第116話 覚悟と力量
森を抜けた先にある氷の宮殿。
そこに、クロト達はいた。
吹雪いていた森の中と違い、宮殿の周囲は静かなものだった。
外の寒さと打って変わって宮殿内部は暖かく、コートなど必要無いほどだった。
着ていたコートを脱いだクロトは、ホッと息を吐き周囲を見回す。いつも通り不機嫌そうなケルベロスは氷の壁に背を預け腕を組んでいた。セラは何処か落ち着かない様子で視線を泳がせ、ルーイットは安堵した様子で微笑していた。
そんな中で艶かしい大人びた笑い声が静かに聞こえる。
「ふふふっ。あのケルベロスを相手にするなんて、あなたも良い度胸しているのね」
白装束を着崩した女性が、長い白髪を揺らしそう言う。一方で、彼女と同じく白装束に身を包んだ空色の長い髪の少女は、焼け焦げた白装束の右袖口を見せ、無表情で答える。
「私のお気に入り……ダメになりました」
少女の表情は無のまま、その声からも殆ど感情が分からなかった。それでも、その言葉から少女が怒っているのだと、クロトは解釈した。
そんな少女に対し、大人びた女性は静かに微笑むと、その手を静かに少女の頬へと当てる。
「でも、あなたに怪我がなくてよかったわ……。それに、まさか、ケルベロスに喧嘩を売るなんて、思ってもいなかったわ」
「私は、あなたに頼まれました。侵入者を駆除しろと」
「あらあら? 私が言ったのは、彼らの戦っている虫を駆除してちょうだいって事だったのよ?」
少女の頬から手を離し、女性は自分の頬にその手をあて、首を傾げた。その態度に僅かにだが少女の眉間にシワが寄り、一瞬だが不満そうな表情を見せた。
だが、その表情の変化に気付いたのは妖艶な女性だけだった。それ程、彼女の表情の変化は微妙なモノだった。
そんな和やかな雰囲気の漂う中で、仏頂面のケルベロスが遂に口を開く。
「おい。そろそろ説明したらどうだ? 一体、何の目的があってここに俺達を呼んだ?」
氷の壁に背を預けたまま腕を組むケルベロスが、俯き加減でそう言い放つ。すると、白髪を揺らす大人びた女性は、パンと両手を叩き妖艶な笑みを浮かべる。
「そうだったわね。じゃあ、手短に言うわ」
にこやかだった彼女の顔が一変し、真剣なモノへと変る。そして、その口調も――
「何しに来た。ここに。一体、何の目的?」
冷ややかで感情など微塵も感じさせないその声に、場の空気が凍りつく。クロトも、セラも、ルーイットも、その言葉に声を返す事が出来なかった。それ程、彼女の放った殺気は三人に対し、十分な程の恐怖を植え付けたのだ。
緊迫した空気の中、瞳孔を広げ硬直するクロト、セラ、ルーイットの三人に対し、ケルベロスだけは何とかその殺気に堪えていた。そして、強い眼差しを白髪の女性へと向ける。彼女の殺気に思わず戦闘態勢に入ったケルベロスは、両拳に蒼い炎を灯していた。
こんな感覚になるのは久しぶりだった。一瞬で殺される。そう思う程の殺気だった。バレリア大陸の暴君バルバスの放つ絡みつく様な殺気とは違う急所を一突きに、絶命させる様な殺気だ。
ケルベロスの脳裏に一瞬過ぎった自らの死のイメージがこびり付いて離れない。故に、体は震えていた。
そんなケルベロスに、白髪を揺らす女性は、艶かしい笑みを浮かべる。そして、右手で髪を掻き揚げると、静かに息を吐いた。すると、その隣りに佇んでいた無表情の少女が、静かに述べる。
「師匠……。あなたがいきなり本気の殺気を出してしまっては、彼らの心臓が停止してしまいます。気をつけてください」
サラッと恐ろしい事を言ってのける少女に、クロトは我に返った。そして、思う。本当に心停止してしまうんじゃないかと。
「ちょっと試しただけよ」
微笑する女性は、頬に右手をあて妖艶に笑う。
周囲に張り巡らされていた殺気が一瞬で消え、セラとルーイットもようやくそこで息を吸う。息をする事すら許さぬ程の殺気だったのだ。
呼吸を乱す二人に対し、申し訳なさそうな表情を向ける白髪の女性は、両手を合わせ謝罪する。
「申し訳ないわね。一応、あなた達の覚悟と、力量を測っておきたかったのよ」
「だからと言って、あの様な事をされては困ります。彼らに死なれて困るのは、私達なのですから」
空色の髪の少女は相変わらず表情を変えずそう言った。その言葉にクロトは訝しげな表情を浮かべ、尋ねる。
