第139話 その優しさを忘れないで
ケルベロスは雪の中をひたすら走り続けた。
雪原に残される足跡は、降り注ぐ雪で徐々に薄くなり、吐き出される息は真っ白に染まる。
コートがダメになった所為か、ケルベロスの体温は徐々に奪われ、唇は青くなっていた。
足を止めると寒さに意識を失いそうになる為、ケルベロスはただひたすら足を動かし続ける。
汗が滲み出ていた黒髪は凍り付き、パリパリと妙な音を立てていた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を荒げるケルベロスは、不意に顔を上げる。
その行動は、偶然だった。そんなケルベロスの視界に飛び込む、空を舞う不気味な龍の姿が。
異様な魔力を放つその龍に目を見張るケルベロスは、息を呑むと同時に嫌な予感を脳裏に浮かべた。
(まさか……シャルル?)
そんな考えをした後、ケルベロスは頭を激しく左右に揺さぶった。
自分に言い聞かせる。
“あのシャルルが、あんな姿になるわけがない”
と。
そう言い聞かせないと、それ以上足が進まなくなりそうだった。
変貌したシャルルの姿など見たくなかった。
シャルルは、特別だった。
恐らく、いや、間違いなく当時、一緒に修行した者達の中で、シャルルは異質な存在だった。
誰もを明るく照らす笑顔。
誰よりも優しい心。
そして、何よりも人を惹き付ける魅力があった。
ただ単に美しかったと、言うだけではなく、その性格が人を惹きつけていた。
彼女の周りには自然と笑顔が溢れ、ケルベロスも彼女の傍に居るのは苦ではなかった。
だからこそ、ケルベロスは彼女を助けたいと願った。
だからこそ、危険だと分かっていながらクロトを行かせた。彼女を助け出せる可能性が少しでもあるならば、と。
胸の奥でざわめく。何か、嫌な予感が頭を過ぎる。
それを、払拭する様に、ケルベロスはただ全力で走り続けた。
冷たい風がクロトの頬を撫でた。
重く重なり合っていたその目はゆっくりと開かれる。
腹部に感じる暖かな感触。
その耳に届く清く優しく心に染み渡る歌声。
思わずもう一度瞼を閉じてしまいそうになるが、すぐに目を見開く。
クロトの腹部に当てられたシャルルの手が、黒い不気味な鱗に覆われ、鋭い爪をむき出しにしていたのだ。
「シャ……ルル……」
まだもうろうとする意識の中で、クロトはそう呟いた。
体を起こそうとするが、腹部に痛みが走り表情が歪む。
「ぐっ!」
「まダ……動いチャ……ダメでス……」
僅かに濁ったシャルルの声に、クロトは眉間にシワを寄せた。
シャルルの体は半分がまるで化物の様な姿へと変貌していた。
顔は何とかシャルル自身の顔だが、右半身はもう化物の様な体を戻せなくなっていた。
皮膚を侵食する様に太い筋を浮き上がらせるその黒い鱗模様の肌が痛々しくクロトに映る。
それでも、彼女は心配掛けまいと穏やかな笑みを浮かべると、また歌いだす。
クロトの腹部に刻まれた深い傷を癒す為に、その濁った声を美しく変え歌い続ける。
輝くその手から伝わる暖かな感触に、クロトは硬く瞼を閉じた。
その目尻からは熱い涙が一筋零れ落ちた。
何となくだが、クロトは感じていた。もうシャルルの体が戻らないのだと。
どれ位の時間、歌っていただろう。
どれ位の時間、クロトは瞼を閉じていただろう。
やがて、体に伝わる暖かさが途切れ、シンシンと降り注ぐ雪だけが、二人の体へと積もる。
冷たいはずの雪がクロトの体に触れると、すぐに水へと変った。
クロトの体は熱く燃え上がる様に体温を上げていた。
「クロトさン……」
シャルルの濁った声が静かに呟く。
その声にクロトの肩がピクリと動いた。
「オ願いガあリマす……」
その言葉に、クロトは静かに体を起こす。
もう、体の痛みは無く、自然と体を動かす事が出来た。
体を起こしたクロトは、俯き加減で座り込み、長く深く息を吐き出す。
黒髪が冷たい風で静かに揺れる。
