第142話 猿
崩壊が始まったヴェルモット王国の地下。
そこで、キエンは魔族達を逃がす為に必死に動き回っていた。
飛び立ったシャルルとクロトの事は気になったが、今は魔族を逃がすのが最優先だと考えたのだ。
降り注ぐ砕石に、キエンはこの国の崩壊を悟った。
もうこの城は持たない。それが分かる程、崩壊が進んでいたのだ。
「くっ! 急げ! 怪我をしている者には手を貸して、全員で逃げろ!」
キエンの声に、魔族達は皆協力し、必死に地下から逃げ出す。
大方逃がし終え、キエンは逃げ遅れた者が居ないかを探す為に暫く地下室に残っていた。
そんな時だった。
「誰か……いますか!」
と、牢屋の方から声がした。
聞き覚えのある声に、キエンは眉間にシワを寄せ、恐る恐る牢屋の方へと足を進める。
壁が崩れ、すでに囚人などいないはずのその場所へとキエンは足を踏み入れた。すると、鉄格子の向こうで壁に繋がれた一人の青年を発見する。
赤紫の髪を垂れ下げ、顔はハッキリ見えない。だが、キエンはその青年を良く知っていた。
その為、呆れた様に右手で頭を抱え、大きく肩を落とし呟いた。
「何やってんだよ……お前……」
静かなキエンの呟き声に、うな垂れる青年は静かに顔を上げ、穏やかな優しそうな顔をキエンへと向けた。
「あ……キ、エン……か?」
モウロウとする意識でそう呟いた青年に、キエンは右手で頭を掻く。
「ああ。俺だよ。で、何で、こんな所に繋がれてるんだ? レッド」
呆れた様にそう言うキエンは壊れた鉄格子の扉を潜り、レッドと呼んだ青年の下へと歩みを進めた。
少々垂れ下がった目元を緩めるレッドは、弱々しく笑うと申し訳なさそうに呟く。
「いや……忍び込んだまではよかったんだけど、ちょっと失敗してね……」
「猿ともあろう方が、情けないな」
「面目ないな……」
鎖を解き、レッドの体が床へと落ちる。
大分衰弱しているが、何とかレッドは立ち上がった。
ガッチリとした体に刻まれる痛々しい傷跡。恐らく、レッドはここで拷問を受けたのだろう。
どれ程、酷い拷問だったのかは、聞かなくても想像出来る程、傷は酷かった。
「大丈夫か?」
「ああ……それより、肩を貸してくれないか?」
レッドが口元に薄らと笑みを浮かべると、キエンは呆れた様に首を振った。
「嫌です。俺も大分手ひどくやられて辛いんで」
「だよ……な」
苦笑し、レッドは壁に手を着き足を進める。
そんなレッドの姿に、キエンは深く吐息を漏らし、その腕を肩へと回した。
「ほら、とっとと、脱出するぞ。生き埋めなんてごめんだからな」
「ああ……助かるよ」
二人は牢屋を出て不意に足を止めた。
妙な気配を感じたのだ。その為、二人の足は自然と隣りの牢屋の方へと向かう。
「こ、これは……」
思わずキエンが声を上げ、左手で口を覆った。
そして、レッドも眉間へとシワを寄せ、絶句する。
そこにあったのは、無残な姿の遺体だった。異臭を漂わせ、ハエがたかるその遺体の指には宝石の埋め込まれた豪勢なリングがはめてあった。
「もしかして、これって……」
「ああ。でも、何で彼が……」
訝しげな表情をするレッドは、そう静かに呟いた。
雪原の中、シャルルの前に膝を落とし、クロトはうな垂れる。
沈黙し、静寂が漂う。
冷たい風が吹き抜け、クロトの黒髪は緩やかに揺れた。
頬を伝っていた涙は涸れ、俯くクロトは充血した目を閉じ唇を噛み締める。
クロトの体から溢れ出す魔力の波動に、ベルは危ういモノを感じた。
いや、以前からベルは感じていた。クロトの中にはどす黒い何か別の存在が眠っている事に。
だからだろう。危惧していた。今回のこの事件が、それを呼び覚ます引き金にならないかと。
手に、その服に、付着したシャルルの血はもう凝血し、黒ずんでいた。
何も言葉を発せず、静かに瞼が開かれ、その目はか細い一人の少女を見据える。
『クロト……』
ベルがそう呟いた時だった。
爆音が轟き、大量の雪と冷たい爆風と共に一人の――いや、一体のクマの着ぐるみが雪原を転げた。
