第100話 歓喜なる声
古びた暖炉から抜け出たケルベロスは、無造作に置かれた物を蹴散らし物置の入り口を目指す。
遅れて暖炉を出たクロトは、舞い上がる埃に思わずたじろぎ、足を止めた。
「け、けるべ――ごほっごほっ! 待て、ごほっごほっ!」
舞う埃にクロトは咳き込み、目を細める。その潤んだ瞳の先に映るケルベロスの背中は、開かれた扉の向こうへと消えた。
そして、クロトの右目が強く輝く。扉が開かれていた数秒の間だけ。僅かな疼きを感じたが、いつもとは違う感覚に、クロトは息を呑む。やはり、何か嫌な予感がする。
経験上、右目が疼いた時はロクな事がない。だから、クロトは小さく舌打ちをし、その埃の中を突っ切った。
場所は変り中央広場――
壇上に佇む漆黒のローブを着た男は、銃口を静かにケイトの額へと押し当てる。
右膝を壇上に落とすケイトの右脇腹には大量の出血が見られた。動体視力と類稀なる直感力により、その頭を狙った弾丸はかわした。だが、直後に現れたもう一つの弾丸が、ケイトの伸びきった右脇腹を貫いたのだ。
苦痛に表情を歪めるケイトは、ゆっくりと顔を上げ、その男の顔を見据える。
「い……いつ、から……」
口角から血を流しながら、ケイトは尋ねる。すると、男は口角を上げ不適に笑う。
「いつから? 最初からだ。お前がそこに移動する事も、最初の弾丸をかわす事も、初めから分かっていた」
「ぐっ……がはっ!」
吐血しケイトは下を向く。反射的に致命傷は免れたが、それでも傷は深かった。衣服の上から傷口を押さえる左手はみるみる間に赤く染まり、足元には血溜まりが出来ていた。額に滲む大粒の汗がヒタヒタとその血溜まりに落ち波紋を広げる。
男の親指が撃鉄を下す。澄んだ金属音が僅かに聞こえ、その指は引き金へとかかる。
その時だった。その広場にケルベロスが姿を見せたのは。
黒髪が揺れ、ケルベロスの視線が素早く辺りを見回す。そして、その目はすぐに壇上へ釘付けとなった。佇む漆黒のローブを着る男に、ケルベロスはあの魔術師と同じ雰囲気を感じ、すぐに身構える。自分が、王国軍の中に突っ込んだ事など忘れて。
そんなケルベロスに王国軍の兵の一人が気付く。
「ま、魔族! 番犬だ!」
その声に他の兵達の視線もケルベロスへと集まる。そして、ざわめく。
「ほ、本当に、番犬だ!」
「な、何でこんな所に!」
口々に兵士達が呟き、混乱を招く。だが、ケルベロスはそんな王国軍には目もくれず、壇上の男へと一歩踏み出す。その瞬間、ケルベロスはその男と目が合う。薄らと輝く赤い瞳に、ケルベロスの足が止まった。膝が震え、そこから一歩が踏み出せない。それ程、その男が異様な空気を放っていたのだ。
全てが凍りつく。ケルベロスだけでなく、その場に居た全ての兵の動きも、空気も、風も、音も全てが――。
誰もが動けない中で、その男だけが静かに動き出す。右手の銃をゆっくりと自らのコメカミに当てる。
(何をする気――)
ケルベロスが目を見開く。
(コイツ……)
ケイトは表情を歪める。嫌な予感しかしない。
「ラグショット……」
「ケルベロス!」
男の声を消すクロトの声が響き、広場へとクロトも姿を見せる。僅かに息を切らせるクロトは、場の空気に表情を引き締めた。その目が右へ左へと往来し、やがて硬直するケルベロスの背中で止まる。そして、視線は自然とケルベロスの背の向こうに映る壇上に立つ男へと向く。
その瞬間に、右目が異常に熱くなり、クロトは思わず右手で覆う。今まで感じた事が焼ける様な痛みに、クロトは目を細めた。
「役者は……そろったか」
その男がそう呟き、後方へと跳躍する。それと同時に、数発の銃声が轟く。銃口から白煙が昇るが、弾丸が放たれた様子は無く、彼は体を一回転させ地面へと下りる。
刹那に、壇上に衝撃が走り、一人の男が剣を突き立て降り立つ。何処にいたのか、何処から来たのか。それは定かではないが、そこに現れたのは、紛れもないこの国の王、バルバスだった。
赤いマントが揺れ、白髪交じりの黒髪がたなびく。口周りに蓄えた白ヒゲは風になびき、老いを感じさせないその顔を漆黒のローブを着た男へと向ける。
血走ったその目はまるで血に飢えた獣の様に――。
その顔は極上の料理を前にした子供の様に――。
不気味に笑い、壇上に突き刺さった剣を静かに抜く。
その衝撃により、止まっていたケルベロス、ケイト、その他の兵達の時が動きだす。
血を流しすぎたケイトの体が静かに壇上へと崩れる。まだ残った意識の中で、彼は静かに呟く。
「す、みま……せん……」
