第221話 聖霊
真っ白な世界。
雪ではない。ただ何の色も無い真っ白な世界。
空も、地面も真っ白。
それが、何処までも、何処までも続いていた。
そんな広く何処までも続く真っ白な世界に、ポツンと横たわるのはクロトだった。
血に塗れていたはずの白シャツは元通りの真っ白なシャツに戻り、傷も完全に癒えていた。
確かにケルベロスにトドメを刺されたはずのクロトの瞼が僅かに動く。
薄らと唇が開き、その合間から空気が吸い込まれる。
胸はゆっくりと上下に動き、息がその唇の合間から吐き出された。
瞼は静かに開かれ、赤い瞳は呆然と真っ白な空を真っ直ぐに見据える。
まだ、意識はもうろうとしていたクロトは、ゆっくりと頭を動かし周囲を確認する。
(ここが……死後の世界? 何もないんだな……)
見渡す限り真っ白なその世界に、クロトはそんな事を思っていた。
右手をゆっくりと持ち上げる。僅かな痛みが残るものの、腕に傷はない。その腕を返し、手の甲から指先、手の平までを何度も見据え、その手をクロトは額へと降ろした。
そして、考える。
(冬華は……無事に帰れただろうか?)
と。
自分の事よりも先に、冬華の事を考えたのは、やはり責任を感じていたから――、彼女に対し少なからず好意を抱いているから――、そうクロトは考える。
死んだからこそ、自分の気持ちと言うのがよく分かった。
もう二度と会えないと思うと、その目は熱くなり、胸が苦しくなる。
瞼を閉じると涙が溢れた。
静まり返ったその場所で、クロトはただただ声を殺して涙を流し続けた。
どれ程の時間が過ぎたのか分からないが、程なくしてクロトは右手の甲で目を擦り、涙を拭い体を起こす。
目の周りを赤く腫らすクロトは、ただっ広い真っ白なこの空間を見回し、訝しげに眉を潜める。
本当に、ここが死後の世界だとして、どうして、自分にまだ肉体があり、意識があるのか、と考えたのだ。
そもそも、死んだ後に、こんな風な世界があるのだろうか。死んだ事などないクロトには、その答えは分からないが、どうにもこの空間が不自然に感じていた。
考えていても始まらないと腰を上げるクロトは、膝に手を着き深く息を吐いた。
音のないその空間にクロトの吐息は響き渡る。
「さって……どうするか……」
背筋を伸ばし、腰へと手を当てるクロトは、息を吐きながら辺りを見回す。
やはり、何処までも真っ白な光景が広がる。
目を凝らし、他に何かがないかを確認しようとするが、何も無く何処までも真っ白だった。
「……どうしたものか? 俺は……本当に死んだのか?」
腕を組み思わずそう呟くと、思わぬ答えが返ってくる。
『あなたは死んでいませんよ?』
と、言う愛くるしい女の子の声だった。
突然の声に、両肩を跳ね上げたクロトは、身構え周囲を見回す。
「だ、誰だ! ど、何処にいる!」
目を凝らし、辺りを見回す。
握り締めた両拳を構えるクロトに対し、クスクスと幼い笑い声が聞こえる。
恐らく先ほどの声の主の笑い声だろう。
周囲を見回すクロトは、ゲートにいた頃のクセで、両拳に魔力を込める動作へと移る。
すると、クロトの拳には魔力が篭った。
「えっ?」
思わず声を上げるクロトは、握った拳を開き、魔力を帯び輝く手を見据える。
ゲートで死んだから、魔族のままなのか、そう言う疑問を抱く。だが、先ほどの声を思い出す。
“あなたは死んでいませんよ?”