普段のクロトなら、そこで驚きの声をあげそうだが、今回は違う。
ただ黙って静かに振り返り、その人物を見据える。
ノーリアクションがベルには妙に恐ろしく感じた。
アックスを持ったクマの着ぐるみは、すぐさま体を起こすと、その場を飛び退く。
遅れて、そこへと空から一人の男が突っ込む。両刃の大剣を地面へと突き立てる様にして。
重々しい重量のある衝撃音が響き、地面が砕けた。
雪と土とが混ざり合い空へと舞い、男はゆっくりと顔を上げた。
その透き通る様な淡い赤紫の瞳が不気味に輝き、その目に反応するようにクロトの右目が赤く輝きを放った。
突然の事に、クロトの右の眉がビクッと動く。クロトの右目には今、おかしな光景が映っていた。
人間であるはずのその男の両目から膨大な魔力の波動が広がっていたのだ。
その瞬間、クロトは悟る。この男こそ、シャルルの目を奪ったヴェルモット王国の国王だと言う事を。
「アイツが……シャルルを……」
ボソリとクロトは呟く。
その声には怒気が篭り、ベルはその体から迸る高濃度の魔力の波動に叫ぶ。
『クロト! 落ち着け――』
だが、ベルの言葉はクロトには届かない。
魔力は一層濃度を増していくと、その体から激しい雷撃を迸らせる。
明らかにクロトの魔力とは質の違う別物の魔力が魔剣を包み込んだ。
そして、ベルの意識は断たれた。
全身から迸る雷撃は、クロトの皮膚を裂き鮮血を散らせる。
しかし、クロトはそんな些細な痛みなど気にせず、ゆっくりと一歩踏み出した。
それからは一瞬だった。
体にまとった雷撃が、クロトの身体能力を強化し、体が軽い。そのお陰か、一瞬でその男の前へと移動した。
クロトの突然の出現に、ヴェルモット王国の国王、ヴァルガは驚きの表情を浮かべる。
「なっ! 何処から――」
「一閃!」
腰の位置に構えた魔剣をクロトは横一線に振り抜く。
「ぐっ!」
火花が散り、ヴァルガの表情が歪む。
ギリギリ、クロトの振り抜いた刃を大剣の平で受け止めていた。
たが、衝撃はそのまま体を襲い、ヴァルガの体が右へと弾かれる。
足元に雪煙を吹かせ、ヴァルガは体勢を整えた。
「貴様、一体――」
動きを止めたヴァルガが声をあげようとするが、クロトはそれを許さず追撃する。
ヴァルガの右へと回り込み、また腰の位置へと剣を構えた。
ヴァルガの淡い紫色の瞳は確りとクロトの動きを捉え、その動きに対応するように体を動かす。
「舐めるな! ガキが!」
クロトの動きにカウンターをあわせる様にヴァルガもその足を踏み込む。
しかし、その瞬間、クロトはバックステップで後方へとさがった。
遅れてクロトの前方をヴァルガの大剣が通過し、その太刀風がクロトの黒髪を揺らす。
赤く輝くクロトの右目と、ヴァルガの視線が交錯し、ゼロコンマ数秒の時間が過ぎる。
僅かな時間だったが、二人にはそれがとても一瞬とは思えぬ程の時に感じた。
足元に雪煙を舞い上げるクロトは、キッとヴァルガを睨み、その手に握った剣へと赤黒い炎を灯す。
「焔一閃!」
右足を踏み込みその剣を横一線に振り抜く。だが、直後に異変は起きる。
突如、体を襲う激しい痛み。
何が起こったのか全く理解できぬまま、気付いた時には空を仰いでいた。
そして、その身から溢れていた魔力は完全に失われていた。
「ぐっ……な、何が……」
『大丈夫か? クロト?』
左手で頭を押さえるクロトの耳にベルの声が聞こえた。
その声にクロトは顔を見向けた。
そこに、魔剣は転がっていた。輝きは失われ、錆びれたその刃をむき出しにして。
蓄えられていた魔力も失い、クロトからの魔力の供給も失われた為に、元の姿に戻ったのだ。
「ベル……どうなった?」
『怒りに呑まれ、魔力に取り込まれたお前を、彼女が助けてくれた』
「かの……じょ?」
ベルの言葉にクロトは訝しげに目を細めた。
一体、誰の事だろうと、クロトは静かに重い体を起こし、その視線を動かす。
そして、一人の女性とみづぼらしい少年の姿を、視界に捉えた。