第287話 親愛なる友
金色のタテガミを揺らす体長二メートル程の巨体。それを、揺さぶるのは獣王ロゼ。
両手で衣服に付着した土を払い、最後の顔についた土を右手で拭ったロゼは、軽く伸びをする。
両腕を空へと伸ばし、背筋を反ると、背骨がパキッパキッと音を奏でた。
硬くなった筋肉を解していくようにロゼはゆっくりと体を動かす。腕を回し、屈伸をし、肩甲骨を広げる。
ずっと、窮屈な状態で押し込められていた為、あちこち凝っていたのだ。
まさに王の風格とも言える程の威圧的で好戦的な雰囲気を漂わせるロゼは、最後に手を組み指の骨を鳴らすと、鼻から息を吐きバロンへと目を向けた。
瑠璃色の長い髪を束ねたバロンは、その目に、半歩後退りする。思わず後退りしてしまうほど、ロゼの風貌は恐怖を感じる程だった。
一方、シオ、ルーイット、フリードの三人は呆然としていた。
当然だろう。死んだはずのロゼが、突如土の中から出てきたのだ。これが、驚かずにいられるだろうか。
口角を引きつかせるシオは、目尻をピクッピクッと震わせ、声を張る。
「ちょ、ちょっと待て! な、何で、何で親父が!」
シオの声に、ロゼは首の骨を鳴らすと、不快そうに目を細める。
だが、シオの方には決して顔を向ける事なく、
「黙って、目の前の相手に集中しろ」
と、静かに答えた。
寒気を感じる程、威圧的なロゼの言葉に、ルーイットとフリードの二人は僅かに身を震わせる。
ロゼが、息子であるシオに厳しいのは前々からの事だったが、ここまで厳しい態度のロゼを見るのは初めてだった。
完全にロゼの重圧に呑まれる二人に対し、シオは眉間にシワを寄せると奥歯を噛む。
「ふっざけんな! テメェ!」
体中痛むはずなのに、力強くそう言い放ったシオは、ロゼへと向かって走り出す。
「シオ!」
「やめろ!」
瞬時にそう声を上げるのはルーイットとフリード。しかし、二人の足は動かない。と、言うよりも二人が動く前に、シオの前に蒼い炎を両手にまとったガロウが姿を見せる。
無造作な黒髪を揺らすガロウは、赤く輝く右目をシオへと向けた。不気味なオーラを放つガロウに対し、右足を力強く踏み込んだシオは奥歯を噛み、
「退け! 邪魔すんな!」
と、右拳を振り抜く。
腰を回転させ、肩を回し右拳を出すシオに対し、ガロウは左足を踏み込む。
そして、ガロウは右拳を振り被る。腰が捻られ、踏み込んだ左足のつま先に体重を乗せたガロウは、体を後方へと僅かに倒すと、右足を振り抜いた。
風を切る音の後、強烈な破裂音のような打撃音が響き、シオは弾き飛ばされた。
足元に二本の線を刻み、上体を大きく仰け反らせるシオは、左の口角から血を流しよろめく。
「うぐっ……」
左手で頭を押さえ、鼻筋にシワを寄せるシオは、振り抜いた足を下ろしたガロウを睨み付けた。
「無茶だよ! シオ! そんな体で……」
ルーイットがそう声を上げる。しかし、ロゼはそれを鼻で笑う。
「その程度なら、丁度いいハンデになるだろ。それとも、全快じゃないと戦えないか?」
厳しい口調でそう言うロゼに、左手で口元の血を拭ったシオは、
「こんなのハンデにすらなんねぇ! 全然余裕だ!」
と、強気に答えた。
とても、余裕そうには見えない。膝は震えているし、呼吸も乱れている。
不安そうな表情を浮かべるフリードは、怪訝そうにロゼを見た。厳しいように見えるが、アレもロゼの愛情なのだろう。
いや、ロゼはシオを信じているのだろう。ダメージを負っていてもガロウに勝てると。
しかし、フリードが見る限り、シオは限界に近い。それに比べ、ガロウはダメージすらない。圧倒的にシオに分が悪かった。
この戦いは恐らく、シオの王としての資質をはかる戦いになる。その戦いに容易に介入していいものなのだろうか、とフリードは考えていた。
頭を二度程振ったシオは、ギリッと奥歯を噛み拳を握り締めた。
「やってやるさ! やってやるよ!」
気合を入れるように大声を上げるシオは、全身に精神力をまといガロウに向かって走り出す。
それを迎え撃つようにガロウは全身に魔力を広げ、重心を落とし拳を握り締めた。二人の視線が交錯する。
(瞬功!)
