第138話 償うには
ケルベロスの拳が氷を打ち破る。
砕けた氷はケルベロスの拳を包む蒼い炎の熱で溶け、やがて蒸気へと変った。
一方、氷へと打ち込まれた蒼い炎は、ケルベロスの拳から放たれると、その姿を狼へと変え蛇行しながら白銀の騎士団の一人、アーバンへと迫る。
しかし、アーバンは身構えようともせず、氷の中を駆ける青白い光を見据え不適な笑みを浮かべた。
直後だった。突如、氷が崩れ、動き出す。アーバンの放った巨大なうねりを伴う津波の様なその斬撃が――。
「くっ!」
声を漏らすケルベロスは、瞬時にその場を離れる。
今、一番危ない位置にいるのはケルベロスだった。間違いなくこのままでは直撃し、その斬撃に呑まれてしまう。
その次に危険な位置に居るのはファイ。だが、現在魔力を大量に消費した事による反動で、その場を動く事が出来なかった。
「ファイ! 来るぞ!」
「わ……わかって……ます……」
苦しげな表情で答えたファイの視線が、氷の向こうに佇むアーバンへと向く。
そして、氷の中を駆けていた蒼い炎の狼は動き出した斬撃の波へと呑まれていく様が、ファイの視界へと入った。
圧倒的だった。その力の前に、ケルベロスの放った技の威力など虫けら同然だった。
やがて氷は砕け散り、怒号の如く鳴り響く地響きは土煙を巻き上げ、その一帯全てを呑み込んだ。
全ての音が鳴り止むまでの十数分間、悪夢の様に多くの者の悲鳴が鳴り響いた。
敵、味方、関係なくその斬撃の波は全てを呑み込み、土煙が晴れたその場所には多くの者の残骸が土に埋もれていた。
血と肉片と土が混ざり合い異様な空気が漂う。
一方で、冷気も足元から漂っていた。
静寂が辺りを包み込み、ただ風だけが吹き抜ける。
「うぐっ……」
声を漏らし、ケルベロスは土の中から這い出た。
体中傷だらけで着ていたコートは綿があふれ出していた。
額から流れる血が顔の右半分を覆い、ケルベロスは右目を閉じ辺りを確認する。
「あぁ……ぐぅ……」
モウロウとする意識を保ち、ケルベロスはゆっくりと立ち上がる。
悲惨な状況を目の当たりにし、ケルベロスはよろめいた。
「大丈夫……ですか?」
そんなケルベロスに、背後からファイの声が響く。
白装束は裂け、地肌が大きく露出し、その血で赤く染まっていた。
長かった彼女の空色の髪もバッサリと切り落とされ、肩口で疎らな毛先が静かに揺れていた。
ファイの表情は相変わらず変らない。右肩を大きく負傷したのか、右腕がうな垂れその指先から血が滴れる。
天を仰ぐように顔を上げるケルベロスは、肩を揺らすと深く息を吐き出した。
「大分……手ひどくやられたな……」
「えぇ……お互い様ですけど……」
ファイがそう呟き、前方へと目を向ける。
そこには、氷付けにされたアーバンの姿があった。その中で、アーバンの体を数本のツララ状の氷が貫いていた。
アーバンの血が氷の中を彩り、美しく輝きを放っていた。
「……多く、犠牲を出してしまいましたね……」
苦しそうにそう言うファイは辺りを見回す。ヴェルモット王国軍もグランダース軍も多く失われた。
アーバンの放った一撃の破壊力の恐ろしさを改めて二人は理解した。
「しかし、よく、あの状況で奴を攻撃出来たな……」
「攻撃? いえ……アイスエイジは元々、あの攻撃を防ぐために放ったわけじゃないですよ」
ファイは落ち着いた面持ちでそう言い放つ。
その言葉にケルベロスは訝しげに目を細める。そして、青筋を浮かべると苦笑した。
「お前……あれは芝居だったって言うのか?」
「そうですね。アレで、相手は完全に油断したでしょうし、元々、あなたの炎が私の氷を貫通して相手に当たるなどと、思っていませんでしたから」
