第28話 シュールート山脈
時は遡る。
まだ、クロト達がローグスタウンに入る直前。ダーヴィンもまだ生きていて、クロトがまだ魔剣ベルを手にしていない頃。
ローグスタウンから東北東に数千キロ離れた場所に位置する小高い山脈シュールート山脈。山頂から山脈の五部付近まで未だ雪の残る緩やかだが、明らかに周囲のほかの山々よりも一つ二つ存在感溢れるその山脈のフモトの森を一台の馬車と数頭の馬が駆け抜ける。その背に武装した兵を乗せて。
道らしき道は無いその森の中を、蹄で踏み荒らし風を切りながら進む馬達。時折、地面に落ちた木の枝が蹄に踏み締められパキッと小さな音をたてるが、それすらかき消す足音だけが響き渡る。
数頭の馬が先導し、一番奥で荒々しく駆ける馬車。その中に鎖で繋がれたケルベロスの姿があった。漆黒の髪が、馬車が揺れる度に左右に揺られ、閉じられた眼が髪の合間から覗く。傷だらけの身体。それを覆う様に一枚の黒いローブを着せられていた。
壁に繋がれたケルベロスの前に座る真紅のローブを着た魔術師。袖の裾に描かれた奇妙な文様を揺らし、その手に小さなカプセル状の薬を取り出す。頭から被ったローブの合間から覗く群青色の髪が揺れ、赤みをおびた瞳がケルベロスを見据える。
「いつまで寝ているつもりですか?」
静かな低い声がそう告げると、ケルベロスの瞼が僅かに動き、ゆっくりとその瞼を開く。赤い瞳がジッと魔術師を見据え、開かれた口から唾液が糸を引く。
「だ……まれ……」
「ふふっ……流石。この薬を投与されても、自我を保てるなんて……」
不敵に笑い右手に持ったカプセルを顔の前でちらつかせる。その瞬間にケルベロスの表情が強張り、奥歯を噛み締める。
自我を保っていると言え、それはギリギリの状態だった。少しでも気を緩めれば、ケルベロスの自我は一気に崩壊する。その確信があった為、ケルベロスは一度たりとも気を緩める事が出来ず、精神は磨り減り、意識はもうろうとしていた。
薄らとする視界の中で、魔術師が立ち上がったのが見えた。僅かな足音が聞こえ、床が軋む。
「さぁ……これが、最後の投与だ。キミはこれで自我を失う。そして……」
と、同時にケルベロスの口へとカプセルを押し付け、そのまま右手で口を塞ぐ。ケルベロスもそれを飲み込まぬ様に抵抗するが、その抵抗もむなしく、ケルベロスはカプセルを飲み込んだ。その瞬間、体を襲う激痛。自我を刈り取る様に体の奥底から湧き上がる高熱。それが体を焼き尽くすんでは無いかと思うほどだった。
「うがああああっ!」
喉の奥から吐き出された苦痛の叫び。その声が森の中へと木霊する。
どれ程の時間その苦痛に苦しんだか分からないが、やがてケルベロスの声は消え、馬車に響くのは荒々しい呼吸音だけ。
「ふぅーっ……ふぅーっ……」
荒々しい息遣いをするケルベロスに対し、魔術師は静かに笑う。
「さて。それじゃあ。後は任せるよ。俺は、俺でする事があるからね。同族狩りを楽しむといいよ」
不敵に笑った魔術師が馬車から姿を消す。僅かに輝く魔法陣だけを残して。
馬車は揺れ、ケルベロスを繋ぐ鎖が軋む。薄暗い中でただ荒い呼吸を続けるケルベロス。まだ僅かにだが、自我は残っていた。だが、もうその暴走をケルベロスは自分で止める事が出来なかった。勝手に体は動き出す。その腕を捕らえる鎖を引き千切ろうと。
「うがっ! うがっ!」
言葉にならない声を上げながら、何度も腕を振る。重々しい衝撃音と鎖が擦れる音が響き、火花が散る。やがて、壁に打ち付けてあった留め金が衝撃に耐え切れず甲高い金属音を響かせると、鎖が宙へと舞い、壁から外れた留め金を天井へとぶつけた。
ようやく壁から解き放たれたケルベロスの体。ゆっくりと歩みを進める。その腕に繋がれた鎖を引き摺り。鎖を引き摺る不気味な音を響かせたケルベロスは、不意に足を止めると、静かに視線を落とす。
「うぐぅぅぅぅっ……」
喉を鳴らすケルベロスは、静かに鎖を掴むとそれを力いっぱいに引っ張り、ついに鎖を引き千切った。鎖の破片が火花を上げ飛び散り、ケルベロスは「ぐはぁぁぁぁっ」と小さく息を吐く。
やがて、薄暗いその場を青白い光が照らす。揺らめくその輝きは、ケルベロスの拳に灯った蒼い炎によるモノだった。揺らめく蒼い炎を次第に大きく膨れ上がらせていくケルベロスは、その拳を大きく振り被ると、目の前の壁へ向かってその拳を叩き込む。
爆音が響き、壁が吹き飛ぶ。その衝撃で馬車が大きく傾く。風穴の開いた壁は空へと向き、馬の悲鳴が僅かにその場に響き渡った。荷台が完全に倒れ地面に触れるその瞬間にケルベロスは風穴から外へと飛び出し、それに遅れてまもなく荷台が崩壊し、木片が周囲へと散る。舞い上がる木片の一部が蒼い炎をまとい、それが周囲の木々へと炎を広げた。
地面を数回転がり体勢を整えたケルベロスは、ゆっくりと立ち上がると周囲を見回す。僅かに感じる数体の強い気配。薄らとした意識の中で、ケルベロスはその力の波動を感じ取る。
一つはあの魔術師のモノだろう。微量に誰かを誘い出す様に強い気配を溢れさせている。そして、その気配に対し近付く二つの気配。この二つの気配は上手くその気配を隠しているつもりなのだろうが、僅かに技量が伴っておらず、薄らとだが気配が漏れ出ていた。それでも、薬を投与され感覚が研ぎ澄まされたケルベロスだから感知出来る程上手く気配を隠せていた。
普通の奴なら気付かないだろうが、あの魔術師は明らかに気付いている。だから、誘い出す様に薄らと気配を漂わせているのだ。
(どう……言うつもりだ……)
まだ僅かに残る意識の中、ケルベロスが疑問を抱いた瞬間、全身を駆け巡る激痛。それによりケルベロスの自我は完全に失われ、それと同時に森の中に響く獣の様な遠吠えが。
“グオオオオオッ”
と。僅かな衝撃が広がり、木々の葉がざわめく。
そして、ケルベロスは感じ取る。複数の人の気配と、一つの不気味な力を。暴走している状態でも分かる程不気味な力。その力に導かれる様にケルベロスは走り出す。両拳に蒼い炎をまとわせて。次々と木々を焼き払いながら。