「あ、あの……どう言う事ですか? 俺らに死なれたら困るって?」
クロトが質問すると、戦闘態勢に入っていたケルベロスも、拳の炎を消し、深く息を吐き続く。
「ああ。是非とも聞かせてもらいたいな。アレほどの殺気を放ってまで試した事も含めて」
警戒するケルベロスのドスの利いた言葉に、白髪を揺らす女性は色っぽく微笑み右手の人差し指を唇へと当てる。
「この事は、ここだけの秘密って事にしていただきたいの。いいかしら?」
「その前に、まず自己紹介からでは無いでしょうか?」
空色の髪の少女が、無表情のままそう言い、妖艶な女性へと顔を向ける。その発言に、女性は「そうね」と微笑すると、一歩前に出た。
「私はこの氷の城の女王、エメラルドよ」
「私は、付き人のファイです」
エメラルドと名乗った女性に続き、ファイが無表情のまま小さく会釈する。
「あっ、俺は――」
そんな二人に続き、クロトも自己紹介をしようとする。だが、それをエメラルドは右手で制し、微笑む。
「知っているわ。あなたが異界の住人で、あの暴君バルバスを倒した――クロト……よね?」
妖艶に微笑するエメラルドに、クロトは思わず後退りした。こう言う女性は大の苦手としていた。故に、引きつった笑みを浮かべると、ぎこちなく頷く。
「え、えぇ……そ、そうです……」
「ふふっ。それに、番犬ケルベロスに、魔王デュバルの娘セラ。それから……あなたは――」
エメラルドの視線がルーイットへと向く。その眼差しに、ルーイットはビクンと肩を跳ね上げる。そして、その視線を思わず逸らした。その様子に何かを悟ったのか、エメラルドはルーイットへと微笑し、右手の人差し指を唇へと当て、静かにウィンクした。
「人畜無害で無能のルーイットちゃん」
「じ、人畜無害……」
「無能か……まぁ、確かにそうだな」
ズバッと言ったエメラルドの言葉に、クロトは表情を引きつらせ、ケルベロスは納得した様に頷いた。そして、一人落ち込むルーイット。本当の事だし、言われて当然なのだが、改めて言われると胸が痛かった。
落ち込むルーイットを無視し、エメラルドは話を続ける。
「私は、氷を司る龍を宿す龍魔族なの。まぁ、こう見えて、千年以上は生きているかしら?」
うろ覚えなのか、少々自信無さげにそう言うエメラルドが、困った様な笑みを浮かべる。聊か驚くセラとルーイットだが、クロトとケルベロスはあまり驚かなかった。ケルベロスは彼女が龍魔族と知っていた為、恐らく見た目よりも長く生きていると分かっていたからだ。
だが、クロトは違った。何故だか、彼女の姿が一瞬龍に見えたのだ。それは、クロトの右目が見せた幻覚だったのかも知れない。その幻覚が強烈過ぎて、彼女の言葉には全く反応出来なかったのだ。
呆然としていたクロトは、不意に我に返ると、激しく頭を左右に振った。
しかし、そんな彼女の言葉に異議を唱えたモノがいた。
「ちょっと待って!」
ルーイットだった。紺色の髪の合間から飛び出した獣耳を僅かに揺さぶり、町で聞いた話を思い出す。
「確か、龍魔族の寿命って平均五百歳でしょ? 千年も生きてるなんておかしいじゃない!」
記憶を頼りにそう発言したルーイットに対し、エメラルドは微笑し拍手する。
「えらいわ。獣魔族なのに、よく龍魔族の寿命の事、知っていたわね」
「ここに来る前に、町で龍魔族のハーフってオジサンに聞いたんだよね」
セラがそう言うと、エメラルドは「そうなの?」と少々不思議そうに首を捻った。彼女のその行動にクロトは少々疑問を抱く。何故、そんな不思議そうにするのか分からなかったのだ。
しかし、エメラルドはすぐにその顔に笑みを戻すと、静かに質問に答える。
「そうね。特別だからって言う答えはどうかしら?」
「特別?」
「そう。特別なの。あなたの父であるデュバルも、獣王ロゼも、竜王プルートも」
エメラルドが遠目でそう答える。何処か懐かしいモノを思い出すかの様な彼女の表情に、セラとルーイットは顔を見合わせた。そして、ケルベロスも眉間にシワを寄せ、鋭い眼差しを向ける。
「あんたは、知っているのか? その三大魔王の事を?」
「知っているも何も、私はあの三人とは一緒に修行した仲よ。と、言っても、まだ彼らが子供の頃の話だけど」
エメラルドの言葉に、辺りを包む静寂。皆が言葉を失っていた。彼女の発言はそれ程、皆に衝撃を与えたのだ。