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陰り、栞。

作者: 凍星 蚊帳
掲載日:2026/10/07

 私は、栞が恐い。沈みゆく夕日に灯りが窓辺へ集約されてゆく。栞が恐い。床と栞との間に黒が詰まった。栞が恐い。微かな風にひらついて、私はソレを強く直視した……

 時とすると巷の凡庸。あの出来事への諦観が浮かんでこないでも無かった。新聞の一面を攫った女の始末、世間は或る憶測にその女をどうしたのか? 私はその真相を知っている。なぜなら私は、わたくしは、あの女、男子中学生失踪事件の犯人と過ごしていたからである。だから、そう。

「その赤子は誰の子か。」

その、真相を知っている。

 日の灯りがこと切れる時は決まって赤い。もうじき夜が来る。私は薄暗い部屋に明りを点けて、幾枚かのカーテンを横に滑らせた。涼風が良かった。隙間が一寸窓からの侵入を風に許している。私は、あの新聞へと眼を向けた。風に頁が少し浮いている新聞、そこに文字が詰まる奥の闇からひらりと落ちる栞があった。赤い外光が静かに投下された床の底に、その栞が落ちた。私は止まった。床とその栞の韋との間に黒が詰まっていたのだ。涼風が隙間に許されている。私は冷える。この栞がひらついて、黒い陰りを私の眼に映してくる。そうして回想が始まるのだ。強いものからぽっと浮かんで順次連鎖的に辷り始める、そんな回想に私は眼をつむった。


 初めの強力は、石橋の女の子であった。川上から川下へと清い流れを辿って、時折水草を分ける魚の鱗が光る。ころりとした水の音、虫の音が心地良い朝に、小僧は石橋へと散歩する日々を送っていた。この頃小僧は独楽なんかをして遊んでいた。黒、黄と赤の帯が順に廻してある木製の独楽をくるくると回して、色彩の慣れて安定するのを見たり、又作ったりもした。こう云う典雅なものに引き付けられていたのだ。だから一等、清い流れを辿ってゆくのがこの頃の小僧に良かった。

 或る日、小僧は葉の舟を一隻折り込んだ。前日の雨脚が生い茂る草を打って、露の少しを草の匂いと霧散させたる生憎の雨は、散歩の楽しみを一日も止めた。これがこの時期に多かった。無茶をして黄色いレインコートを被って石橋に歩いてゆく日がったが、川の勢いに動けなかった。

 雨は宵闇まで続いていたか、土の匂いが一瞬香って、その又土は湿っている。小僧は蒲団を畳む仕草に、川の勢いを思い出すと、ぎゅっとその蒲団を握っていた。

小僧は田舎に暮らしていた。そうして土の泥濘んで、風の匂やかな冷たい朝日に、雨後小さな靴を早々に汚した。味噌汁の湯気をもくもくと残して。

 やっと笹の葉を一枚、後ろ手のポケットに突っ込んだ。草木が高い裏の山は若干の勾配に土が影でよく泥濘む。そんな土に、一匹ぶーんと蜂が重厚だった。一匹瓶に閉じられたようにある箇所をずっと飛んだ。留まっていた。黒は無いか、大きく見え無いか、小僧は口を覆ってじっと屈むと蜂を観察する。そうして、息を止めて徐に坂を下り始めた。草木の密集して堅い木の構えた枝が一寸肩の布を引き裂いた。笹の葉を心配しておしりを触ると、もう山は抜けていたのだ。小僧は笹を一枚、肩を揺すって言葉が頭にない。

 母に叱られた。薄味の汁にもっと赤味噌を溶かしたらしかった、また、湯気が昇ってくる。ご飯をしっかり腹に詰めてゆく。

 笹の葉を舟へ編むのは易い。その一葉の脈の平行が小僧には何かきっかりした品格だとかを思わせた。家の縁側の造船上に腰を落ち着け、高鳴る胸に葉を見つめると、その緑色の良い深みと筋の丁寧な張りとが西日に明るく照っている。初めに折った。一寸土の詰まった指先の爪、手先を繰ってその両端が三等分となるよう千切って組んだ。丈夫である。舟の陰影を西日が任され、緑がより深い。陰影だとか、筋の骨格だとか。よく出来上がった、しっかりしている、丁寧だ、きれいである……である、である。滔々たる川の流れを穿つ場景、頭に鮮明である。……

