第107話 代償
分厚い壁は崩れ落ち、瓦礫は赤黒い炎に包まれた。
抉られた地面に残る赤黒い炎の線は揺らめき、火の粉を舞い上げる。
漂う熱気は、乾いた風で薄められ、魔剣ベルを振り下ろしたクロトは、一歩、二歩とよろめく。体内が熱く、体からは大量の湯気があがっていた。
瓦礫が崩れ、割れた分厚い壁の向こうから、太い腕が飛び出す。だが、その腕は黒焦げ、皮膚は焼け爛れていた。
もうろうとする意識を保つクロトは、膝に左手を着き体を支え、その腕へと目を凝らす。渾身の一撃だったし、手応えもあった。だから、クロトは壁から飛び出した腕を見て、内心驚いていた。これでも、ダメなのかと、静かな呼吸を繰り返し肩を上下に揺らす。
そんなクロトの視界に飛び込む。崩れかけの壁を崩し、ぎこちなく歩くバルバスの姿が。驚愕すると同時に、クロトは激しく落胆し、膝が落ちた。
全力の一撃、全てを込めて放った一撃でも、ダメだったと。そのショックはクロトを支えていたモノを砕いた。
「くっ……そっ……」
声を漏らし、クロトの体は倒れる。体は焼ける様に熱く、頭はもう働かない。歪む視界に映るのは駆ける誰の影と、足だけ。それが誰なのか、クロトは知る事無くそのまま瞼を閉じた。
どれ程の時が流れたのか、クロトはフカフカのベッドの上で目を覚ました。
薄らと開かれた視界に映る真っ白な天井に、クロトは一度目を伏せた。ここは何処だと、考えるより先に、皆は無事だっただろうか、という事が頭を過ぎる。
それから、バルバスは倒せたのか、アレからどうなったのかなど、疑問が次々と頭を過ぎった。
「うぐっ……」
体を動かそうとしたクロトが、声を漏らす。体中に激痛が駆け巡り、体は全く動かない。全身重く、数十キロの鉛を巻き付けられている様だった。指一つまともに動かす事が出来ず、顔も天井を向いたまま動かない。
その為、瞳を動かし辺りの様子を窺う事しか出来なかった。
一通り見回し、ここが何処かの医務室である事をクロトは理解する。僅かに鼻腔を刺激する薬品の臭いを感じ取ったのだ。もちろん、それだけで医務室と決めたわけじゃない。視界の端に真っ白なカーテンの様なモノを見た。アレは間違いなく医務室でベッド間を遮るモノだった。
だが、それ以上の情報は得る事が出来ず、クロトは深く息を吐き瞼を閉じた。
(俺が無事って事は……ケルベロスが……)
バルバスをケルベロスが倒したのだと、クロトは考えていた。アオもライも殆ど戦える状態ではなかった事を考えると、あの場でバルバスと戦えるのはケルベロスだけだからだ。
安堵した様にもう一度深く息を吐いたクロトは、薄らと瞼を開き天井を見上げる。結局、覚悟を変えた所で、自分は何も変らない。そう実感し、悔しくて一筋の涙が零れ落ちた。だが、すぐにその涙を止める。足音が僅かにその耳に届いた為に。
鼓動が速まり、クロトは息を呑む。緊張が走り、頭の中に過ぎる。本当に自分達は助かったのか、と。その疑問が更にクロトの頭に悪いイメージを植え付け、ジワジワと広がる。瞳孔が開き、心音が速まったのが分かった。
体が動かないからだろう。より一層、恐怖が強まりクロトの呼吸は乱れる。
やがて、足音が止まり、扉が軋む。この部屋の扉が開かれた。そう直感する。白い天井に僅かに影が映り、確信したクロトは息を呑みゆっくりと瞼を閉じた。
「まだ、寝ているのか?」
閉じられたカーテンが開かれ、一人の女性がカルテを片手にクロトの顔を覗きこむ。その声にクロトは瞼を開き、声を上げた。
「ら、ラヴィ?」
「何だ? 起きてるんじゃないか」
丸メガネ越しにジト目を向けるラヴィに、クロトは表情を歪ませ視線を逸らす。今、クロトに出来るのはそれだけだった。
寝癖でボサボサの長い黒髪を右手で掻き毟るラヴィは、眠そうに大きな欠伸を一つする。そして、右手でズレ落ちそうになったメガネを上げ、白衣の胸ポケットに入ったペンを取り出す。
「しかし……あの状況からよくここまで治ったものだね」
左手に持ったカルテへとペンを走らせるラヴィがそう呟く。だが、その言葉はクロトの耳に入ってこない。戸惑いと驚きで思考が完全に停止していたのだ。