冷めた口調、冷めた眼差しを向けるファイがそう言うと、ケルベロスは表情を引きつらせる。
怒りはあった。だが、結果的にファイの言っている事も正しく、なにより彼女がアーバンを仕留めた為、ケルベロスは何も言えなかった。
肩口で揺れる自らの髪を左手で触るファイは、深く息を吐き出し僅かながら肩を落とした。
「どうかしたのか?」
「いえ……少々、ショックな事が……」
表情は変らないが、あからさまに声のトーンが下がった。
怪訝そうな目を向けるケルベロスは、小さく首を傾げる。何がショックだったのか、男のケルベロスには理解が出来なかった。
そんな折、突然、氷が砕け散る甲高い音が響いた。
その音に二人の間に緊張が走り、同時にその視線はアーバンへと向けられた。
「カハッ! ゲホッ……ぎ、ぎざ……」
身を震わせるアーバンは、青ざめた唇を震わせ、その眼差しをケルベロスとファイへと向ける。
その瞳は定まらず、左右に僅かに揺れていた。
体から溢れる魔力。アーバンは氷付けにされた最中、魔力を全身にまとい何とか致命傷は避けたのだ。
それでも、その体に刻まれた傷は深く、アーバンの動きは鈍かった。
「驚きですね……。あの状況から自力で抜け出すなんて……」
「どうする? 相手は深手だが、コッチも大分深手を負ってるぞ?」
「関係ありません」
「だよな」
ケルベロスは深く息を吐き出し、ゆっくりと拳を構えた。
ファイも痛みの走る右肩へと左手を当てると、傷口を凍らせる。痛みは多少なりに残るが、それでも右腕が何とか動かせるようになっていた。
「ぐっ……き、さ……まら!」
アーバンが膝を震わせ立ち上がる。大分、魔力を消費したのか、それとも体が凍傷で上手く動けないのか、アーバンはふら付きすぐに右手を地面へと着いた。
そんなアーバンの様子に、ケルベロスは拳へと炎を灯す。
「さて、じゃあ――」
「待ってください」
臨戦態勢へと入ろうとしたケルベロスをファイは制止した。
突然の行動に訝しげに眉をひそめるケルベロスだが、ファイはふっと鼻から息を吐き出すと、静かに口を開く。
「ルーイットの事が心配です。ここは私一人で大丈夫ですから、先に行ってください」
「……分かった。じゃあ、ここは任せるぞ」
ケルベロスは右拳の炎を消し、小さく頷きそう答えた。
その答えに、ファイは「えぇ」と静かに答える。
ファイの答えを聞き、ケルベロスは走り出した。体の節々が痛むが、それを堪え、よろめくアーバンの横をすり抜ける。
だが、アーバンにそれを止めるだけの力は無く、ただ見送った。
その場に残された二人の間に冷たい風が吹き抜ける。
体を震わせるアーバンを見据えるファイは、その手に氷の剣を形成し構えた。
「生憎、私はあなたほど、殺戮を楽しんだりする趣味はありません。一撃で片を付かせてもらいます」
静かにそう述べたファイは、その手に握った氷の剣へと魔力を込める。
未だに体の感覚の戻らないアーバンに同情の余地は無く、ファイは静かに地を駆ける。いや、駆けると言うよりも、滑るように間合いを詰めその剣を振り抜いた。
一瞬だった。その首を切断し、傷口は血が出ないように一瞬で凍り付き、刎ねられた頭は氷付けにされ地面へと落ちた。
その衝撃でその頭は砕け、赤い氷の結晶だけが一帯へと広がった。
「償うには足りませんが……」
ファイがそう言うと、頭を失ったアーバンの体は膝から崩れ落ち、ゆっくりと倒れた。
それを見届ける事なく、ファイは静かに歩き出し、崩れた壁へと手を着いた。
「ぐっ……はぁ……」
苦しげな表情を浮かべるファイの額から大粒の汗がこぼれる。流石に魔力を消費しすぎたのだ。
意識がモウロウとし、やがてファイの視界は真っ暗になった。