第190話 得策ではない
その日の深夜、クロトはようやく動けるまで回復した。
いや、正確にはイエロによってそこまで回復したのだ。
レッドと違い、イエロはヒーラーとしての知識を持ち合わせていた為、すぐにクロトの傷を癒す事が出来たのだ。
治療を終えたイエロは、満面の笑みをクロトへと向け、右翼で額の汗を拭った。
「いやぁー。時間が掛かってしまったのですよー」
能天気な声を上げるイエロだが、その顔には疲労の色が見て取れた。
自分の体の調子を確かめる様に、クロトは右手を閉じたり開いたりし、左手は手首を何度も回していた。
それから、両肩を回し、屈伸を行う。体は完璧――と、までは行かないが、それなりに状態はよかった。
ベッドの横で腰を捻るクロトは、うんうん、と声をあげイエロの方へと顔を向ける。
「凄いや。体が軽いよ」
「そうですか、そうですかー。よかったのですよ。万全に戻ったようで」
笑みを浮かべるイエロに、クロトも自然と笑みを零す。
「それにしても、まさか聖力が使えたなんて驚いたよ」
「いえいえ。正確には聖力“も”使える、なのですよ」
イエロのその発言に、クロトは首を傾げた。聖力“も”とはどう言う意味なのだろうか、そう思ったのだ。
だが、それを質問する前に、病室の戸が開かれた。
その音にクロトとイエロの視線は戸の方へと向けられ、その視線に一人の男の姿が映る。
その男とは――
「お願いします! 私も治療を――」
深々と頭を下げるのは、秋雨だった。
耳の付け根から生えた小さな角を黒髪の合間から覗かせ頭を下げる秋雨に、イエロは困ったような表情を浮かべる。
聖力を使いすぎて疲れているからでは無く、現状秋雨を治療するのは得策ではない、そうイエロは考えていた。
その理由として言えるのが、彼の性格だ。人一倍責任感が強く、暴走すると龍馬よりも手が付けられない。今、治療し完治させれば、間違いなくあの男を止めると突っ走るに決まっているのだ。
故に、イエロは言い辛そうに口を開く。
「申し訳ないのですが、それはお断りするのですよ」
イエロの言葉にクロトは驚き、頭を下げる秋雨は拳を握り静かに顔を上げる。
「どうしてですか? どうして、私はダメなのですか!」
懇願するように秋雨はそう言う。
だが、イエロの表情は変わらず、小さく頭を左右に振り、
「すみませんが、やっぱり無理なのですよ」
と、口にした。
唇を噛み締める秋雨は、納得できないと言う目をイエロへと向ける。
当然だろう。本人からすれば、納得出来るはずがなかった。何故、クロトは治療して、自分が――。
そんな気持ちを表面に出す秋雨に対し、イエロは眉を八の字に曲げると、静かに息を吐いた。
「今、あなたを完治させるのは得策ではないと、考えているのですよ」
「得策ではない……ですか? どうして、そう思われるのですか?」
納得出来る理由が欲しい、そう言う様に、秋雨は真っ直ぐにイエロを見据える。
ニワトリの着ぐるみ姿のイエロは、いつに無く真剣な表情を作ると、右の翼で頬を掻き答えた。
「正直な話なのですが、今のあなたはとても不安定で、危険な存在なのです」
「そんな――」
「恐らく、本人に自覚は無いのですよ。私は断片的な未来の一ページを多く見てきたのです。沢山の分岐する未来を、幾つも幾つも。その中でもやはり、今、あなたを治療すると待つのは最悪なシナリオだけなのです」
不安げに胸の前で手を組むイエロの発言に、秋雨は奥歯を噛み締める。
未来を視て来た――。
待つのは最悪なシナリオだけ――。
そんな事を言われて納得出来るわけがなかった。
もちろん、クロトもイエロの言葉で納得は出来なかった。だが、イエロのその震える背中に、感じていた。
嘘は言っていないと、本気で秋雨の事を考えているのだと。
その為、クロトは静かに息を吐くと、秋雨の方へと足を進めた。
クロトの行動にイエロは訝しげな表情を浮かべ、秋雨は警戒したように身構える。
そんな秋雨の頭へと右手をポンと乗せたクロトは、静かにその頭を撫で、
「焦る必要は無いよ。今はゆっくりと休んで傷を癒せって。どっちみち、俺達は動けない。アイツを倒すには秋雨の力も、龍馬の力も必要だと思うし……」
