第146話 ベルの覚悟
クロトは呆然としていた。
何故、彼女がここに居るのか、その事が頭の中を駆け巡る。
と、同時に疑念も抱く。
アレが、本当に冬華なのか、と。
冬華に似た別人なんじゃないか、そう思ったのだ。
だが、その服装は間違いなく自分の世界、いや、クロトの通う高校の制服。
故に、疑いの余地は無く、彼女が正真正銘、自分の幼い頃から知っている冬華なのだと理解する。
唇を噛み締めるクロトは思う。
“俺の所為で、冬華もこの世界に来たんじゃないか”
と。
クロトがそう思うのは、この世界に来るキッカケとなったあのゲームの事だった。
原因が本当にあのゲームだとするならば、恐らく冬華はクロトがこの世界に来た後に、あのゲームを目にしたのだと。
その為、クロトが登録せずシャットダウンしていれば、冬華をこんな危険な世界に巻き込む事はなかった。
後悔の念がクロトを締め上げ、握り締めた拳が震える。
『どうした? クロト』
突然のクロトの異変に、ベルは不思議そうに尋ねる。
その声にクロトは我に返り、小さく首を振った。
「大丈夫……なんでもない……」
そう言うクロトだが、その表情は明らかに大丈夫と言う表情ではなかった。
読み取ろうと思えば、クロトの考えを読み取る事が可能だったが、ベルはそうしなかった。
そこまでベルの考えが至らない程、彼女自身焦っていたのかも知れない。
今、ここの場所に迫る妙な気配によって。
腹部を突き刺された男はよろめいた。
冬華は静かにその男の腹部に刺した槍を抜き、その口からは荒く白い息が吐き出される。
血に染まった透き通る様な蒼い刃が切っ先を地面へと向けた。
放心状態なのか、冬華はその場に仁王立ち微動だにしない。
首を刎ねられ、腹を割かれたクマの体はゆっくりと倒れゆき、やがて風でコロコロと雪原を転げた。
腹部から大量の血を流す男は、ゆっくりと顔をあげ、冬華を見据える。
「な、何故だ……何故、お前が生きている……」
腹部を押さえ驚きの声を上げる男に、冬華の反応は無い。
その様子にクロトは聊か疑問を抱く。
冬華はあんなに無口だっただろうか、あんなにリアクションの薄い奴だっただろうか、と。
何か胸騒ぎを感じるクロトは、ふら付く足に力を込め走り出す。
だが、その直後だった。
轟音と共に空より飛来する。
漆黒の鎧をまとう不気味なオーラをまとう者が。
衝撃にクロトの体は吹き飛び、大量の土煙が舞い上がる。
横転したクロトは、地面に平伏し目を細めた。
「な、何だ……一体……」
驚きの声を上げたクロトは、目の前に佇むその鎧をまとう者の姿に目を見開いた。
その鎧に見覚えがあった。そして、聞き覚えのある声が響く。
「久しいな。小僧!」
おぞましい男の声に、クロトは全身の毛を逆立てる。
思い出す。バレリア大陸での惨劇を。
クロト、ケルベロス、グレイ、ロズヴェルの四人で一斉に攻撃を仕掛け惨敗を喫したあの光景を。
ドクンと激しく脈を打つ心臓を、握り締める様にクロトは胸を握る。
だが、ここで異変は終わらない。
突如、辺りに漂う高熱。雪は溶け水なり、額に汗を滲ませるクロトは声を上げる。
「今度は……なんだ!」
眉間にシワを寄せるクロトの視線があがる。
ここで、ようやくクロトは気付いた。その空を覆う大きな炎の玉に。
まるで太陽が落ちてきたかの如く、地上へと迫るその炎の玉にクロトはただただ目を丸くする。
こんな事が出来る者がいると言う事に驚きを隠せなかった。
「チッ……アイツ……。俺らまで巻き込むつもりか……」
紅蓮の炎の玉に照らされ、漆黒の鎧を光沢よく輝かせる男がそう呟き空を見上げる。
この言動から、クロトは悟る。
この現象を引き起こしている者がこの男の知り合いである事を。
だが、驚く事はまだ続く。
地上へと迫るその巨大な炎の玉が真っ二つに裂け、一人の男が地上へと降り立つ。
ゆらりと結った長い髪を揺らす和装の男。その手に携えた刀を静かに鞘へと納め、下駄を鳴らし空を見上げる。
「テメェー。ふざけてんじゃねぇーぞ」
空を見上げる和装の男がそう呟き、目を凝らす。
真っ二つに裂けた炎の玉はバラバラに散ると、流星群の様に地上へと小さな火の玉となり降り注いだ。
凄まじい爆音と衝撃が広がり、辺り一帯を赤く染める。
林が炎に包まれ、木々は音をたて崩れ落ちていく。
その光景をクロトは眺めているだけしか出来なかった。
「あんたこそ、邪魔してんじゃねぇーよ!」
上空から真紅のローブを揺らし、一人の魔術師が降り立つ。
