第272話 世界への粛清を
音をたて地上を覆っていたドーム状の結界が砕け散った。
結界が砕けると、荒々しく暴風が吹き荒れ、濁り絡みつくような淀んだ空気を周囲へと広げる。
この荒々しい暴風に、翼竜ルビーに乗る三人は一瞬にして呑まれた。ドーム状の結界の近くまでルビーが降下していた為だった。
手足に絡みつく淀んだ空気が、パル・ルーイット・ティオの三人の動きを拘束する。
(な、何だ……これは……)
思わず右手で、口と鼻を押さえるパルは、吐き気に襲われる。
異臭がしたわけではない。ただ、この淀んだ空気を吸うなと言う様に体が拒絶反応を示していた。
(くっ……体が……重い!)
傷もほぼ完治し、体調も万全に近いティオは、急激に体が重くなるのを感じた。
まだ包帯の巻かれた体を蝕む様に、この淀んだ空気が傷口をズキズキと刺激する。ゆえに、ティオは胸元で右拳を握り表情を歪めていた。
(な、何……み、耳が……)
けたたましい人々の悲痛の叫びが、ルーイットの耳には届いていた。怨念の声なのかも知れない。
“死にたくない”
“生きたい”
“殺してくれ”
様々な声に、ルーイットは両手で耳を押さえ、瞼を閉じる。
苦痛だった。どうにもならない、どうにも出来ないその声に、ルーイットは奥歯を噛んだ。
そして、淀んだ空気は翼竜ルビーをも呑み込む。両足を地上へと引きずり込む様に絡めとり、大きく羽ばたくその大きな翼にまとわりつく。
それにより、ルビーの高度は急激に下がっていく。だが、三人にはどうする事も出来ず、淀んだ空気の中へと吸い込まれる。
それを追うように鋼のような漆黒の肢体の翼竜は急速降下していった。
空中に浮かぶ島。
その中央に佇む古城の中庭に集まった兵士達はざわめいていた。
「な、何だ! この地響きは!」
「そ、空が上がっていくぞ!」
各々が慌ただしく声を上げる。大地を揺るがすのは激しい地響き。そして、空はみるみる高くなっていき、体はふわりと軽くなった感覚だった。
何が起こっているのか、分からず騒ぎ出す者の中には、事を理解しているのか、静かに事を待つものも少なからずいた。
そのうちの一人が、魔人族ケルベロスだった。腕を組み瞼を閉じ、俯いていた。
精神統一をしているのか、全身に静かな魔力をまとう。いつでも臨戦態勢に入れるようにと言う事なのだろう。
現在、この島はゆっくりとだが、着実に落下していた。
結界が壊れた事により、元々在った場所へと、この島が戻ろうとしていたのだ。しかも、それを導くのはあの淀んだ空気だった。
そして、その空気は島を汚染して行く。ゆっくりと、ゆっくりと。
ゆっくりと瞼を開くケルベロスは、赤い瞳を静かに動かす。足元には淀んだ空気が漂っていた。
他の兵達はその淀んだ空気に恐怖を感じ、更にざわめくが、ケルベロスは視線を落とすと目を凝らす。
何も言わずただ無言で淀んだ空気を見据えるケルベロスは、鼻から息を吐き視線を上げた。
そんな時、ケルベロスの視線の先、上空を一体の翼竜が通り過ぎる。赤い肢体に紅蓮の炎を両翼にまとった翼竜だった。
その翼竜は“キュピィィィィッ”と声をあげ、火の粉を地上へと撒き散らす。
「な、何だ?」
一人の兵が、その火の粉に気付く。鱗粉のような微粒子の火の粉は、それに触れるものを――一瞬にして焼き払う。
「うわああああっ!」
火の粉を受け、集まった兵達の中から、悲鳴が上がる。
ある者は炎に包まれ、ある者は逃げ惑う。島が落ちているというだけでも大変だと言うのに、空からは炎の鱗粉。事態は最悪だった。