シオは全身に纏った精神力を足へと集中し、一気に加速する。獣魔族としての瞬発力を、瞬功で更に強化したシオは、低い姿勢のままガロウの間合いへと踏み込む。
その瞬間に、ガロウはシオの顎をかち上げようと左膝を振り上げた。
しかし、ガロウの左膝は空を切る。
「ッ!」
僅かに声を漏らすガロウ。その背後をシオは取った。瞬功により強化した瞬発力で、ガロウの一撃をかわし回り込んだのだ。
すぐさま、ガロウは右回りに回転し、振り返る。しかし、腰を据え、拳を握り込んだシオは、その拳へと精神力を集め、
(剛力!)
と、力を強化し、拳を突き出した。
正拳突きのような形で突き出された拳は、的確に振り向いたガロウのミゾオチを貫く。
ミシッと骨が軋み、ガロウの体は後方へと飛んだ。爆音を広げ、二度、三度と地面に叩きつけられ、土煙を巻き上げたガロウの体は地面を転げ、やがて仰向けになった。
「ガハッ!」
仰向けに倒れたままガロウは血を吐く。完璧なまでに決まったシオの一撃。その破壊力は計り知れなかった。
しかし、シオの方も体への負荷は甚大だった。それはそうだ。すでに重傷にも関わらず、瞬功で足に負荷を掛け、剛力で腕に負担を掛けた。
体中激痛が走っていた。筋肉が悲鳴を上げていた。
呼吸を乱し、肩を落とすシオは、俯いたまま左手を膝へと置いた。膝が震え、今にも腰が落ちそうになるのを、何とか堪える。
「ぜぇ……ぜぇ……」
苦しそうに呼吸を繰り返すシオは、静かに視線を上げ、ガロウを見据える。血が付着し、所々赤黒く固まった金色の髪が揺れ、獣耳がピクリと動く。
険しい表情を浮かべ、奥歯を噛むシオは、ゆっくりと背筋を伸ばし、拳を構える。
分かってはいたことだが、やはり一発では仕留められなかった。体を震わせ、血反吐を吐きながらガロウは起き上がっていた。
「うっ……ううっ……」
僅かに呻くガロウの声に、シオは目を細める。先程から、ガロウがまともに言葉を発していない事に気付いたのだ。
バロンに何かされたのは容易に想像がついた。何をしたのかまでは想像は出来ない。しかし、ガロウを早めに仕留めないと危険だと、シオは直感していた。
震える膝に力を込め、ゆっくりと深呼吸を二度。大きく弾んでいた両肩は大分落ち着きを取り戻し、脈拍も随分と落ち着いていた。
「もう一踏ん張り……か」
そう呟いたシオは、静かに右足を踏み出し、立ち上がったガロウを真っ直ぐに睨んだ。
シオがガロウと対峙している最中、父・ロゼは静かに息を吐き出し、目の前にいるかつての戦友を見据える。
共に何度も死線を潜り抜けてきた仲だった。信頼出来る友だった。
その友の裏切りに、ロゼはもの悲しげな眼差しを向け、もう一度深く息を吐いた。
「よもや、右腕あるお前が裏切り者とはな……。ワシも、まだまだのようだな」
静かにそう発するロゼの声はややしゃがれ、いつも通りの声に戻りつつあった。
きぐるみの中に入っていた時に、ムリに声を作っていた。その影響もあり、少々自分の本来の声を忘れかけていた。
静かな口調のロゼの言葉には重みがあった。威圧的なロゼの重圧に、息を呑むバロンは、また半歩下がる。
長い付き合いだからこそ分かる。その淡々とした静かな口調の恐ろしさが。
圧倒的な威圧感を放つロゼは、鋭い眼光でバロンを見据え、一歩前へと出た。
「どう言う理由があるにしろ。ワシを裏切ったと言う事は、覚悟が出来ていると言う事だろうな?」
ロゼのその一言に、バロンは拳を握り締めた。
バロンにとってロゼは、目の上のタンコブ。そんな存在だった。獣魔族として、生まれ持った高い身体能力と闘争心、類稀なる戦闘スキルを兼ねそろえていた。誰もが、バロンは誰にも負けない、負けるはずがない。何れ、王を、獣王と言う名を継ぐ存在だと信じていた。
だが、そんなバロンの前に突如現れた。当時の獣王の息子ロゼ。
生まれてすぐに、当時“最強”と呼ばれた魔女ヴェリリースの下へと預けられていたのだ。
当時、獣魔族の間では覇権争いが激しく、強き者が次なる王になる資格が与えられていた。故に、当時の獣王は、自分の子が生まれたと知られる事を恐れた。すでに獣王の力は衰え始めており、自分の手で息子を守れないと判断したのだ。
