第155話 深夜の町で
唐突にクロトは目を覚ました。
いつの間にか寝ていた様で、気付けば外は真っ暗だった。
硬い寝心地の悪いベッドから起き上がり、クロトはふら付きながら窓の方へと歩み寄る。
寝る前の記憶が大分あやふやだった。
(確か、夕食を食べていたはず……なんだけど?)
記憶を辿り、一番はっきりと覚えている光景を思い出す。
確かに、直前まで夕食を食べていた記憶はあった。
その後からプツリと記憶が途切れていた。
何をしていただろうか、と考えるクロトは不意の頭痛に右手で頭を押さえる。
と、同時に胸がムカムカと気持ち悪くなり、吐き気をもようした。
この体調不良は明らかにおかしいと、クロトは壁にもたれ天井を見上げる。
もう一度記憶を辿る。
今度はもっと鮮明に、一こま一こまをゆっくりと。
夕刻のケルベロスとの争いから、部屋に戻り精神統一。
それから、夕食。
今日はファイが作ったと言う事もあり、安心して――
「あぁ……」
思わずクロトの口からそんな声が漏れた。
思い出した。
そう、クロトが気を失ったのはファイが作った料理を口にした直後の事だった。
安心して口にした瞬間にクロトを襲ったのは激痛。
美味い、不味いと言う味覚を感じる前に襲ったその痛みは、一瞬でクロトの意識を断ち、そのまま今に至る。
額を右手で押さえたまま、クロトは深く息を吐き出す。
まさか、ファイの料理の腕がそこまで酷いものとは思ってもいなかった。
うな垂れるクロトは、深くため息を吐くと、よろよろと歩き出す。
力なく部屋を出ると、床を軋ませ廊下を進む。
ここ最近、まともな料理を食べていない為、お腹が空いていた。
その為、クロトは何か食べる物が無いだろうか、と、キッチンの様子を窺う。
ドアの外から耳を澄ませる。
音は無い。誰もいないのだろうか、とドアノブを握るが、足元にドアの隙間から漏れる光が見えた。
(誰かいる?)
眉間にシワを寄せたクロトは、握っていたドアノブから手を離し、ドアに耳を当てる。
やはり声は聞こえない。
ロウソクの火を消し忘れたのだろうか、とクロトは眉をひそめる。
だが、妙な気配を感じ、そっとその場を離れた。
ここではまともな食事は摂れないだろうと、クロトはそのまま屋敷を出る。
今、どれ位の時間なのかは分からない。
だが、まだやっている店があるはずだと、クロトは考えたのだ。
雪の降る静かな夜。
クロトは徘徊していた。
すでに街灯以外の明かりは全て消え、とても店が開いているとは思えない。
それでも、クロトは黙々と重い足を進める。
雪が降り積もる街道には人一人見当たらない。
皆、この寒さに家に閉じこもっているのだ。
今までは地下に捕らえた魔族の力により、この地は雪など積もらず暖かな空気を保っていた。
それが失われ、皆困っているのだ。
寒さに身を震わせるクロトは、不意に足を止める。
街灯の光に僅かに人影が映りこむ。
その影にクロトは異様な気配を感じ、瞬時に身構えた。
魔剣ベルを失った為、クロトは両拳に魔力を集める。
その瞬間、その影がクロトの存在に気付く。
振り返り、赤い瞳がクロトを見据える。
魔族、と、クロトが思うや否や、不気味な魔力を全身から迸らせ、その小柄な影が長い髪を逆立てた。
「な、何だ……コイツ……」
思わずクロトはそう口にした。
それ程、不気味な魔力だった。
ドクンと心臓が強く脈を打つ。
そして、魔力を込めた両拳に反射的に赤黒い炎が灯る。
すると、その小柄な影は音も無く地を蹴り、長く広い街道を駆けた。
街道に積もった雪を巻き上げ、足跡を残しながら迫るその影に、クロトはすり足で左足を踏み出すと右拳を大きく振りかぶる。
しかし、その瞬間、その影は急ブレーキを掛け動きを止めると、そのまま跳躍。
積もった雪が波紋状に弾かれ、地面に僅かな亀裂が生じる。
その人物を追う様にクロトの顔が上へと向き、視線が上がった。
直後、視界を覆う巨大な手がクロト押し潰した。
衝撃音が轟き、地響きが広がる。
その音に、次々と周囲の家に明かりが灯り、人々の驚く声が聞こえだす。
「ぐっ!」
巨大な手を両腕で支えるクロトは、身を低くし何とか堪えていた。
その重量と手触りから、その手が土で出来たモノだとクロトは気付いた。
(土で出来た手? ……これなら!)