そんな中でも、ケルベロスは落ち着いた面持ちでその翼竜を見据え、拳に蒼い炎をまとった。
広場の騒ぎに、古城の屋上に佇む深紅のローブをまとう魔術師は、小さな舌打ちをした。
腕を組む和服の男は、その舌打ちを鼻で笑うとジト目で向かってくる赤い翼竜を見据える。
「どうする気だ? あの龍、コッチに来るぞ?」
ゲタをカタンと鳴らす和服の男が体を漆黒のローブに身を包む男へと目を向けた。
しかし、ローブの男は落ち着いた面持ちで向かってくる翼竜を見据え、口元に薄らと笑みを浮かべる。
何を考えているのか、さっぱり分からず、和服の男は不快そうに眉間にシワを寄せた。そして、そんな和服の男の不満を、漆黒の亀裂の入った鎧をまとう男が代弁する。
「おい! こんな所で悠長に眺めていていいのか! 広場の兵にも被害が出ているぞ!」
左腕を振るい、鎧の男は力強くそう言い放つ。鎧の男の言う通り、広場に集まった多く兵達が火の鱗粉の犠牲となっていた。
折角集めた兵力が、これにより失われるのは、正直不本意だった為の鎧の男の抗議に、魔術師は腕を組み袖口に手を突っ込む。
「言っておくけど、俺は手は出さないぞ。無駄な魔力は使いたくねぇからな」
魔術師の言葉に、ローブの男は、
「案ずるな。あれは、私達が手を出す必要は無い」
と、言いきった直後、蒼い炎が翼竜に直撃した。
地上より放たれた一撃は翼竜の腹を打ち上げ、その体を蒼い炎で包んだ。翼竜は、弱々しく声を上げると、紅蓮の炎をまとう両翼が力を失い、その巨体は地上へと落下した。
不敵な笑みを浮かべるローブの男は、肩を揺らす。
「さぁ、これで役者は揃った。始めるぞ。世界への粛清を!」
ローブの男が大手を広げると、和服の男はそれを鼻で笑い、魔術師は肩を竦める。そして、鎧の男は小さく息を漏らし、各々懐からワープクリスタルを取り出し、その場から姿を消した。
それと同様に、広場でも各自がワープクリスタルを使用し、その場から龍魔族・獣魔族が消えた。
広場に重量感のある衝撃音が轟いた。
激しく土煙が舞い上がり、地面には亀裂が走る。
真っ赤な翼竜は未だ蒼い炎に包まれたまま、横たわっていた。
「くそ……どうする気だ。こんな敵陣の真ん中に……」
翼竜の影から出てきた白銀の髪を頭の後ろで留めた女性が、そう言い衣服を叩く。
「うぅっ……それより……大丈夫? 翼竜、まだ燃えてるよ?」
更に翼竜の影から出てきた少女は、心配そうに蒼い炎に包まれる翼竜を見据える。
肩口で黒髪を揺らす少女は、僅かに幼さの残る顔を先ほどの白銀の髪の女性へと向けた。
それにより、少女の顔がケルベロスの視界に入った。その瞬間にケルベロスの肩はビクッと跳ね、その目は険しくなる。
「……英雄!」
黒髪をユラリと揺らしたケルベロスは、そう呟き握った拳に蒼い炎をまとった。ケルベロスの言葉に、周囲にいた魔人族は、皆魔力を体にまとった。
臨戦態勢に入る魔人族に、瞬時に白銀の髪の女性も身構える。
「冬華! 下がってください」
白銀の髪の女性がそう言い、冬華と呼んだ少女の前に出た。真っ赤な右目の瞳と真っ黒な左目の瞳を動かす彼女に、翼竜の向こうから、
「ビックリしたクマ!」
と、奇妙な声が上がり、クマのきぐるみが姿を見せた。
クマの登場に一瞬場の空気が凍り付く。
“なんだ、この緊張感のない奴は!”
と、恐らく皆が思ったのだろう。だが、ケルベロスだけはそのクマのまとうオーラに警戒心を強めた。