その判断は正しく、ロゼが戻ってきた時、玉座に父の姿はなかった。だが、ロゼは圧倒的な力で、全てをねじ伏せ、頂点に君臨した。
バロンが初めて屈した。絶対に勝てないと思い知った瞬間だった。
そんなロゼを憎く思わないはずがなかった。自分が座るはずだった玉座。自分が継ぐはずだった獣王の名。自分が浴びるはずだった民の歓声、高貴なる眼差し。
全てを奪ったこの男を、憎まないわけがなかった。
奥歯を噛み、鼻筋へとシワを寄せ、憎悪に満ちた眼差しを向けるバロンは、全身に精神力をまとう。
「……貴様が! 貴様さえ、いなければ!」
叫んだ後、バロンは獣のような咆哮を吐いた。
瑠璃色の長い髪を束ねる紐が解け、髪は逆立つ。一本一本が意思を持ったかの様に揺らぎ、その瞳は獣のように楕円形になり、ロゼを睨む。
口角よりむき出しになる二本の牙が、ググッと大きく強靭なものへと変化する。
「獣化……と、言う事は、どうやら、本当にワシを裏切っていたと言う事のようだな」
目の前で獣化するバロンの姿に、静かに息を吐きロゼは目を伏せた。
獣化により体を膨張させるバロンは、喉を鳴らすと足の先から飛び出した鋭利な爪を地面へと突き立てる。
「がぁぁぁぁ……がぁぁぁぁ……」
荒々しく息を吐くバロンは、口から唾液を滴らせ、ゆっくりとロゼを見た。
「どうした? 獣化しないのか? それとも、しなくても俺など相手にならないと言いたいのか?」
低く腹の底から発せられたバロンのおぞましい声に、ロゼは瞼を開くと、冷ややかな目を向ける。
二人の視線は交錯し、ロゼは拳を握った。
金色の髪を揺らし、穏やかな表情を引き締めるロゼは、右足を前へと出すと、そのまま拳を構える。
「獣化に頼っている時点で、貴様はワシには及ばん。教えてやろう。獣王と言う名の重さと、その意味を」
ロゼはそう言い、全身から闘気を放つ。空気は一瞬にして張り詰め、地面が砕ける。
ピリピリと肌を刺すロゼの気迫に、バロンは唾を呑み込み、額から汗を零した。
一粒の汗がバロンの顎先からこぼれる。それと同時に、バロンは地を蹴った。地面に突き立てた爪が、地面を砕き、土を巻き上げる。
爆音と衝撃を広げながら直進するバロンは、ロゼの間合いへと瞬く間に入った。そして、握った右拳を振り抜いた。
鈍く重々しい打撃音の後、血が散る。顔が右へと弾かれ、上体が右へと捻られたロゼの口角から血がこぼれる。
バロンの一撃はロゼの右頬を完璧に捉えていた。
それでも、ロゼの足は地面に張り付いたようにピクリとも動かない。凄まじい衝撃だったにも関わらず、微動だにしないロゼに、バロンは続けざまに左拳を振り抜く。
「うおおおおっ!」
声を張り上げると同時にバロンの左拳はロゼの腹部へと突き刺さる。鍛え上げられた強靭な筋肉を叩く強烈な打撃音が響き、ロゼの上体が前のめりになった。
それでも、ロゼの足は動かない。
奥歯を噛むバロンは、左足を踏み込み、ロゼの前のめりになった顔へと右拳を突き上げる。
骨と骨とがぶつかり合う痛々しい打撃音の後、ロゼの上体は大きく仰け反る。血飛沫が灰色の淀んだ空気を彩り、やがて地面に降り注ぐ。
右拳に僅かに血を滲ませるバロンは、息を荒げる。
「くはぁ……はぁ……」
まるで、長い間水中で息を止めていたように、バロンは大量の息を吸っては吐く。
足元の地面に深く減り込むバロンの両足。それほど、下半身に力を込め、拳を叩き込んだ。
肉を叩く感触、骨を叩く感触が、その拳には確りと残っていた。
だが、大きく背を仰け反らすロゼは、
「それで、終わりか?」
と、静かに尋ねると、ゆっくりと体を戻した。
僅かに口角からは血が流れていた。頬にも眉間にも殴られた痕が僅かに残っていた。だが、ロゼは平然とした表情でバロンを見据える。
その眼に、バロンの瞳孔は開き、呼吸は一層乱れた。
(何故、平然としていられる? 獣化した俺の拳を浴びて……)
バロンの脳裏に浮かぶ疑問。
(これが……獣王になるべき者の力……なのか?)
