第132話 危うい存在
鈍い衝撃音が響き、鮮血が迸る。
弾かれたのはクロトだった。
剣を振り抜いた刹那の事だった。折り曲げたグラスの右肘がクロトの顔面を捉えたのだ。
流石に白銀の騎士団異名持ち。眼帯で右側が死角である事などもう慣れているのだろう。死角へと入った者への対処も心得ていたのだ。
大きく後方へと吹き飛んだクロトだが、その両足は地に踏みとどまっていた。上半身は大きく仰け反り、顔が後方へと向き、その衝撃の強さを物語っていた。
それでも、クロトは倒れなかった。威力は相当のモノがあったが、それ以上にクロトの足・腰の筋力が柔軟でその衝撃を抑えたのだ。
「いっ……」
表情を歪め、クロトは体を起こす。右の口角からツーッと血がこぼれ、左の鼻の穴からも血が流れる。肘を顔面に直撃させた為、頭がクラクラとする。
それでも、クロトは頭を左右に振り、視点を定めると、強い眼差しをグラスへと向けた。
一方、肘打ちを放ったグラスも、体の正面へとクロトの姿を捉える。そして、豪快に笑い拳を構えた。
「がはははっ! 小僧。残念だったな。我は誇り高き白銀の騎士団の異名持ち。死角に入られた程度で一太刀貰う程弱くはないわ!」
豪快に笑うグラスに、クロトは口をモゴモゴと動かしていた。口の中に広がる血の感覚に混じり妙にごろごろとする感触があった。その為、クロトは少々不快そうに首をかしげた後に、ぺっと口の中にあるモノを吐き出した。
赤い唾液と混ざり地面に転がったのはクロトの奥歯だった。先ほどのグラスの肘打ちで奥歯が折れたのだ。
それを目にしたクロトは「うわーっ……」と小声で呟くと、目を細めた。それから、僅かに肩を落とし大きなため息を一つ吐いた。
「歯が折れた……治療に幾ら掛かるだろう……」
そんな事を考え憂鬱になるクロトは、うな垂れると静かに血に塗れた歯を拾い上げた。それから、もう一度深く息を吐き、グラスへと顔を向ける。
血を流すクロトが見せる余裕に、グラスは訝しげな表情を浮かべていた。
周囲では他の兵達も集まり、明らかに不利な状況になりつつあるのに、クロトもキエンも何処か余裕があった。
もちろん、それは虚勢でしかない。だが、虚勢でも余裕を見せていないとこの場の空気に飲まれそうだった。
(さて……どうしたもんか……。流石に死角から攻撃は無理だろうし……)
グラスと対峙するクロトは、魔剣ベルヴェラートを構えたまま左手で鼻血と口角からこぼれた血を拭った。
落ち着いた面持ちでクロトは辺りを確認する。労働を強いられていた獣魔族達は動きを止め、傷付いた龍魔族の視線もクロトとキエンへと集まっていた。魔人族も魔力を吸い上げられ、モウロウとしながらも二人に僅かな希望を宿した眼差しを向ける。
その場に居る魔族全ても期待を背に受け、クロトはゆっくりと息を吐き出す。そして、辺りを見回した後に、グラスへと尋ねる。
「あなた達は、自分達が行っている事を理解しているんですか?」
あくまで平静を装い、静かに丁寧な口調での問いに対し、一瞬辺りは静まり返る。
周囲の兵に加え、グラスまでもがキョトンとした表情を浮かべていた。そして、次の瞬間笑いが起きる。
静寂を破る様に響き渡る笑い声にクロトは訝しげな表情を浮かべた。何がおかしいのか全く持って理解出来なかった。その為、眉を顰め眉間にシワを寄せる。
そんなクロトへと、グラスは腹を抱え静かに答えた。
「何を行っているか理解しているのかだと? 当然だ。貴公こそ、自分が今行っている事を理解しているのか?