 冷えた川に手を浸すとすずしい、表皮を水中が包んでくる。清い流れに葉の舟が一隻、澄んだ水中のぬらついた水草は纏まりを持っている、その上を一方に真っすぐ。魚の鱗、水面の流線形の膨らみ、土の匂、小さな草花の咲いた川沿いの道、それから葉の舟が一隻。これまでに感じた事の無い高揚を小僧は一時感じていた。ふと、舟が石橋の影に潜って、暫くしても流れてゆかない。そこにはしとやかな手があった、葉っぱの舟は摘ままれて浮いていた。新緑の辺りに白のワンピがころころした石橋の上にあると、一寸風が川に冷えて真っ白の裾をふっくらと蓄える。胸の高鳴り。石橋に座する女の子があった。その手がふっと舟を流した、水中に手が浸る。そのまま彼女は水草に触れそうだった。

 小僧はそれからも散歩に出掛けた。川沿いの道をよく踏んで石橋まで清い空気をほうばった。あの日から女の子は毎日石橋に座っている。水の流れに一緒に冷え込んだ気流がスカートに溜まる。小僧が来るといつもこの風景を写すのだ。それ以上は近づけなかったが、来る日も来る日も石橋に歩いて行った。そうして或る日、時雨に濡れた。下着と肌の密着を楽しみながらも、叱られる!と、苦虫を潰した心持ち。石橋には変わらずあの子が座っている。濡れた石に落ち着いている。雨後、草の匂いが一面に広がり、日の照りに川の清さが一層澄んでいるみたい。白のワンピに烏の濡れ羽の黒い髪、乾き始めた沈み橋の暗い灰色と云ったものが、自然小僧の心に染みた。小僧は石橋へと歩いてゆく。女の子の背をじっと見ながら、歩いてゆく。ゆっくり、のそのそ、漸くこつりこつり。石の上に緊張が与えられた。後ろを通り過ぎてゆく。

「ねぇ。」

「……」

「こないだの舟、君の?」

「……うん。」

 ころりとした川の音に、虫の音は静かだった。


 近頃の雨が相変わらずぽつぽつと朝を打ち始める。縁側が雨に蝕んで、座敷の埃が湿って重い陰湿な部屋に小僧は戸を開けていた。しばらくして、おはじきが眼に映った。青い捻じれの注してあるやつである。じめりとした灰の風景に青い捻じれはこれを澄ませている。微かな唇の隙間に小さな羽虫が一寸入った。やがて陰湿な天候は止して、日が水気に差す。女の子の消えた橋を思う、すると朝の日課に失せた一つがあった。女の子は、二度と橋に現れなかった。しかし又土に靴を汚してゆく。少し足の沈んで、左右に上手く歩けないのが何だか不可思議である。丈の高い道草に触れれば雨滴の名残がくさくさと散った。小さな体躯を川の方へと寄せて泥濘む道を行く。石橋に着くと渡らずに止まった。その時分に、或る妄想が小僧の胸を支配したのだ、言わずもがなあの女の子との。そうして沈み橋に身体を預けると、かつての時雨に服と肌とがぴたり密着した感触が石の上でじっと心に浮かんできた。石の濡れに足を鳴らせば高い音が聴こえる気もする。かつてここに座った女の子がいた。小僧は静かにその隣に立っている。捻じれては千切れて、絆される雲はもう晴天に代わっている。何だか視界の凝って、川の一点じっと狭まるような頭の冷えを享受して、片っぽ詰まっている鼻孔。それに気づくのだ。血の香が口腔に香る。川の水草に魚が隠れている。ぴちゃぴちゃと水を打つのは珍しかった。川は何だか青かった、水の真っすぐを伝う冷風が寒い。口の隙間に蚊が一つ、よく乾いた唇が腫れている。すると指先に血が溜まっている、草が鋭かったから。小僧は血を水草に浸そうと。そうして刹那に、川の流れが聴こえ始めた。


 血脈の朱色が鮮やかに浮かんできた。中学に入った小僧はその生温かな掌を見、指を張ると窓から差し込む仄かな明かりが若干青白の手を影に強調する。何だ、屍みたいだ。可笑しかった。そんな薄ら寒い情念を口の端にやり、掌に眼が留まる。影が寒い、血脈が影を吸って根みたく複雑に伸びているみたいだ。眼が、座って仕舞う。

 数日前に友達と遊んだ。近所の公園に川が流れて、ここに一寸涼みに来ていた。川と云うのは小僧に切なかったが、もうすくすくと育ってゆけば頭蓋に一片の哀切あるばかりで小僧の生活に捕まらない。手を浸して友と戯れると飛沫が弾けて涼しかった。友が濡れた、小僧も濡れた。水は服の奥まで浸透して上手く気化しなかった。

