞬間をケルベロスは見逃さない。右足を踏み込み振り上げた蒼い炎に包まれた拳を大振りで振り下ろす。本来なら、こんな大振りでは振り下ろさないが、今の彼女になら確実に当たる。そうケルベロスが判断したのだ。
「がああああっ!」
「――!」
その雄たけびに彼女の顔がケルベロスの方へと向く。だが、その瞬間、ケルベロスの拳が打ち抜く。彼女の額を。重々しい鈍い打撃音が響き、彼女の上半身が後方へと弾かれる。額から鮮血が僅かに舞い、少女の体は軽々弾き飛ばされ、地面へと体を打ちつけながら茂みの向こうへと姿を消した。
燃え上がる様に体内から湧き上がるその高熱にケルベロスは雄たけびを上げ、両拳に灯した炎の火力を更に増幅させる。その激しい炎の火力で、ケルベロスの皮膚が焼けただれ始めていた。
「ぐおおおおおっ!」
咆哮を放つと、地面に広がっていた氷が砕け、その破片が宙を舞い煌く。咲き誇っていた氷の花は、その中に存在していた人間ごと砕け散り、真っ赤な破片を舞い上がらせる。その破片は美しく、宙を彩った。鮮やかな真っ赤な血の破片で。
氷が舞うその中心で雄たけびを上げていたケルベロスは、前傾姿勢をとると一気に地を蹴る。地面が抉れ、氷と共に土が舞い、ケルベロスは茂みへと突っ込んだ。
茂みへと突っ込むと、向こう側で少女が立ち尽くしていた。その姿にケルベロスは僅かに表情を歪めるが、すぐに加速し蒼い炎を灯った右拳を振り抜く。
「くっ!」
小さく声を漏らした彼女は、右足を退き体を捻ると、ケルベロスの拳を槍の柄で右へと払う。完全にバランスを崩すケルベロスの体が横へと流れ前のめりになるが、すぐに右手を地面へと着き体の向きを変え体勢を整えると、その少女の方へと視線を向ける。
なにやら驚いた表情を浮かべるその少女を見据えるケルベロスは、その少女の体を包む奇妙な輝きに気付き、喉を鳴らせた。