第175話 和解
早朝、ローブを纏ったクロトは、町をジョギングしていた。
船にいるとまたパルを怒らせかねないと、判断した結果だった。
彼是、二・三時間程走り続けるクロトは、人気の無い林の中で足を止めローブをとった。
「はぁ……はぁ……」
荒い呼吸音だけが響き、クロトは膝の上に手を置いた。
額から汗がこぼれ、クロトはそれを右手の甲で拭う。
久しぶりに長距離を走った為、クロトの膝は小刻みに震える。それでも、クロトは背筋を伸ばすと、深く長く息を吐き出した。
「さて……と」
呼吸を整えたクロトはそう呟くと、右手に魔力を込める。
拳を薄らと光の膜が覆う。そして、それが赤く輝きを放つ。
深々と息を吐き出すクロトは、意識を集中し穏やかな眼差しを正面へと向ける。
誰も居ないその場所に、クロトは敵の姿をイメージする。それから、剣を構えるように体を動かし、腰の位置に構える。
(焔一閃の範囲は横一線。効果は炎で包まれた刃による斬撃。特性は細胞を死滅させる一撃)
頭の中でそう言い聞かせ、その攻撃をイメージする。
そして、それをトレースするように右足を踏み出し右肩を引き、腰を回転させ一気に腕を振り抜く。
炎が空を裂き、火の粉が散る。振り抜かれた右手の先からは白煙が噴き上がっていた。
「んんーっ……」
納得できないのか、クロトは唸り声を上げ腰を上げる。
と、その時、茂みが揺れた。その音にクロトは瞬時にフードを被り、振り返る。
振り返ると同時に目に入ったのは、褐色の肌に白髪を揺らすケルベロスだった。
相変わらず切れ長の鋭い眼差しを向けるケルベロスに、クロトは表情をしかめる。
あの日以来、どうにもケルベロスと顔をあわせるとバツが悪い。その為、ついつい表情が硬くなってしまうのだ。
そんなクロト表情に、ケルベロスも一瞬嫌な顔をしたが、すぐに息を吐き、真剣な表情を向けた。
沈黙が続き、静寂が場を支配する。その中で、ケルベロスは静かに口を開く。
「お前に話がある」
静かなその言葉の後、冷たい風が吹きぬけた。風は木々をざわめかせ、二人の髪を優しく撫でる。
「話? 一体、何の話だ?」
そんな中でクロトはそう受け答えをする。表情は相変わらず硬く、声はいつもと違い少々刺々しい感じだった。
すると、ケルベロスは眉間にシワを寄せ、瞼を閉じる。何から切り出すべきか、考えていた。
慎重に言葉を選ぶケルベロスだったが、やがて小さく息を吐くと瞼を開き切り出す。
「俺、自身の話だ。聞け」
上から目線のケルベロスに、クロトは体を向け、訝しげに聞く。
「お前自身の話? いまさら、何を話すって言うんだよ」
クロトが怪訝そうに目を細めると、ケルベロスはその目を真っ直ぐに見据え、右手を胸の前まで持ち上げ握り締める。
その行動に何の意味があるのか分らず、クロトは首を傾げる。
ケルベロスは無言のまま、奥歯を噛み締めると、その拳に力を込めた。
「うぐっ!」
僅かに声が漏れ、額に血管が浮き上がる。
力んでいるのは分かるが、全く魔力の波動も感じず、クロトは眉間にシワを寄せた。
「何してるんだ? 話があるんじゃなかったのか?」
「くっ! はっ……」
息を吐き、脱力するケルベロスは、肩を上下に揺らしクロトを静かに見据える。
二人の視線が交錯し、暫しの時が過ぎる。それから、呼吸を整えたケルベロスが静かに告げた。
「今、少しでも魔力を感じたか?」
「いや? ……なんだ? 馬鹿にしてるのか?」
腕を組み目を細めるクロトが、不快そうにそう尋ねる。
魔力など全く練りこんでいないのに、魔力など見えるわけなかった。その為、クロトは不快だったのだ。
幾らクロトでも、今では魔力の波動くらい感知できる程成長していた。だから、ケルベロスの行動が人を馬鹿にしているように見えたのだ。
しかし、ケルベロスは「そうか……」と呟き、表情を曇らせる。そして、深いため息を吐き、握っていた拳を開き、その手の平をケルベロスはジッと見据えていた。
「何だ? 一体、何が言いたいんだ? もう少し、分りやすく言えよ」
クロトが眉間にシワを寄せ、そう尋ねると、ケルベロスは瞼を閉じ鼻から息を吐く。
それから、深刻そうな表情で、口を開いた。
「今、俺は魔力を練り込んだ……つもりだ」