 帰路に就いてかじかむ掌が青白いと友に言われる。友の肩を小突いて己の色味を凝視した。この旅情にも似た終わり、遊びの終いなる今日の悲しみに小僧は珍しく応えたのである。数日前、父母から引っ越しの事を聞いたのだ。風景の夕焼けに染まって、坂の小石一つの軽重が分かりにくくなる厳粛な陰影を心に留めた小僧であった。そうして嘆息をする、小石を蹴った、小僧は恋をしていたのだ。それも、初めて恋をした。友が坂の上から手を帆にして走って来ては横に付いて肩を小突く。友は分かっている。二人で笑う。日に当てられ変に感傷的な二人を認めたからである。それは実に滑稽なのであった。冷えた掌に温もりが返って、青白の手はいつか朱色に映っている。

 青空をカーテンが透かしつつ小僧の手に被った。やはり、手は青白い。友と遊んだ川を思いながら、鈍い白の中に恋の実らないのを見透かして、その子を一瞥。ショートの黒髪を窓の風になびかせた凛々しい人である。きっかけは分からない。入学の後、クラスは一つと少なかった。その子とは事務的な応答をしただけ。或る夏の日にカーテンに隠れた彼女がしとやかな手で頬を支えており、日が過ぎれば何時とは無しに好きになっていた。が、困難を極めた。まず、一つだけのクラス。これは小僧に良き友を多く作ったのだが、女子と上手くゆけば茶化されるような針の穴を通す緊張感が与えられた。またこの小僧、気持ちの初めてなのが悪く出て上手く調子を作ることが難しい。最後に何だか動けなかった。これは倦怠や悲観、ましては諦念からくるものとは違っている。只、動けないのだ。しかし訳を知らない、小僧の頭には分からなかった。経験?クラスの女子と喋っているのに、それに友達もいる。ならどうして? ……そうか、人の眼。恐いのだ、人の眼が。けれども何か違う、密かに仲を深める心づもりがある、自信もある。ならば何故? ……これが恋なのか! 小僧の緊張が増してくるとこれが実にいけなかった。

 父は指の爪を切っている。

「ん。そうだなぁ、あそこには有名な水族館があるらしいんだ。そうだ、引っ越したらまず行こう!」

親指を撮んで、しかし足用の爪切りが見当たらない。少し曲がりのある切りを取り、小難しい顔をその銀に写した。心なしか母も喜んでいる。もくもくと白い沸騰した鍋の湯気に、しばらく解凍していた肉を投下した幾分か前。今、一寸湯の漏れる音を聴いた。今日はゲームが白ける、つまらない、良くない、つまんない、本当に白けている。指の圧力に緊張したボタンがふと、元に戻る。小僧は止してしまって、余韻が死ぬのも早かった。画面は真っ暗である。その真っ暗にドッペルゲンガーを思う。それと眼が合った。外は赤焼け、鳥が鳴いて帰期を示している。いつか小僧は、袈裟に掛かった夕日の影が欄干に境を作るのを友と見ていた。

「お前、好きな子居るんじゃねえか?」

「なんで知ってんだよ」

「ほほう、分かりやすかったぞ」

……あの夕焼けの記憶であった。

 思えば彼女も小僧に対する好意と云うのを全く感じない訳でもなかった。確かに彼女とは委員会としての付き合いや掃除場所が同じ、機会があったのだが、しかし会話が一つもない。が、彼女から視線と云おうか、仕草と云おうか雰囲気が小僧に近寄っていると思わないでもなかった。ちらりと彼女を覗けば眼の合っていることが少なくない。体育の時間である、球技の疲労がクラスに及んで休息を皆貰った。例外なく小僧も壁にもたれていた、近くには彼女もいる。息を潜めて顔を動かすと、眼が合った。視線が交わり、眼界の端と端とを貼り合わせたかと云う風に、互いにぴったり瞳が動かなかった。これが一つや二つではない、髪を耳に掛ける仕草にしても小僧の視線に応じている気がする。心なしか小僧の傍に於いてはその歩行もゆっくりとしている気さえするのだ。それから、あれも、これも……

 気が違っていないか? それは希望然り、喜び然り、ある種匂やかな情念の胸いっぱいに詰めた高揚を疑念一つにどっぷりと含んだ。「両想い」と云う言葉が胸を打つ。


「だからさ、がんばれよ」―――夕焼けの玄関。

夕暮れのアラームに友は帰路に歩き始めた。黒髪のもっさもっさと揺れて石塀の上にリズムよく見えて行った。「両想い」と云う言葉には好意を守り、受け入れるような尊ぶべき印象が眠っている。と、小僧は耽る。友からの励ましは小僧を勇気づけるのには十分であった。

 しばらく立っていた。じきに、熱の宿した足は黒い夕焼けの塊から靴を引いた。服に影が染みてくる。冷えていた。が、小僧の心は朗らかに温かい。仄かな暖色に、やがて戻っては玄関の闇に消えてゆく。