あの魔術師が先程の炎を放った主だと、クロトはすぐに理解した。
そして、あの炎の玉を真っ二つにしたのが、あの和装の男。以前、大商業都市ローグスタウンですれ違った男だった。
輝く右目が激しく疼き、クロトは思わず左手で右目を覆う。
「ぐっ……」
その右目に映る光景は、気持ち悪くなる程、強い色が混ざり合う光景だった。
一体、誰がどの色の空気を放っているのかも理解出来ない程、不気味な色合い。思わず嘔吐してしまいそうになる程、気持ちが悪かった。
そんな彼らの登場に驚いているのは、クロトだけではない。
冬華も、その前に膝を落とす漆黒のローブをまとう男も、驚きの色を隠せずに居た。
「ど、どう言う事だ! 何故、お前らが! ここは、私が――」
「無様だな……」
男の発言に、突如、静かな落ち着いた声が響いた。
そして、ソイツは何の前触れも無くその男の背後に現れた。
美しい漆黒のローブを纏い、腰にガンホルダーをちらつかせる男。深々とフードを被り、顔までははっきりと分からないが、その鋭い眼光、赤い瞳は殺気を纏い、平伏す男を見据えていた。
「貴様……どう言うつもりだ……」
「お前一人では、荷が重いと思ってな。最強の魔女を相手にするのは」
淡々と感情も無くそう告げる男はローブへと手を居れ、腰のガンホルダーから銃を抜いた。
「一体、何者よ!」
その瞬間に冬華が声をあげ、槍を構える。
そんな冬華へと男の赤い瞳が向けられ、銃口がゆっくりと冬華に向いた。
「ちょっと! ソイツの相手は俺だよ!」
幼さの残る声で、魔術師は乱暴にそう告げると、炎の壁で男と冬華を分断した。
その行動に男は静かに息を吐き、僅かに目を細める。
そして、その視線は目の前に膝を落とす漆黒のローブをまとう男へと向けられた。
圧倒的な魔力の波動、精神力の波動を放つその四人の姿に、クロトはヨタヨタと後退する。
右目が熱く、激痛を伴う。
その痛みに表情は歪み、薄らと開かれた口から唾液が零れ落ちる。
胃酸が込み上げ、今にも吐き出しそうだった。
「ぐっ……がはっ!」
『クロト! 確りしろ!』
完全に周囲の気配に呑み込まれるクロトに、ベルが叫ぶ。
だが、その声を断ち切る様に漆黒の鎧を纏った男が重々しい足音を響かせ、クロトへと突っ込んできた。
「さぁ、あの時の続きをしようじゃねぇか!」
大きく振りかぶった拳を、男は叩きつける様にクロトへと振り下ろした。
その拳が、クロトの視界へと入る。だが、反応するだけの力が無く、重々しい一撃が左頬を殴打した。
「うぐっ!」
奥歯が――頭蓋骨が――軋む。
脳が大きく揺さぶられ、視界が激しく一転する。
どれ位転げたのか、クロトは全身に雪を纏い空を見上げていた。
鼻から――、口から――血が溢れていた。
意識はもうろうとし、体が重く立ち上がる事など出来そうになかった。
『クロト! おい! クロト!』
ベルが名前を呼ぶのが聞こえたが、クロトは反応しない。
恐らく、衝撃で鼓膜が破けたのかもしれない。それ程、あの男の一撃が重々しく凄まじいモノだった。
今のクロトに戦うだけの力が無いと、ベルは判断し、小さく声を漏らす。
『くっ……やっぱり、こうなるか……』
前々からベルは予期していた。
いつか、こんな日が来ると。
だからこそ、ベルは覚悟を決め、今のクロトに残された魔力を全て吸収する。
それにより、クロトの右目は魔力を失い輝きを失う。
「べ、ベル……」
魔力が減っていくのか感じ取り、クロトはゆっくりとその視線をベルへと向ける。
そして、次の瞬間、ベルは輝き、そこに人と化したベルが姿を見せた。
長いオレンジブラウンの髪を揺らし、黒衣に身を包んだベルは、静かにクロトの手から剣を奪うと、その耳元で囁く。
「今まで、お前と一緒に居られて、楽しかった……。私はここでお別れだ。恐らく、もう二度と会う事は無いだろう。だから、伝えておく……」
ベルの言葉がクロトに聞こえているのか分からない。
だが、ベルは伝えたいとそう思った。
だから、ベルは瞳を潤ませ、もう一度囁く。
「ありがとう……さようなら」
と。そして、最後にクロトの胸倉を掴み、炎に包まれる林の向こうへと、その体を投げつけた。
木々を粉砕し、火の粉が舞う。
それを、暫く見据えたベルは、ゆっくりと息を吐き出した。
「お前は……あの時の女か」
「私は、魔剣ベルヴェラート。我、主には指一本触れさせぬ」
小柄な体で、その剣を構えたベルは、強い眼差しを鎧の男へと向けた。