第269話 黒き破壊者
ティオ、ルーイット、パルの三人は高層の建物の屋上に移動していた。
翼竜のルビーを呼び出す為だった。
まだ傷は殆ど癒えていないティオだったが、こんな所で休んでいるよりも、ルーガスへすぐに向かった方がいいと判断した。
ここから、ルーガスまで距離がある。幾ら翼竜でも恐らく一週間弱掛かるだろう。
そう考えたらここでジッと休むよりも、移動時間の間にゆっくりと傷を癒せればいいと。
正直、どれだけ回復するのかは分からない。
それでも、今は時間が惜しかった。
それだけ、急を要していたのだ。
灰色に染まった空を見上げる。
今にも雪が降り出しそうだが、今の所降る気配はない。
その雲は雪雲ではない。何か不気味な気配が漂う雲だった。
腕を組むパルは白い息を吐き出すと、ルーイットを見据える。
とりあえず、この場で翼竜のルビーを呼び出せるのはルーイットだけ。
ゆえに、事を見守るしか出来なかった。
現在、痛み止めが聞いているのか、ティオは静かに寝息をたてていた。
ある程度できるだけの治療も済み、程なくして動ける様にはなるだろう。
それまでは、ゆっくりと寝ていてもらう事にしたのだ。
色々と解決していない事、気になる事は多い。
何故、街の人が消えたのか、クロトとセラを連れて行った理由。これらの事は全く分かっていない。
そして、もう一つパルが気になっている事がある。
それは、入り江で逃がした自分の部下と、ミィの事だ。
あの後の指示はしていないが、無事に指揮をとるものはいるだろうか。不安が脳裏を過ぎる。
灰色の空を見上げるルーイットは紺色の長い髪を揺らすと、ピクッピクッと獣耳を動かす。
風を切る音に耳を澄ませていた。
翼竜ルビーを呼び出すのに、声は必要ない。何故なら、声を発した所で、何処に居るか分からないルビーに届くわけが無いからだ。
ルビーを呼び出すのに必要な事は、強い信頼関係と、お互いを引き寄せる想いだ。
ルーイットはただ棒立ちし、空を見上げていたわけじゃない。
ずっと念じていたのだ。
ずっと心の中で呼びかけていたのだ。
ルビーの心へと。
“キュピィィィィッ!”
甲高い鳥の様な何声が轟き、大気が激しく揺れる。
ピリピリと肌を刺すような重圧が地上を襲う。
そして、灰色の雲を突き破り、美しい純白の翼竜が大きな翼を羽ばたかせ、高層建物の屋上へと降り立つ。
真っ赤なルビー色の瞳を輝かせる純白の翼竜は、大きな口を開くと、
“キュピィィィィッ!”
と、もう一度咆哮を吐いた。
あまりの迫力ある声に、パルは両手で耳を塞ぎ、眉間にシワを寄せる。
一方で、耳を折り完全に音を遮断しているルーイットは嬉しそうに微笑し、両手でルビーの頭をワシワシと撫でた。
「ありがとう。ルビーちゃん。来てくれて」
“キュピッ! キュピィィッ!”
翼竜とは思えない程の愛らしい声で鳴くルビーは、とても嬉しそうにルーイットへと頬擦りをする。
硬い鱗に覆われた翼竜の皮膚は非常に硬く、ザラザラとしているが、ルーイットは気にせず、えへへと笑う。
一通りルビーを撫でたルーイットは、ポンポンと優しく頭を叩くと、
「ごめんね。また、お願いしてもいいかな?」
と、優しくお願いする。
すると、ルビーはヒョコヒョコと頭を縦に振り、
“キュピィィィッ!”
と、咆哮を一つ。
両手で耳を塞いでいても、迫力のあるその声に、パルの耳はキーンとしていた。
「凄い……声だな……」
思わずそう漏らし、パルは表情を歪める。
「それじゃあ、お願いね。ルーガスまで、私達を連れて行って」
ルーイットが静かにそう告げると、ルビーは大きな翼を広げ、
“キュピィィィッ!”