 窓際の机で肘をついて考えを巡らせる。時計の針が幾分を過ぎようとも打開の策は浮かばなかった。それが小僧の心を蝕んで、焦燥を押し付けてくる。長針が化学授業の半分を刻んだ。それを了解した小僧の何と悲しかったこと。進みゆく秒針のちくちくとした動感が俄然小僧を焦らせた。引っ越しまで早い。その影の動く度、焦りを小突かれ今にも痛覚へと変わってしまいそうな迫るものがあった。秒針と心臓との同期を過集中がなす。例のあの子の黒髪が掛かりゆく耳に。


「えぇ! うっそ~、ほんとに!」

一同はざわめいた。小僧の引っ越しの告白に声が大きく上がった。卒業まで長いと云えども幼年を共に過ごした者も少なくない。ざわめきが次第に大きくなると、それが質問へと変質してゆく。小僧はこの反応に喜んだが勢いには無頓着、何もここまでという風に緊張が見えなかった、淋しかった。

「えっ、いつ引っ越すの」

「夏休みが始まってからかな」

「二週間もないじゃん! なんで言ってくれなかったんだよ!」

この雰囲気とやんちゃ者の臭さとが相まって、皆は破顔一笑、教室に笑いが立ち込めた。只、一人を除いて。その方を一瞥した。刹那、彼女の席に黒と白とのコントラストを見た。仄かな褐色の二の腕を曝して、肘つく手がしとやかに頬を支えている。彼女の黒髪とカーテンの白と云う二大色彩が、晴天から辷る微かな涼風になびいていて、それが美しい。君は何処を眺めているの。晴天の外界の、一体何処を。小僧は淋しかった。

 そうして、過ぎゆく時間の末に小僧は一つ頭を下げた。静まり返った教室に別れを惜しむ気配が漂う。ちくちくと針が響き、悲しくなるなぁ、そう誰かが呟いた。するとその瞬間である。夏の部屋に涼しい窓に、刹那に突風が吹いた。みなぎる風に硝子がカタカタと、幾枚ものプリントが翻り枚挙に暇がない。窓際の列は顔を覆い、男子達は歓声を、女子達は悲鳴を上げた。そんな具合で小僧は頭を伏せたまま、黒板の前に動かなかった。これは感傷に浸っているのが一つ、荒波に吹き荒ぶ暴風に似た教室の混沌を面白がってもう一つである。それでもやはり、ちらりと彼女を見た。白を背景とした黒髪のなびきが複雑と云う風に一本一本物理的であった。カーテンのはためきに黒髪の物理、外を捉える彼女の横顔は何処か水気のあるうるやかな白色。この風景はまるで、まるで、純白の翼を広げた天使であった。小僧は脈を速く打ち、木組みの床の間に黒く埃が溜まっているのをにやついた。

 やがて突風の惨事が止もうと小僧は顔を上げるのだった。すると紙が一枚、顔を打ってきた。と同時に風は止んで、どっと教室が湧く。皆笑った、小僧も笑った。そうして照れ臭そうに紙の主を探そうと、その隅の一つの書き込みが又脈を乱した。そこに、小僧の名前が書かれてあった。今日のプリントである。小僧は自席へと向かった。席は、あの子の後ろ。戻りゆく中で皆労いの言葉を掛けてくれる。立ち上がっては肩をぽんっと叩く者があって皆を楽しませた。小僧は「良かった」と思いながら、ふと視線が重なったのだ。彼女が小僧を凝視している。吸い込まれそうだ、潤んでしまう。眼を窄めると、君も窄めた。そうして君の指が静かに指したのは、僕の握るこの紙だった。

 しかし幾日過ぎようとも彼女に話し掛けることは出来なかった。気恥ずかしさと引っ越しの注目を浴びて人の眼を気にしたからである。あと二週間。こんな調子であったのだが、無情にも残りは一週間となる。明らかに彼女は小僧の事を好いている。と云う確信はあっても、躊躇い行動を渋る己に焦りをさらに加速させた。明らかにだ、そう思う。が、今更になって話し掛けるのは難かった。それで彼女の髪を耳に掛ける仕草に傾聴、心がこちらに向いているような、妄想乃至執着に小僧の心は淋しかった。紙の端に好意を綴る。

 ……夜の闇は良いものである。鬱屈した日々を送ろうともこの空気が快く肺に染み通って、全身の気怠い疲労とを和らげてくれる。小僧は自ら人と関わると云うことをしなかった。地元の馴染みが多く、関わる苦労を知らなかったのだ。そうか。瞼を閉じつつこの残酷の正体を初めて直視した時は布団の中で眠りに就く間際である。

