第215話 クロトとデュバル
農作業を終えたクロトは、城内にある大浴場で汗を流していた。
大きな湯船にシャワーがいくつか並ぶ大きな浴場に、クロトは改めてここが王国の城なのだと、理解する。
水を弾くタイルは美しく煌き、クロトは「はぁ……」と感嘆の声を上げていた。
これほどの広々とした浴場に人生で何度――いや、恐らく一度も入る事など出来ぬ貴重な経験だろう。
特別、風呂が好き、と言うわけではないクロトでさえ、少々心が躍った。
それだけ、ここの大浴場は魅力的だったのだ。
腰にタオルを巻くクロトは高い天井を見上げ、「はぁー」ともう一度声を上げた。
それから、クロトはシャワーで体を浴び、体と頭を洗い湯船へと浸かる。
広々とした湯船にクロト一人だけ。なんとも贅沢なひと時だった。
湯船の縁にもたれ天井を見上げるクロトは、瞼を閉じる。
暫し、寛いでいると、穏やかなデュバルの声が反響する。
「おや? 貸切状態かい?」
デュバルの反響する声に、クロトは慌てて立ち上がり声をあげる。
「す、すみません! 御先にお邪魔してます!」
「ハッハッハッ! 何だー。一番風呂ではなかったかぁー」
大らかな笑い声と共に肩にタオルをかけたデュバルが堂々と胸を張りシャワーの前へと移動する。
そんなデュバルに、申し訳なく思うクロトだが、デュバル自身は気にした様子は無く、シャワーの水を出すと、クロトの方へとチラリと顔を向ける。
「まぁまぁ、ゆっくりとしたまえ。風呂とはゆっくりと疲れを取る為の場所だ。気を張る事は無いさ」
「そ、そうですか?」
クロトはそう答え湯船へと浸かった。
暫くの間沈黙が続き、デュバルは体を洗い頭を洗った後に、湯船へと浸かった。
「あぁーっ」
と、オジサン臭い声を発し湯船へと肩まで浸かるデュバルは、瞼を閉じ深々と息を吐き出す。
「農作業の後の風呂は気持ちがいいなぁー」
そう声を上げたデュバルは顔を洗い、もう一度深く息を吐いた。
デュバルの体は傷など無い引き締まった体をしていた。服を着ている時は、とても優男に見えたデュバルだが、かなり鍛え上げられた肉体をしていた。
無駄に筋肉質にならない様に気をつけながら鍛えているのだろう。
クロトはマジマジとデュバルの肉体を見据えていた。そんなクロトの眼差しにデュバルは僅かに身を引く。
「な、何だ? 私はそう言う趣味は無いぞ?」
唐突なデュバルの発言に、クロトは呆れた様に目を細め、
「俺も、そんな趣味は無いですから……」
と、答えた。
微妙な空気が漂い、二人の間には沈黙だけが続く。
その空気を嫌い、クロトは静かに湯船から出た。
すると、デュバルはクロトの背中へと尋ねる。
「もしよければ、この後、手合わせでもしないかい?」
と。
デュバルの申し出に、クロトは振り向くと苦笑し、右手で頭を掻く。
「でも、もう風呂にも入っちゃったし……」
「もう一度入りなおせばいいさ。私もキミには興味がある。どれだけ強くなったのか、どれ程の力を持っているのか、知っておきたい」
穏やかな表情だが、何処か真剣な声質のデュバルに、クロトは困ったように息を吐くと、右手を首の後ろへと持っていき首を傾げる。
どうして、デュバルがそんな事を言うのか、イマイチ分からない。
恐らく――いや、間違いなく魔王であるデュバルの方がクロトよりも格段に強いだろう。魔力の扱い方だって、戦い方だってクロトよりも遥かに上手いだろう。
それに、手合わせをしなくても、彼の場合何でも知っているような気がした。
それだけ、デュバルの目は何でも見透かしている様に、クロトには映っていた。
だから、少々答えに戸惑い、眉間にシワを寄せると、もう一度小さく息を吐き、
「デュバルさんなら、手合わせをしなくても分かるんじゃないですか?」