クロトがそう言うと、秋雨は俯き唇を噛み締めたまま、「はい」と静かに答えた。
その肩は悔しさで小刻みに震え、握り締めた手の甲には血管が浮き上がっていた。
クロトも気持ちは痛いほど分かる。自分が無力だと言う事を、どれ程ちっぽけな存在なのか、と言うのを、痛感するのだ。
だから、クロトは静かに秋雨の頭から手を離し、その肩を二度叩きすれ違う。
「勝負は、全員が揃ってからだ。それまでは、我慢するんだ」
小声で、クロトはそう告げ、病室を後にした。
後に残されたイエロは、秋雨をジッと見据え一度目を伏せ、ゆっくりとその唇を開く。
「彼の言う通りなのですよ。今は休む事なのです。あなただって分っているはずなのです。一人では勝てない事を。誰一人欠けてはいけない事を」
イエロのその言葉に秋雨は小さく頷く。
分っているのだ。秋雨も。
自分一人では到底あの男に及ばない事も、クロトやイエロが伝えたい事も。
それでも、自らの現状が情け無く、また皆の足を引っ張るんじゃないかと思うと、焦りが生まれてしまうのだ。
「とりあえず、今日は休むのですよ。気持ちが落ち着いたら、その時にもう一度あなたを治療するかどうか、考えるのですよ」
イエロはニコッと愛らしい笑みを秋雨へと向けた。
無言のまま秋雨は小さく頷く。納得した、了承したと言う答えだった。
診療所を出たクロトは、夜空を見上げる。
冷たい夜風が頬を撫で、その短い黒髪を僅かに揺らした。
夜空に浮かぶ月を見据えるクロトは、複雑そうな表情を浮かべる。
「これからどうするかな……」
思わずそんな事を呟いた。
イエロに治療を受けながら、事の詳細を聞かされていた。
鍛冶屋の主人が殺された事も、龍馬の事も。
そして、あの男が秋雨の使う剣術、静明流の師範だった男だと言う事も。
今の自分が果たしてそんな男に勝てるのか、そう考えていた。
もう魔剣ベルは打ち直して貰えず、武器も持たない自分に何が出来るだろうか。そんな疑問を自身に投げ掛け、クロトは肩の力を抜く。
考えるだけむだだろうと、そう思ったのだ。
今はただ出来る事だけを考える。たとえ勝てなくても、勝つために何が出来るかを考える。
結果として言えるのは――
(もっと、魔力の制御を上手くしないと……)
と、言う事だった。
今回の件でクロトは実感した。咄嗟の状況でも一瞬で魔力を使えれば、こんなにも大きな怪我をすることはなかったと。
体が反応出来ても、それだけでは意味が無いと。
だからこそ、今まで以上に魔力の制御を鍛え上げようと、クロトは両手に魔力を込めた。
一瞬で両手に魔力が放出され、それを手に定着させる。その間、一・二秒程だが、これでもまだ遅いとクロトは感じていた。
(もっと速く……一瞬で……)
と、そんな事を思っていると、一つの足音が耳に届いた。
足音の方へと顔を向けると、そこにはレッドが佇んでいた。赤紫の髪を揺らすレッドは、落ち着いた面持ちでクロトの顔を見据え、安心したように笑みを浮かべた。
「どうやら、もう大丈夫のようだね」
穏やかな口調でそう言うレッドに、クロトは両手に集めた魔力を消し、体を正面に向ける。
「どうしたんだ? こんな時間に? まさか、見回りしてたんじゃ……」
「違うよ。ちょっと、考え事をして町を歩いていただけだよ。それに、今の僕じゃ見回りをしても役にはたちそうにないし」
僅かに俯き伏せ目がちに答えるレッドに、クロトは「そっか」と呟いた。
お互いに暗いムードを漂わせるが、それを払拭するようにクロトは微笑する。
「それにしても、凄い人だな」
クロトがそう口にすると、レッドは苦笑する。
「そうですね……正直、僕も驚いてますよ」
「一体、何者なんだ?」
クロトがそう尋ねると、レッドは肩を竦める。
「さぁ? 僕も詳しくは……。ただ、僕が連盟に加入した時には、彼女はすでに連盟の雉として働いてましたよ?」
「えっ……じゃあ、レッドより年上?」
「どう……なんでしょう? 年齢を聞いた事は無いですし、そもそも彼女ずっと着ぐるみだから……」
レッドがそう言い首を傾げると、クロトは目を細め「えぇー」と声を漏らした。
とても謎の多いイエロに、二人は唸り声を上げていた。