 深更、音があった。ふやけた男の声がする。何だろう。母が、何か言っている。……。少し静寂。父さんか。飲み会だったか。耳を澄まして推し量るに、泥酔しているようだ。酒癖が悪い訳ではないだろうに。―――。そうか、転勤だからか。きっとそうだろう、友達と居酒屋だと。楽しかったろう。こっちの気も―……。父の余韻に当てられて、母も興奮している、そんな声色。小僧は微睡の中で小川に流れる舟を思った。帆が風に曝されている。階下の男が咳込んだ。


 終業式の当日にクラスに悲しみがあった。小僧は高熱になった。父の友の一人、その家族に熱を引いた奴がある。それで移った。……小僧は蒲団に包まって、只熱にうなされている。時折、親指が開いて黒服の出てくる幻影を見る。こうして小僧の初恋は失恋に終わったのだ。それを黒服に言われたと幻聴した時、頬に一筋光るものがある。

 後日、友人が来てくれた。幼い頃からよく遊んだ彼らは別れを惜しみ、皆からの哀惜の品々を渡してくれた。その中の一つにメッセージカードが丁重な本として綴じられていた。まだ熱の仄かに乗っている肌に今日の空気は冷えている。その後皆で川に涼んだ、少しの熱を蓄えつつ。彼らは出立までも見送ってくれた。車の影が消えるまで、彼らの手は高く高く上がっているままに。小僧は彼らに、手を振り返し、振り返したのである。……皆はもう遠い。

 メッセージカードを手繰る手がふいに止まる。あの子の面影を予感したからだ。それが何とも胸につっかえる。この心臓の空白に液体の漏れたような感じが、確かに淋しさと反応していた。心情の様相を心臓へと投影している気、そんな感じ。そんなことを思いながら車窓を覗く。知らない道を、只ひたすらに走ってゆく。一過性の風景。建物やら、車やら、木々の合間の闇が窓の後ろへと滔々と倒れて仕舞っている。初恋の顛末は失恋に終わった。この事を初めて自覚した一瞬間、後悔がどっと押し寄せる。二度と帰らぬ、この道のように。「死。」これが最もな罰だと思った。酷く吐き出してしまいそうな己の反射を窓に見つけてしまう。小僧は栞をあの子の頁へと挟んで、もう開くことは叶わなかった。


 転校先で仲良く半年を過ごした一人の女の子がいる。短髪で青いピンが前髪を斜めに留める強気な女の子であった。不安の積もる幾日を転校で味わい、それをもんもんと悩む通学の電車に同じ学服が一人、小僧の隣に腰を掛けてきた。それが出会いとなって、振動の心地よい朝の電車に顔なじみが出来たのだ。それによく気が合った。小僧の少々茶らけた振る舞いに迎合するでもなく、ましてや無理をするのでもない。清いさえずりに番いの鳥が呼応するような緊張の無い和やかな相性がある。それで朝が楽しかった。

 道なりの古びた家屋に幼い頃を懐かしみつつ、だいぶ日が経つにつれ、ここでの生活にも馴染んできた。近場の自販機に夜中オレンジを一つ飲みに行ったり、郊外の自然に涼みに行ったりもした。意外にも信号が歩道橋に取り付けられて、しばらくは青、しばらくは赤と云う風にビル群の中で強い効力を持った信号機、途中黄色が明滅したり、一斉に車が動いたり。この光景に田舎者の小僧は恍惚を抱いて、それをしばらく噛み締めた。これがもう半年なのだから。そんなことを思うと幾らか良かった、教室に上手く馴染めぬ鬱屈も多少マシになる。苛められはしなかったのだが、そんな雰囲気の話を時折母に仕掛けて、日々の鬱憤と転校の不快とを弱く発露させて又それがある一定の周期で起こって来るのだと信じて疑わなかった。これが、予想以上に強まってきた。

 それから数日が過ぎた後である。谷の深い郊外の駅に独り涼みにきていた。山は白に染まり、澄んだ冬の視界に日の光が銀に反射する。常緑樹の主な谷に雪が落ちてきた。谷底も清い。滔々と流るる川の飛沫が白く湯気立ち、それが寒むかった。水辺の気流が谷をなぞり小僧も冷やした。雪に覆われた清さに澄んだ谷があった。すると小僧はスマホを取り出した、この景色を見せてやりたくなったのだ。慣れない写真に悩み、かじかむ掌に白く息を吐いた。はぁ、と吐く。辺りを見回して、これから日の昇りゆくのを収めたい。枠を手で構えた。良い所を探す。その四角の枠を、息が白く染めてゆく。寒い空気にスマホを構えた。日が川に反射している。鳥が涼しく鳴いていた。これがちょうど木の梢に止まって、澄んだ光に鈍白を見せた。