と、もう一度鳴いた。
その声に、ルーイットは小さく頷き、パルの方へと振り返る。
「うん。大丈夫だって! つれてってくれるって!」
「…………?」
大声を上げるルーイットだが、パルは全くその声が聞き取れず、訝しげに首を傾げた。
程なく、一週間が過ぎようとしていた。
天空に浮かぶ島にそびえる古城。
その地下に、クロトは囚われていた。
鎖で両腕を拘束し、両足には鉄球が繋がれていた。
体中傷だらけで、足元には血溜まりが黒ずんでいた。足の親指から滴れる一滴の血が、その血溜まりに波紋を広げる。
そんな静かな音が響き渡るほど静まり返った中、一つの足音が響く。
僅かに開いた瞼の奥で、赤い瞳がゆっくりと動いた。
どれ程の時間、拷問を受けたのか分からない。
どれ程の時間、意識を失っていたのかも分からない。
ただ、永遠にこの時間が続く気がしてならない。大きく開いた口から吐き出される弱々しい吐息。
乾いた唇はひび割れ、血が滲んでいた。
(誰……だ……)
声すら発する事が出来ず、クロトはそう薄らと考える。
だが、そう考えただけで、それ以上思考は働かない。それほど、クロトは弱りきっていた。
この一週間。ずっと拷問を受けていた。
いっそ殺してくれと思いたくなる程の凄まじい拷問。一体、目的は何なのか分からないが、彼らは何かをクロトに聞きだそうとしていた。
だが、クロトにはさっぱりと分からない。理解出来ない。その為、何も答えずただ黙って拷問を受けるしかなかった。
知らないと言った所で、彼らがそれを信じるわけも無い。だから、クロトはひたすら耐え続けた。
いつ終わるかも分からない、この時間を。
足音が止まる。
「お目覚めかい? 黒兎裕也君」
静かな声がクロトの耳に届く。
聞き覚えのある優しい暖かな声。
だが、その声は、今のクロトにとって不快な声だった。
漆黒のローブをまとうその男は、深くフードを被り、その下に白い歯を見せ不敵に笑う。
その笑みに、クロトは奥歯を噛もうとしたが、力が入らなかった。
それだけ、クロトの体力は失われていた。声も出ない。ただ、虚ろな眼差しで、霞む視界のその中で、その男を見据える事しか出来なかった。
静寂が場を支配する。
響くのはポチャンと跳ねる水音だけ。
後はもう何も聞こえない。
大きく開いたローブの袖から右手を出した男は、ゆっくりとその手に魔力を込める。
「そろそろ、解放してくれないかい?」
男がそう言い、右手に集めた魔力をクロトへと放った。
魔力はゆっくりとクロトの体へと直撃する。その瞬間にクロトの体内に激痛が走る。
「うがああああっ!」
激痛にクロトの叫び声がこだまする。
魔力はクロトの体を巡りながら、体中に次々と痛みを広げ、傷口からは血があふれ出す。
苦しむクロトのその姿に、不敵に肩を揺らす男は首を振る。
「全く持って強情だね」
男はそう言うと、右手に一本の剣を呼び出す。
そして、その剣をクロトの右の太股へと突き刺した。
「うぐあああっ!」
クロトの叫び声だけが、地下に響き渡った。
鮮血が突き刺さった刃を伝い地面へと零れ落ちる。
クロトの意識は揺らぎ、やがて瞼は閉じられる。このまま死んでしまうのだろうか、意識が遠退く中でクロトはそう思った。
「気を失ったか……強情な奴だ……」
男はそう言い、突き刺した剣を抜こうと腕に力を込めた。
その時だ。
その腕を鎖を引きちぎったクロトの右手がつかむ。
「――ッ!」
驚く男に対し、見開かれた赤い瞳が真っ直ぐに向けられ、クロトとは別の声がその口から放たれる。
「貴様が用があるのは、我であろう。これ以上、この者を傷つける事は許さん」
殺気と凄まじい程の鋭い眼に、男は一瞬気圧され、その身を半歩退いた。
そして――
「やっと現れたか……黒き破壊者よ」
と、男は引きつった笑みを浮かべた。