我らに盾突くと言う事は、それなりの処罰が待っていると言う事だぞ!」
グラスの言葉にクロトは「そうか……」と呟き、俯いた。
少なからず期待はしていた。お互い理解しあえると。だが、その期待は脆くも崩れた。
その場の空気がほんの僅か振動し、急速に重苦しい空気へと変化する。その空気の変化に気付いたのはグラスとキエンのみだった。
グラスはすぐに真剣な表情を作り、キエンは険しい表情をクロトへと向ける。
キエンは感じていた。クロトは危うい存在であると。今のクロトにはそれだけの強力な力があるのだ。
だが、そんなキエンの心配は杞憂だった。顔を上げたクロトは静かに息を吐き出し気持ちを落ち着け、ゆったりと肩の力を抜く。
ベルに言われた事を思い出したのだ。
(俺は……誰かを守る為に戦うんだ……)
静かに頭の中で何度もそう呟き、クロトの落ち着いた眼差しがグラスへと向いた。
穏やかなクロトの眼差しに、グラスは脳裏に一人の男の姿が浮かぶ。それは、彼の所属する白銀の騎士団でも異質である一人の優男の顔だった。
恐怖を感じ、半歩下がったグラスは、表情を強張らせ同時に声を張り上げる。
「奴らを拘束しろ!」
その声に、周囲を囲んでいた兵達が一斉に動き出す。
彼らの動き出しに、キエンは目付きを変え、クロトに叫ぶ。
「クロト! お前にはその白銀の騎士団のヤツを任せる! 雑魚は俺が相手をする」
「ざ、雑魚だと!」
「ふざけるな!」
キエンの言葉に兵達は怒り、一斉にキエンの方へと走り出す。易い挑発だったが、十分な程兵はひきつけることに成功していた。
そんな兵達に焦りを見せるのはグラス。次々とキエンへと向かっていく兵達を慌ただしく目で追い、顔を動かし怒鳴り声を上げる。
「き、貴公ら! な、な、何をして――」
「じゃあ、俺らも始めよう。邪魔が入らない内に」
クロトが静かに呟き、ゆっくりと一歩、また一歩とグラスへと歩みを進める。
クロトの為に兵をひきつけたキエンは、そのまま更に距離を離し細い道へと兵を先導する。
元々戦闘が得意ではない為、なるべく一対一で戦いたい。そう考え細い道まで導いたのだ。もちろん、作戦は成功だった。大勢居た兵は一列に並びその道へと入り、キエンは目的どおり一対一の状況へと持ち込んでいた。
「行くぞ!」
拳を握ったキエンは振り向き、その拳に精神力をまとう。元々、獣魔族の血をほんの僅かながら引くキエンは、その拳へと力を込めると、そのまま左足を踏み込む。
「尖弾!」
弾丸の如く腕を回し拳を兵の鋼鉄の胸当てへと打ち込む。痛々しい打撃音が轟き、衝撃がキエンの後方へと抜ける。砕け散った鉄の破片が散乱し、更に衝撃がその兵の体を突きぬけ、後ろに居た兵の体を弾いた。
「ぐあっ!」
次々と単音の呻き声が上がり、兵達は横転していく。これも、キエンが思い描いていた状況だった。
キエンが放った尖弾は、拳に纏った精神力を鋭くランスの様に尖らせ放つ一点集中の突貫力を重視した技だった。
その一撃は硬い鋼鉄をも打ち砕き、その衝撃は体を突きぬけても尚勢いは止まらない凄まじい破壊力を持っているのだ。
だが、その一撃にも高いリスクがあった。
「イッ……」
後方へと弾かれた右拳を体へと引いたキエンの表情が歪む。右肩が僅かに震え、鮮血がシトシトと地面へと零れ落ちた。
痛々しく裂けた右拳の皮膚からは、僅かに骨が見えていた。拳を握る事すら出来ず震える指先に、キエンは奥歯を噛み締める。
「くっ……やっぱ、一発持たないか……」
これが、尖弾を放つ為リスクだった。
元々、これは強靭な肉体を誇る獣魔族専用の技の為、獣魔族の血が薄くその肉体も普通の人間と殆ど変らないキエンの体ではその衝撃に耐え切れないのだ。
左手で右腕を押さえるキエンは、深く息を吐き出すと目の前に倒れる兵達を見据える。先頭に居た兵は完全に意識を失っているが、後ろに行けば行くほど威力が弱まる為、まだ多くの兵が意識を保ち、ゆっくりと体を起こす。
その光景にキエンは険しい表情を浮かべる。
「全力で放ったんだけどなぁ……」
口元に薄らと引きつった笑みを浮かべ、起き上がった兵の数を数えた。その結果、まだ半数以上が残っていると分かり、キエンも呆れるしかなった。