 その日から音沙汰が消えたのだ。写真を送ろうとした連絡先が消えている……。その後に知ったのだが、あの子は彼氏ができたらしい。それで連絡先が消えたのだ。梢の鳥がこちらを一瞥する。小僧のこころが虚しかった。ぱたぱたと飛び立ってゆくと、雪が川に落ちた。そうして谷底に一つ音が響いた。


 或る日いつものように鬱屈した不安の解消に内省と妄想とに親しんでいた。その中で親についてを頭が占めた時分、彼らの惰性とも言うべき不道徳と云うの気が付いて、まさに嫌悪一色。憎しみやら失望やらが、絶対の信頼を一瞬の内に瓦解せしめ、半ば困惑しながらも彼らをこき下ろすのを止す趣がない。暫く怒りが収まらなかった。小僧の妄念は幻影の拳に血を滴らせた。熱が来る、妄想の拳に血脈の迸りを予感したが、案外にも拳は寒い。これは何時か感じた冷えに近しいものがある。血脈が不気味に冷えて青白い掌にある余韻を残す団々坂。……いや、こっちは悪いものだ。

 それから小僧は親と話した。が、これは良くなかった。「ごめんだけれど」彼の母親がそう口火を切って、言い訳混じり自己弁護を涙で濡らしつつ行い、それに小僧は閉口してしまう。嫌悪しかり気味の悪さ、むしろ嫌悪と云うのが気味の悪さに屈服せられたと言ってもよい。終始この女、受け入れられないのだと小僧の気持ちをだらだらと汲まなかった。それから父も酷かったのだ。母との会話に疲労と倦怠とをじめじめと育てた小僧が、徐々に回復、しかし又その悪感情を発散する術を持たずに今度は父と話したのである。はっきりと酷かった。初めはうんうんと頷いていた。暫くすると話を遮り出して、その悪感情の訂正を要求するのだ。

 こうだった……いや、こうだ!

小僧は父都合の引っ越しに苦労したのだと言う。

「そりゃあお前、引っ越しは苦労するだろ。」

―――もっと前に教えてくれてもよかった。

「いや。うん、まずあれだ。それが話を聞く態度か、座れ」

こうだ!

小僧は失恋の告白に一縷の涙を流した。

「いやいや、ちょっと待って? 自分のせいじゃん、それ。話し掛けなかったの自分じゃん」―――薄ら笑いを浮かべながら。

こうだ!

「なんかツラいって・・。皆苦労してんだよ。自分だけがツラいんじゃないよ。でしょ、社会に出たらもっと苦労するよ、あのねぇ皆頑張ってんだよ」

こうだ!

こうだ!

こうだ!

……


 きしりと廊下に音が鳴った。深更、粉っ気のある月明りがその奥に青白い。闇が吞んでいる。しかし、澄んだ闇。小僧はこの日家を出た。もう、この景色を見ることは無いと云う予感が闇を澄ました。閉まりゆく戸に闇が覗いている。二度と見ない、退廃的な闇がある。


 大雪警報のあるのを小僧は知らなかった。ざぁざぁ降りの雪が小僧の身体を激しく打っていた。日を跨ぎ、県からの逃亡についぞ金は一銭も見えない。そうしてこれが或る心理を働かせた。雪濡れの酷い身体をぶるちと震わすのは、金の一銭も無く持ち得る資産の一切が尽きて、粒の大小とに関わらず雪を避ける術を心が必要としないからである。電柱の下でのぽつねんとした孤立。暮らしてきた家のぬくかったこと。そうして、街灯の下で淡泊な光に立っていた。

 雪が又一段と強くなってゆく。小僧は只々水に浸り息を弱く憔悴している。

「大丈夫?」

眼の下の積雪に雪が止まった。電燈の光、寒かったからか。人の手であった。人である。女の人であったのだ。大雪が街を染め上げたのは、もう二時間前になる。

 しかし、半年もすれば互いに興味は無い。女は小僧に良くしてくれた。住まいを用意し、飯も与えて、小僧が暮らすには十分。暗澹たる気持ちの絆されるのを始めは感じていたのだが、次第に違和感を持つようになった。一つ、この女の好待遇。家出の後に世間はあるニュースで持ち切りとなる。それが男子中学生失踪事件。これが食卓に流れる度に冷や汗を誘った。味噌汁の湯気が緊張気味にもくもくと煙っている錯覚が拭えない。ニュースは小僧の眼をじっと豆腐に押し付けるのに十分であった。だから違和感。女は行方不明者の正体を了解している。初めてこの報せをテレビに見た時、女はこちらを見つめていた。だからきっと、いや確実に小僧の正体を悟っている筈である。にもかかわらず小僧は未だに暮らせている。まだ十分に話せていない。しかしこれは親切とは違うのだと小僧の勘が強く働いた。