思わずそう考えるバロンに対し、ロゼは静かに息を吐く。
「獣化に頼り、己の力を信じぬお前の拳など、ワシには効かん!」
力強いロゼのその言葉の迫力に、バロンは一歩後退り、息を呑む。
ここまで、力の差があるのか、とバロンは表情を強張らせる。いつでも、寝首を掻ける。そう思っていたが、違った。
この男は――、獣王は、他とは比べ物にならぬ存在なのだと、痛感する。
「き、貴様は……貴様は!」
「親愛なる我が友よ。せめて、苦しまずに逝け……」
「うおおおおっ!」
猛々しい咆哮を発し、バロンは右拳を振り被る。
そんなバロンへと肩幅に足を開いたロゼは、重心を落とし胸の前で両拳を合わせ、精神力と魔力を練った。
「獣撃! 四獣拳……白虎!」
ロゼは、ゆっくりと胸の前で合わせた両拳を引き剥がす。両拳の合間に練りこまれた精神力と魔力が大量に引かれ合い、雷の様に大気中で弾ける様が視覚でも確認できた。
迸る魔力と精神力の波動が、ロゼの両拳を包み込む。それにより、ロゼの背に巨大な白虎の幻影が姿を見せる。両前足を地面に踏み締めた白虎は、
“ガアアアアアアッ!”
と、咆哮を広げると、ロゼが右足を踏み込むと同時に、地を蹴る。
引いた両拳を、背を仰け反らせ、大きく振り被るロゼは、それを一気に突き出す。
「うぐっ!」
上下に合わせる様に突き出されたロゼの両拳が、バロンの腹部へと減り込んだ。それにより、バロンは血を吐き、その体はくの時に曲がった。
体内を駆け巡る衝撃。骨が砕ける音、肉が裂ける音が体を突き抜ける。
「うがっ……ああっ……」
呻き、バロンは一歩、二歩と下がる。
全身から白煙を噴かせるロゼは、大きく開いた口から静かに息を吐き出すと拳を下ろした。
激痛に耐えたバロンは、口から血を流しながら不敵に笑う。
「くっ……くくっ……ど、どう……だ……。耐え、た……ぞ……」
途切れ途切れの声でそう告げるバロンに、ロゼは静かに背を向けると歩き出す。
「終わりだ。我が友よ」
「な、何を――うぐっ!」
突如、大量に血を吐くバロンに、ロゼはもう一度深く息を吐く。
「お前の体内に白虎を打ち込んだ。聞こえたはずだ。骨を砕き、肉を喰らう音が。やがて、白虎はお前の体内を引き裂き、飛び出してくるだろう」
ロゼがそう告げた瞬間、バロンの背中が膨れ上がる。直後、皮膚を裂き、血飛沫と肉片を飛び散らせ、血に染まった白い肢体の虎、白虎が飛び出した。
白虎が重々しい音を立て地面へと着地すると、バロンの体は崩れ落ちた。大量の鮮血が地面へと溢れ、バロンは絶命した。
ロゼが振り返る事はなかった。友の残酷な死を目の当たりにするのが辛かったのだ。
「バカ野郎が……」
そう静かに呟き、ロゼは瞼を閉じた。
場所はルーガス大陸奥地の古城へと移る。
広場では未だに激戦が続いていた。その最中、古城の最上階に、漆黒のローブを纏ったクロウの姿があった。
腕を組み周囲一帯を見回すクロウは、クスリと笑うとゆっくりと振り返る。
ヒョコヒョコと奇妙な足音が聞こえ、そこに姿を見せたのは熊のきぐるみだった。
ツギハギだらけの体。右腕は失われ、綿が溢れていた。
そんな無様なクマの姿にクロウは左手で口を覆い笑う。
「いつまでそんな姿をしているつもりですか? それとも、その姿で戦うつもりですか?」
クロウの静かな声に、クマは静かに息を吐くと、その腹部が裂ける。
そして、その裂け目からゆっくりと姿を見せる美形の優男。漆黒の髪を揺らし、穏やかな笑みを浮かべるその男は、熊のきぐるみを静かに床に置くと、
「ふぅ……外は大分涼しいな」
と、静かに呟き、クロウを見据える。
覇王――デュバル。獣王・竜王に並ぶ三人目の魔王。このルーガスを治めていた王で、最強の名を受け継ぐ男。
若々しく涼やかな顔のデュバルは、全身にごく少量の魔力を纏わせると、
「さて……じゃあ、始めようか?」
と、拳を握り締めた。