と、言う言葉だ。
そして、クロトは声を上げる。
「じゃあ、ここは、まだゲートなのか!」
辺りを見回しても見当たらない、声の主に対し、クロトはそう叫んだ。
何処にいるのか分からない為、叫ぶしかなかったのだ。
その声に、また何処からとも無く声がする。
『はい。ここは、まだゲートです。そして、あなたは生きています』
「ちょ、ちょっと待て! お、俺は確かにケルベロスの一撃で……」
困惑するクロトは、右手を顔の横で前後に振りながらそう口にする。
確かに喉元をあの蒼い炎の狼に噛み付かれた感触はあった。体も燃える様に熱かった。
間違いなく死んだとクロト自身思っていた。
だからこそ、困惑は相当のもので、クロト自身もわけの分らない行動を取っていた。
「いや、いやいやいや! じゃ、じゃあ、こ、ここは一体、ゲートの何処だって言うんだ!」
クロトの声に、クスリと笑う声が響く。
『とりあえず、右目に魔力を込めてください。私の姿が見えないと不便だと思うので……』
その声に、クロトは怪訝そうな表情を浮かべながらも、右目へと魔力を込めた。
赤い瞳が薄らと輝くと、クロトの視界へと薄らと少女の姿が浮かぶ。
金色の長い髪を揺らし、ニコリと笑む大人しげで幼さの残る表情の少女の姿だった。
一瞬驚いたが、すぐにクロトは眉間へとシワを寄せる。
「え、えっと……き、キミは……」
『私は、聖霊のセルフィーユです』
セルフィーユと名乗った少女はペコリと頭を下げた。
ユラリと金色の髪が流れ、それを右手で耳へと掛けたセルフィーユはサファイア色の綺麗な瞳を真っ直ぐにクロトへと向けた。
純粋で透き通るようなその瞳の輝きに、クロトは彼女が敵では無いと理解し、肩の力を抜いた。
そして、安堵したように息を吐いた。
「そっか……俺は、まだ生きてるのか……」
まだ自分が生きている。また、彼女に会える。
そう思い、心の底から安堵する。
しかし、そんなクロトと裏腹に、セルフィーユは何処か厳しい表情を浮かべ、両手を胸の前でイジイジとしていた。
その表情から、クロトは不安を感じ、訝しげに首を傾げる。
「何か……あった?」
思わずそう尋ねたくなる程、セルフィーユの表情は不安げだった。
その言葉に、セルフィーユは小さく頷き、告げる。
『はい。あなたと、英雄である冬華様が消えた事により、ゲートは今――』
「えっ! と、冬華、様! えっ、えぇっ? せ、セルフィーユは冬華を知ってるのか?」
セルフィーユの言葉に、クロトは驚きの声をあげた。
まさか、こんな所で冬華を知っている者に会えるとは思わなかった。
それに、冬華が消えたと言う事は、恐らく元の世界に戻る事が出来たのだろうと、クロトは思わず笑みを浮かべる。
クロトの嬉しそうなその表情に、セルフィーユも何処か嬉しそうな表情を見せたが、すぐに深刻そうに表情を暗くする。
どうやら、冬華が消えた事がゲートの世界に対し、なんらかの悪影響を与えているのだろうと、クロトは考えた。
「冬華は、無事に……帰れたんだよな?」
自分の考えが正しい事、冬華の無事、それらを確認する為に、クロトはそう尋ねた。
そのクロトの質問に対し、セルフィーユは肯定するように小さく頷く。
『は、はい……冬華様は、無事に元の世界に帰られました。光の柱が天へと刺さり、同時に冬華様の気配が消えました』
「そうか……。よかった……本当に……」
『ただ、この世界から消えたと言うだけで、本当に元の世界に、戻れたのかはわかりません』
矛盾する彼女の発言に、クロトは眉を潜める。
「ど、どう言う事だ? 無事に元の世界に帰ったんだろ?」
『私は、そう思ってます』
「そう思ってる?」
『はい。冬華様が別の世界へと飛んだのは確かですが、私はそちらの世界に行く事は出来ません。ですので、本当に元の世界に戻れたのかは正直、分かってません。ただ、無事に戻ったと私は信じてます』
胸の前で手を組み、強い眼差しを向けるセルフィーユに、クロトは鼻から静かに息を吐く。
「そう……だな。今は、冬華が無事だって事にしておこう」
『はい』
クロトの言葉に、セルフィーユは明るくそう返答し、幼さ残る無邪気な笑みを浮かべた。