 他に何があるか。……下着である。と云ってもこれは単に小僧が色気づいたからではない。女の下着がやけに眼に付くのだ。女からの働き掛けがあると思った。部屋の散らかりを気にしたのは案外にもふた月と経ってから。迎えてくれた女の部屋は色が白く薄く桃に染めたような清潔感があった。それでいて黒い革張りのソファーがあったり、キューブをくり抜いて組んだような木製の棚があったり、匂も良かった。肌触りのよい木目の机が居間の真ん中に置いてあって、その上にはころんと香水がある。何かは分からないが棒が瓶から伸びている。小僧はここに女の丁寧な暮らしを見たのだったが、それがやはりふた月を過ぎれば違ってきた。桃の色味の部屋の香水、その周りに下着が散らかり始めたのだ。居候の小僧が女の生活を変えたのだと思ったが、これが変なのである。放ってあるのは下着だけだ、上着でもズボンでもない女の下着だけなのだ。しかも決まって同じ箇所にある。小僧はそれがあると気まずかった。気づかないのか、女は小僧が口に出すまでその存在を視認しない。そうして下着が床に増える一方であった。一つ、二つと幾枚も散乱してゆく。それが全て秘所を隠すものなのだから。小僧はいつか下着をまとめて女の部屋に置くのが日課となっていた。だからだろうか、小僧は女と距離を置くようになった。清潔な部屋の、下着にまみれた同棲で。


 そうして半年も過ぎれば互いに関心が無くなっていたのである。食事を一緒に摂るがそこに世間話の一つもない。奇妙だった。一向に追い出されない。小僧は今日も蒲団に入っている。葉を一面に帯びた花柄の電燈が、緑、赤と黄の発光で壁を染め上げる真ん中、小僧はもう眠りそうである。すると間もなく、木の軋む音が聴こえてきてそれが止まった。

「聞いているでしょ。」―――蒲団は動かない。

「私が動けなくなったら支えて欲しいの」

女の腹がずいぶんと膨れている。時とすると、小さく腹を蹴り上げる者があった。

「私が動けなくなったら、その時はお願い」

月夜に虫の鳴かない静寂がある。その静けさが薄眼で見た女の足を外から来たと云う風に幻視させるのは気のせいだろうか。小僧の方が外部だからなのか。……詰んでいるな。もう何も逆らえまい。孤立する一人に崖っぷちを突き付ける女の足を感じ、これが又孤立した、社会を生き抜く術を持たない一人をじっと覗き見る人間全ての象徴のようだった。詰んでいる。蒲団でこくりと頷いた。女はもう行ったのだろうか。電燈を消す前のその笠の花柄が色味良い。

 張りが強くなってもう時期と云う或る日、女が徐に呻きだした。就寝後時間が経っており蒲団の中でその呻きを耳に通した。小僧は起き上がる。じっと耳を澄まして立ち上がった。

 びちゃびちゃと吐瀉物が便器の側面を滑り落ちてゆく。背中をさすりつつ救急車の必要を聞いたがいらないらしかった。しかしやはり……。いや、いらないのだと女はこれを貫いた。水を一杯女にやる。なかなか喉を通らないらしい。また、こみ上げてくる。そうして女に言われて支度をした。身体の高ぶりも落ち着きを見せてゆっくり、ゆっくりと女は車へ歩を進めるのだった。信号機の光が線となって頭の中へ侵入してくる。上を見上げることの多かった車内に温かい空気が広がった。暖房をいじる女の調子は先程とはずいぶんと違っている。これに小僧はやや安心を覚えつつ、しかし同時に、女への疑念が半ば確信となってゆくのを感じた。その子は一体誰の子か。流れゆく車窓の景色にその考えは早まった。心当たりがある。電話がそれである。関心が消える以前から会話は少なかったのだが、それが逆に沈みゆく小僧の心の内に干渉されない安心を与えてくれた。それに、彼らに見つからない。一度、女が電話を手に取った所を盗み見たのだが、誰だろうか、警察ではないのだが相手が分からない。しかしある夜小僧は聞いたのだ。それと云うのは漏れた電話声の中に男を聞いたという具合に。それも毎回女は切羽詰まっているのだ。これが真相なのか。小僧は女の横顔を見た。今、膨らみの中には誰かの子が埋まっている。この生活も半年だ、半年なのだ。それ以前に授かったのだろう。電話の男、その顔を一回も見たことはないのだが。