しかし、ラヴィは全くクロトの事など気にせず、脈拍を測り、触診し、カルテを書く。一通りの診察を終えたラヴィは、静かに鼻から息を吐くと、小さく頷く。
「まだ、傷は癒えてないが、最悪の状態は切り抜けた様だな」
「あ、あ、あのー……」
ようやく、思考が動き出したクロトが、恐る恐る口を開く。
だが、そこで言葉が詰まる。何を聞くかで迷っていた。皆は無事なのか、ここは何処かのか、何でラヴィがここにいるのか、など、色々と質問は湧き出る。
迷いからクロトの瞳は左右へと往来していた。それを見て、ラヴィは唇を尖らせると、呆れた様にため息を吐きメガネを右手の人差し指で上げる。
「まぁ、ここは私達魔族の町だ。お前は三日前にここに運ばれてきた」
「み、三日前? えっ? あ、あの、アレから、どれ位日が経ちましたか?」
クロトがそう尋ねる。すると、ラヴィは唇へとペンを当て右斜め上へと視線を向け、答える。
「そうだねぇ……。あんたらがこの町を出て、王宮で問題を起こし、ラフト王国国王バルバスが死んで一週間よ」
「い、いい、一週間!」
クロトは声をあげ、体を起き上がらせようとした。だが、その瞬間に体中に激痛が走り、「ぐがっ!」と声を漏らしクロトは表情を歪める。
苦悶するクロトの姿に、ラヴィは呆れた様にペンで頭を掻き鼻から息を吐く。
「何やってるんだい? 君は? 分かっているのかい? 自分の体が重傷で危険な状態だったって言う事を?」
ジト目を向けるラヴィに、クロトは苦痛に表情を歪めたまま笑みを浮かべた。肩を落とすラヴィは、もう一度鼻から息を吐き、頭を左右に振る。
「正直、魔族の私には手の施しようが無い程、君の体はボロボロだった。
全身の筋肉は何かで焼かれた様に酷い火傷をおってたからだ。レベッカに感謝するんだね。
彼女が、君の体をここまで治療したんだからね」
「そ、そうですか……」
クロトはそう返答し、息を吐いた。
黒髪を揺らすラヴィは大きく欠伸をして、首の骨を鳴らす。
「まぁ、それでも、今の君の体は炎症だらけで、動く事は出来ないだろうけどね」
背筋を伸ばし、ラヴィがそう告げる。
少々間が空き、クロトは先程のラヴィの言葉を思い出し、安堵した様に笑みを浮かべた。
「何笑ってるんだい? 気持ち悪いな」
「いや……。やっぱり、ケルベロスは凄い奴だって思って……」
「はぁ? 一体、何の話をしているんだい?」
突然のクロトの言葉に、ラヴィはわけが分からないと言う表情を向ける。何故、ラヴィがそんな表情をしたのか、クロトは分からず苦笑し尋ねる。
「バルバスは死んだんだろ? それって、ケルベロスが――」
「君は何を言っているんだい? 私が聞いた話では、バルバスを倒したのは君だって話だよ」
クロトの声を遮り、ラヴィは不思議そうにそう言い放った。その言葉にクロトは目を丸くし、慌てた様に早口で言葉を紡ぐ。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待て! お、俺は確かにバルバスが動いてたのを見たんだ! 死んでなかった!」
「ああ……ケルベロスの話では、最後の足掻きだったとの事だ。すでに息は引き取っていたらしい。
その後、ケルベロスが、君とアオ、ライの三人を担いで脱出したそうだ。
国王バルバスが死んだと言っても、人間が魔族を敵視していると言う事は変わりない事だからな」
何処か悲しげな瞳をメガネ越しに外へと向けるラヴィに、クロトは複雑そうに目を細める。確かに、この国を統治していたのは暴君と呼ばれた王、バルバスだった。彼が、魔族を根絶やしにしようとした事実は変らない。そして、彼に賛同した人間もまた多かったと言う事もあり、結局現状は何も変っていない。変るのは国王だけなのだ。
疲れた様に吐息を漏らすラヴィは、軽く右手を振った。
「じゃあ、私は戻るわ。君はもう暫く安静にしている事だよ」
「あ、あの――」
「彼らならとっくにこの町を出たよ。次の仕事があるとかで」
「そ、そうですか……」
ラヴィの言葉に静かにそう声を漏らしたクロトは、それ以上何も聞かず、静かに瞼を閉じた。そして、すぐに深い眠りへと誘われた。