その声がバルバスに届いたのか、彼の顔がゆっくりとケイトを見下ろす。足元に流れるケイトの血。それが、バルバスの気品溢れる上物の靴を汚す。鼻筋へとシワが寄り、バルバスの目尻が上がり、奥歯を噛み締める。そして、その手の剣を振り上げた。
「貴様! 我の靴を汚すとは! 死をもって償え!」
「ふっ……一……」
僅かな男の呟きが聞こえ、バルバスは振り返り剣を振り抜く。僅かな金属音と火花が散り、三つの弾丸が真っ二つに裂けた。
発砲音すら聞こえなかったその弾丸を見事に真っ二つに裂いたバルバスは、その視線を男の方へと向ける。
「面白い技を使う……貴様、何者だ?」
威圧感のあるバルバスの声に対し、男は平然と答える。
「俺は隠者。何者でもない」
静かにそう述べると、バルバスはそれを鼻で笑う。
「ふん……隠者ならば、隠者らしく隠れておればいいものを……」
「時が来たのだ。黒き破壊者の生誕により、世界は粛清される」
「粛清だと? 戯言を……」
バルバスが呟き頭を左右に振る。
だが、その言葉にケルベロスは信憑性を感じていた。獣王ロゼの暗殺が、その信憑性を強めていた。
息を呑むクロトは、ただ二人のやり取りを見据える。その右目には禍々しい二つの黒い霧が映っていた。一つはバルバスの体から放たれるモノ。もう一つはあの漆黒のローブを着る男が放つモノ。
二つの霧は対照的だった。バルバスのモノは激しく炎の様に噴き上がり、ローブを着る男のモノは静かで彼の体を薄らと取り巻くだけ。それでも、何故かバルバスよりもその男の方に、クロトは恐怖を感じていた。
息を呑み、その光景を見据えるクロトに、アオとライが追いつく。
「クロト! ケルベロス!」
「大丈夫……みたいだな」
二人は現状を一瞬で読み取り、クロトとケルベロスが無事な事を理解する。それと同時に、今がどう言う状態なのか、言う事も理解した。
「バルバス……」
「マジか……王自ら登場ってか」
険しい表情を浮かべるアオの隣りで、ライが苦笑する。まさか、こんなにも早くこの国の王の顔を見る事になるとは思ってもいなかった。
緊迫した空気の中で、バルバスが静かにその剣をローブの男へ向ける。
「何しに来たのかは知らぬが、我が王宮に足を踏み入れた事を後悔させてやろう」
そう言い放ち跳躍する。すると、ローブの男が不適に笑みを浮かべ、銃口を自らのコメカミに当て、
「ヴァン」
と、呟き、コメカミに当てた銃を跳ね上げる。
その行動に何の意図があるのか、その場に居る誰もが理解出来なかった。だが、すぐに異変は起きる。跳躍したバルバスの体が後方へと弾かれた。血飛沫をその体から噴かせて。
「うぐっ!」
声を漏らし、表情を歪めるバルバスの体が壇上へと背中から落ち、ワンバウンドするとそのまま壇上から落ちた。
「ぐっ……きさ……」
蹲るバルバスの腹部からは血が滲み出ていた。跳躍した時、その腹部に弾丸が撃ち込まれた。もちろん、音も無く現れた弾丸によって。
その弾丸は、ローブの男が壇上から跳躍した時に放った弾丸だった。あの時、すでに仕込んでいたのだ。最初の弾丸とは時間差を作って。
こうなる事を読んでいたのか、それとも、そうなる様に挑発していたのか、それは定かではない。だが、間違いなくあのローブの男が、読み合いも戦術もバルバスを上回っているのは確かだった。
誰もが口を噤む。目の前に平伏す自分達の国王の姿に。やがて、その光景に一人の男が拳を振り上げた。
「うおおおおおっ!」
雄たけびの様なその声をキッカケに、次々と兵達も声を荒げる。手に持った武器を捨て、着ていた鎧を脱いで。それは、恐怖によって押さえつけられていた兵達の歓喜の叫びだった。
轟く歓喜の声は、大地を揺らし大気を震わせる。思わず耳を塞ぐクロトは、表情をしかめた。アオも真剣な面持ちをしながらも、平伏すバルバスの姿に自然とガッツポーズが出ていた。
歓喜の声が轟く中、ローブを着た男は静かに歩みを進める。壇上から落ちたバルバスのもとへと。彼の足音は、歓声に消される。そして、彼の姿もまた、歓喜の声を上げる兵達の視界からは完全に消えていた。
この異様な空気に、ライはいつに無く表情を強張らせ、叫ぶ。
「リーダー! アイツ!」
ライがバルバスへと足を進めるローブの男を指差すと、クロトとケルベロスの視線がそちらへと移る。
「薄汚れた国王よ。貴様は一体、どれだけの人の生き血を啜った?」
「ぐっ……貴様……一体――」
バルバスの声を掻き消す破裂音が轟く。銃声だった。弾丸が額を撃ち抜き、鮮血が迸る。後方へと体は大きく跳ね、バルバスの体は二度、三度とバウンドする。
銃声により、歓声は消え、静寂が辺りを支配した。皆、息を呑む。そして、唐突にその静寂が破られる。先程よりも一層大きな歓声によって。