重苦しい空気がその場を支配し、沈黙が長く続いた。
その沈黙を破ったは、やはりシャルルだった。
「クロトさン……私ヲ、殺シてクダさイ」
「――ッ!」
その言葉にクロトは硬く瞼を閉じる。
予期していた。治療されているその最中、そうなるんじゃないかと。
唇を噛み締めるクロトは、肩を震わせる。
「出来るわけ……無いだろ……」
声を振り絞り、そう告げたクロトは、拳を震わせた。
そんなクロトの言葉に、シャルルは儚げな表情を浮かべる。
静かに鼻から息を吸ったシャルルは、ゆっくりと白い息を吐き出す。
そして、静かにその右手をクロトの頭へと下ろし、優しく撫でた。
「私ハ、もうスグ……人デは無クなってシマいマす」
「くっ……」
彼女の言葉にクロトは眉をひそめ、思わず声を漏らす。
そんなクロトへと、彼女は言葉を続ける。
「私ハ、アノ国で、様々ナ実験ヲ行わレマしタ。目ヲ譲リ、体ハ様々ナ薬品ヲ投与されマシた。
ソウすル事デ、他の皆サンは助けてクレるト、そウ約束シましタ。そレに、私ニは癒シの力がアル為、そノ効果を押サエつケる事モ出来まシた」
淡々とシャルルは語る。
その言葉にクロトは唇を噛み締める事しか出来なかった。
シャルルが進んであの城に来た理由を、クロトはようやく理解した。
彼女は囚われた魔族を助ける為に、その為だけに、自らの身を犠牲にしたのだ。
そう考え、クロトは硬く瞼を閉じる。
こんなにも小さな体で、何て大きなモノを背負っていたのかと、そう思い涙が溢れそうになった。
しかし、そんなクロトに、シャルルは震える声で、今にも泣き出しそうなそんな声で、告げる。
「私ハ……モウ、コノ力ヲ抑エルだケノ力ハあリマせン……。
自分ガどンナ姿ニなってイルのカ、どレ程おゾマしイ姿にナッテいルのカ、見ル事は叶いマせン。
だカラ、セメて……私ノ心ガ人の間ニ……私ヲ殺しテクだサイ……」
涙すら流す事の出来ないシャルルの心からの懇願に、クロトは奥歯を噛み締める。
そして、彼女の思いに答える様に、静かに立ち上がり拳を握り締めた。
「わか……った……。俺……が……うっ……ううっ……」
自然と涙がこぼれだし、嗚咽が漏れる。
それでも、クロトはその手に魔剣を呼び出し、ゆっくりとそれを構えた。
俯き肩を小刻みに震わせるクロトの前に、シャルルは静かに立った。
向かい合う二人。
その間に流れる冷たい風。
静かな時がいつまでも続くかの様に過ぎていく。
「クロトさん……」
「あぁ……」
クロトは静かに答え、右手に持った魔剣ベルを両手で確りと握り締めた。
魔力を魔剣へと注ぎこみ、唇を血が出るまで噛み締める。
「お願イ……しマス……」
濁ったシャルルの声に、クロトは頷く。
『いいのか? クロト』
「あぁ……これは……彼女の望んだ事……だから……」
ベルの声に、クロトは震えた声で返答する。
その手から伝わるクロトの感情に、ベルはそれ以上何も言えなかった。
振り上げた剣の刃がカタカタと震える。
だが、クロトはその手を静かに下ろした。
「ダメだ……俺には……出来ない……」
唇を噛み締め、涙を流すクロトのその手を、シャルルが静かに握り締めた。
「クロトサン……ゴめンナさイ……あナタに、コンな辛イ事ヲ頼ンで……」
シャルルがそう言いながら、クロトの手に握る魔剣の切っ先を自らの胸へと向ける。
「シャルル!」
「サヨウナラ……クロトさん。ソの優シさヲ忘レナいでクダさい」
シャルルはそう言い、その腕に力を込めた。
刃は勢い良くシャルルの胸を貫き、鮮血と共に切っ先を背中から突き出す。
呆然と立ち尽くすクロト。その手がシャルルの血で赤く染まる。
その身を預ける様にクロトへともたれかかるシャルルの体を、ただ支えているだけしか出来なかった。
そんな時だった。
突如、幼さの残る少年の声が轟く。
「シャ、シャルルゥゥゥゥッ!」
地響きにも似た叫びだったが、クロトの反応は全く無かった。