と、素直に尋ねる。
すると、デュバルは「そうだねー」と明るく呟いた。
だが、すぐに真剣な面持ちをクロトへと向ける。
「けど、実際に手を合わせた方が分かる事だってあるさ」
「…………分かりました」
デュバルのあまりにも真剣な眼差しに、クロトはそう答えた。
「そうか。じゃあ、道場の方に行っててくれ。私もすぐに向かう」
「はい……それじゃあ、お先に失礼します」
クロトはそう返答し、頭を下げ大浴場を後にした。
その頃、城内の一室にケルベロスは居た。
未だ魔力の戻らぬケルベロスは、胡坐を掻き精神統一を行っていた。
魔力は戻らないが、精神力を少しずつ扱えるようにはなっていた。
それを上手い具合にケルベロスはコントロールしていた。
静かな一室に静かな足音が響き、部屋の扉が開かれる。
留め金の軋む音に、瞼を開いたケルベロスは、扉の方へと顔を向けた。
扉が開かれると、扉の向こうから一人の男が姿を見せる。
やや長めの黒髪を揺らし、部屋へと入ってきたのは、デュバルの右腕であるクロウだった。
尖った耳を黒髪の合間から覗かせるクロウは、赤い瞳を真っ直ぐにケルベロスへと向ける。
「今、大丈夫ですか?」
穏やかなクロウの声に、ケルベロスは素早く立ち上がると背筋を伸ばす。
「は、はい。大丈夫です」
珍しく敬語を使うケルベロス。何故なら、クロウはケルベロスの師だった。
ここでケルベロスに戦い方を教えたのはクロウだ。その体に痛みを与えながらの非常に厳しい指導だった。
その為、今も尚ケルベロスはクロウに対して頭が上がらず、こうしてついつい敬語になってしまうのだ。
そんなケルベロスの反応に、クロウは右手を軽く上げると、
「ああ、いい。そう硬くならなくてもいい」
「は、はぁ……」
「それより、彼はどうだった?」
クロウの唐突な質問に、ケルベロスは一瞬眉間にシワを寄せる。
彼、と言うのが誰を指すのか、分からなかったが、すぐにそれがクロトの事だと理解し、答える。
「クロトの事ですか? 別にどうと言う事は……」
「そうですか……」
渋い表情を浮かべ、クロウはそう呟いた。
そんなクロウに、ケルベロスは訝しげな眼差しを向けていた。
夕刻――道場。
風呂上りの二人が、広々とした道場の中央で対峙していた。
二人以外に人影は無い。デュバルにより人払いがされていたのだ。
静まり返った道場でデュバルと対峙するクロトは、受け取った木刀で二度、三度と素振りをする。
鋭い風音を響かせるクロトに、デュバルも軽く手首を返しながら木刀をまわす。
「それじゃあ、早速始めようか?」
デュバルがそう言うと、クロトは木刀を構える。
クロトの構えは至ってシンプルな構え。そんなクロトに対し、デュバルは木刀を中段に構える。
「じゃあ、何処からでも打ち込んでおいで」
穏やかな口調でそう言うデュバルに、クロトは息を呑み右足を踏み出す。
言葉と裏腹にとてもじゃないが、打ち込む隙などなかった。
対峙するだけでも額から汗が滲むクロトは、改めてデュバルの恐ろしさを知る。
その体から溢れ出す魔力の波動が尋常ではなかった。その為、右目は徐々に赤く光り始める。
「フムッ……それが、赤い瞳か……」
興味深いと言いたげにそう言うデュバルは、クロトの輝く右目を見据える。
そんなクロトの右目にはデュバルの体を取り巻く魔力の波動がはっきりと見えていた。
まるでデュバルの体を守る様に渦巻くその魔力の波動が――。
それを知ってか知らずか、デュバルは静かに尋ねる。
「どうだい? 私の魔力はキミにはどう見えている?」
と。
その言葉にクロトは苦笑する。
「とてつもなく、恐ろしく見えます。これが、魔王の力なのか、そう思いますね」
素直にクロトはそう答え、静かに床を蹴った。