「はぁ? 魔力を練り込んだつもりって……。全然、魔力なんて感じなかったぞ?」
右手の平を上へと向け、二度、三度と軽く上下に振りながらクロトがそう言うと、ケルベロスは視線を逸らす。
その行動に、クロトは悟る。
「お、お前! まさか、魔力、戻ってないのか!」
「ああ。そうだ」
クロトの声に対し、静かにケルベロスは答えた。
その答えにクロトは唇を噛み締めると、ケルベロスへと掴み掛かった。
胸倉を掴み、額をケルベロスへとぶつけたクロトは、その顔を睨みつけ怒鳴る。
「何でもっと早く言わないんだよ! じゃあ、あの時からずっと――」
「ああ。魔力は消失したままだ」
「くっ! ふざけるなよ! 何だよ! 魔力は消失したままって! 一時的なものなんじゃないのかよ!」
クロトがケルベロスの体を前後へと揺さぶり、そう声を荒げる。しかし、ケルベロスは小さく首を振り、瞼を閉じる。
「魔力解放は、魔力を失う。一時的な事かもしれないし、一生戻らないかもしれない」
「なっ! な、何だよ、それ! じゃ、じゃあ、お前はもう……」
「あぁ。魔力が戻らない可能性が高い」
ケルベロスがそう言うと、クロトは掴んでいた胸倉から手を離し、一歩、二歩と後退する。
何かを言うわけでも無く、ただ俯き瞼を硬く閉じるクロトは、奥歯を噛み締めた。
そんなクロトを見据え、ケルベロスは乱れた衣服を正す。
「悪いな。今まで黙っていて。だが、魔力を失ったと知れば、クロト、お前やセラを不安にさせると思って――」
「ふざけんな! そんな大事な事、何で隠すんだよ!」
ケルベロスの声を遮り、クロトが怒鳴り散らした。怒りを滲ませるその眼差しが、ケルベロスの胸に突き刺さる。
きっと、自分がクロトの立場だったとしたら殴り飛ばしている所だろうと、ケルベロスは唇を噛み締めた。
分っているのだ。自分が魔力を失った事を隠した事で、色々と迷惑を掛けている事を――。それに、このまま黙っていたら、何れ皆を危険にさらす事になる。
そう思ったからこそ、ケルベロスはクロトに全てを告げたのだ。
二人の間に流れる長い長い沈黙。その中で、クロトは怒りを静めるように深く長く息を吐き出す。
そして、空を見上げた。
クロトが何を考えているのか分らず、ケルベロスは眉間にシワを寄せる。
そんな折だった。クロトが静かに語る。
「この世界に、俺の知ってる奴が居る」
突然のクロトの言葉に、ケルベロスは怪訝そうな表情を浮かべた。
何を言っているのかイマイチ理解出来ない。この世界に知っている奴がいる。そんなの周知の事だ。今更、何をおかしな事を言っているんだと、ケルベロスは疑念を抱いた。
そんなケルベロスへと、クロトは静かに息を吐き出し、顔を向ける。そして、複雑そうな表情で伝える。
「もちろん。この世界の人じゃない」
クロトのその発言に、ケルベロスの表情は険しくなる。そして、一人の少女の顔が頭の中に浮かぶ。以前、囚われ暴走させられた時、救ってくれた少女の顔だ。
今に思えば、あの少女も不思議な空気を漂わせていた。この世界の者ではない、変った雰囲気だった。
そんな事を考えているケルベロスに対し、クロトは更に言葉を続ける。
「ソイツは、幼い頃からの知り合いで……まぁ、親しかったか、って聞かれると微妙だけど……」
クロトは苦笑する。それから、すぐに言葉を続けた。
「もしかすると、ソイツは俺の所為でこの世界に来たのかもしれない……」
「どう言う事だ?」
話が唐突過ぎて、ついていけず、ケルベロスが思わずそう尋ねる。
すると、クロトは、右手で頭を抱え込んだ。
「まぁ、何だ。俺が、この世界への扉を開いた。その所為で、彼女もこの世界に来てしまったって所だ。理由は分からないけど……」
複雑そうなクロトの顔に、ケルベロスは眉をひそめる。
「まだ、何かあるのか?」
「あぁ……その彼女の使う力は――」
クロトの口から発せられた言葉に、ケルベロスは息を呑んだ。
その言葉はそれ程信じがたい衝撃的な事だった。その為、ケルベロスは眉をひそめる。
「おいおい……アイツは英雄だぞ? そんな事が……」
「だからこそ、誰も疑わないんだよ。英雄が使う力は神の力だって」
クロトは静かにそう言い、深刻そうに目を伏せた。