クロトは奥歯を噛み締めると、右手をその土の手から離し、腰の位置に構え力を込める。
(業火! 爆炎拳!)
右拳を一気に自分の体に圧し掛かる土の手へと放つ。
衝撃音が轟き、地面と巨大な手の合間から赤黒い炎が噴出し、その数秒後、土の手が砕け空へと赤黒い炎は飛んだ。
炎の熱により周囲の雪は溶け、クロトの体からは黒煙が昇る。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を乱すクロトは拳を構えなおし、辺りを見回す。
直後、背後で魔力の波動を感じ、クロトは前方へと飛び反転する。
雪解け水が足元ではね、水音を僅かに響かす。
その中で、クロトは視線を魔力の波動の方へと向け、踏み込む右足へと体重を乗せた。
赤く輝きを放つ右目が、薄暗い街灯の届かぬその場所に佇む一人の少年を捉える。
その右手に膨大な魔力の波動が渦巻き、クロトは寒気を感じた。
(そんなもんをこんな町中でぶっ放す気か!)
クロトはそう思うとほぼ同時に体が動き出す。
その膨大な魔力をこんな場所で解放すれば、大惨事になると瞬時に考えたのだ。
右腕に魔力を集中し、クロトは全力で少年へと駆ける。
そして、集めた魔力を一点に集中し、拳を振り抜く。
「爆炎拳!」
左足を踏み込み、全体重を乗せ放たれた拳が少年の顔面を捉える。
だが、その直後右拳に激痛が走り、クロトの表情は歪んだ。
それでも、クロトは力を緩める事無く、完全に拳を振り切った。
凄まじい打撃音と共に衝撃が吹き抜け、少年の体は後方へと弾かれる。
何処までも続く長い街道を二度、三度とバウンドしながら少年の体はそのまま町の外まで飛んでいった。
クロトはそれを追う様に走り出す。
理由は二つ。
一つはこの場をすぐに離れる為、もう一つは、あの少年をこれ以上この町に踏み入れさせない為。
全力疾走だった。
自分が出せる最大限の力を込め、雪の積もった地面を蹴り駆ける。
背後で僅かな騒ぎが聞こえた。
巡回中の兵士達も集まってきたのか、「何事だ!」と野太い声が上がっているのがクロトの耳に届いた。
申し訳ないと思いながらも、クロトは決して足は止めない。
それよりも、あの少年の事が最優先だと考えたのだ。
暫く走り続け、クロトはゆっくりと足を止める。
丁度、町を出たその先に少年は佇んでいた。
うな垂れた頭には雪が積もり、吐き出された息が白く染まっていた。
先程まで感じていた膨大な魔力は消滅し、とても先程までの少年と同人物とは思えぬ程、静かだった。
息を呑むクロトが身構えると、少年の顔がゆっくりと持ち上がり、赤い瞳がクロトを見据える。
先ほどまでの異様な空気は無く、ただ静かに真っ直ぐに向けられた眼に、クロトは訝しげな表情を浮かべる。
(なんだろう? さっきまでと明らかに様子が違う……)
警戒心は解かず、クロトは構えていた拳を下した。
すると、少年が静かに口を開いた。
「僕は……あなたを探してました。黒兎裕也」
「――!」
クロトは驚愕する。
見知らぬはずのその少年が、クロトのフルネームを口にした為に。
驚くクロトに対し、少年は静かに言葉を続けた。
そして、クロトは彼の告げた真実に更に驚愕する事になる。