「ねぇ。」小僧が言った。

「なに?」人の温もりを感じてか、僅かに力みが緩んだ。

「どうして俺を拾ったの」

「かわいそうだと思ったからよ。」

女は小僧の沈黙にじっと前を見続ける。静かである。その手が、ラジオを点けた。

「それ、今必要なこと?」

小僧は何も言えなかった。


 産婦人科に着いてすぐに女は看護婦に連れられた。道中の車にトラブルはなかった。女は安定していたのだ。しかし月日を経、この一大事にも関わらず二人の間には終始不健全な沈黙が変わらずにあった。先の応答に小僧の考えはある確信に至っている。それに違いない。すると、今ここに居るのは極く気味の悪い疎外感を強く々々思わせた。極く気味の悪いもの。小僧は己の利用されていることが潔く悲しかったが、同時にあの女の意外性に、男に捨てられた女の本性の露呈に尋常ならざる嫌悪が怒り混じり沸いてくるのである。つまり刹那的に女を嫌いに嫌い憤怒した。やはり刹那的に。……

 それでもって鈍い緑のソファで待っていると看護婦に呼び止められた。曰く、お母様がお待ちです、と。女との間柄に血の温かみは無いだろうに。小僧はしぶしぶ付いてゆく。重厚なドアがある。歩いた廊下の後ろは暗い。まるで小僧の心象を写すよう、あぁ恐い。何故ここに居るのか? きっかけは親からの逃亡。それがこんなにも陰鬱な気持ちに帰着するのだから。只、部屋に跨ぐ惰性があった。

 女だ。ベットに股を開き青いシーツを掛けられている。ぎょっとした。産気づいた先程とはまるで違い、入って来るやこっちをじっと見つめてきたからである。しかも、優しげに微笑んでいる。今日は夜に月があった。一刻前は曇り空だったのに。満月が、良い色味である。外は冷たいのだろうか。女の傍に寄って、横に立ち、すると手を握るのを要求してくる。仮に母と子の関係でもそれは無理がある、ほら!看護婦達も見ているじゃないか! あぁ、そうして握った。女は俺の手を辷り抜けてその指を絡ませてきた。看護婦達がこっちを見ている。……満月は良かったのに。今はまるで醤油にぬらついた豆腐のくっきりとした色味に気味悪い。女が強く握ってゆく。こいつは誰だ、誰なのだ。すると、女が喘ぎ出した。……


 赤焼けた部屋の片隅に、この一部始終を回想した男があった。それが、私である。あれから私の行方が明らかとなって、女は捕まったのだ。あの女は男に捨てられた悲しみから私を拾ったらしく、時折その男と電話をしていたのは、家出少年を匿う己の慈しみと少年の悲運とをもって、男の情に訴え掛けての事であるらしかった。捨てられた女、孕んでいたのはあの男のだろう。何事もなく鳴き声を上げた赤子に女は涙していた。それは私が初めて見た女の意外な一面であった。何故だか後ろに浮かぶ満月が心地良かったのを憶えている。と、女は私を呼んだのだ。涙に濡れて、生命を産んだ苦労の瞳を、私は美しいと思った。そうして、手の震えて小鹿の様なか細い抱擁で私を寄せてゆく。それから耳元で、女は囁いたのだ。

 世間を騒がせた例の事件、その犯人たる女に人間の憶測は酷かった。女が私を匿ってくれたのは事実である、これを私は法廷で子細に語った。女を一瞥するとこちらに優しく微笑んでいた。女は欺瞞を上手く隠していた。故に、和解で済んだのだ。世間が赤子に注目して執拗に女を攻撃したのは気持ち悪い。「法廷は死んだ」と、私との関りがあるのだと執拗であった。

 あれから私は上手く大人になれたらしい。回想の女の一人と後に再開して、これから妻の出産が始まるのだ。私は本を好んでいる。栞は、その為である。

 もうじき日も沈む。カーテンを閉めると、微かに風の入ってくるのを白い布のなびきに見た。夕焼けの光が一筋栞に当たって、床と韋との間に黒い陰りができた。あの女との同棲で互いに本心の告白を避けていたが、そう“互いに”である。風が一寸吹いた、栞が飛びそうである。地平線に消えゆく夕焼けの赤光がどんどん下に沈んでゆく。私の足も呑まれてゆく。本心には表裏があると、私はいつか知っていた。それが良いものならばいい。しかし、悪いものならば? 栞が裏返ろうとする。影も又栞に届きそうである。か細い抱擁で妻が私を優しく寄せてゆく。私は栞の行く末を見届けようと、じっと息を潜めて潜めて……あの赤子は誰の子か?


「パパ。」


 その時、妻が喘ぎ出した……

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