水槽の少女
気づいたら、朝になっていた。
記録を書いているうちに眠ってしまったらしい。メモ帳が膝から落ちていた。肩に毛布がかかっている。自分でかけた記憶はない。ノアの姿はなかった。いつの間にか部屋に戻ったのだろう。
毛布の端に、小さな肉球の柄が見えた。
水槽の中を確認する。
少女が目を開けていた。
こちらをじっと見ている。いつから起きていたのかわからない。顔色は昨夜より明らかにいい。鱗の色も落ち着いている。
私は姿勢を正した。
「気づきませんでした。いつから起きていましたか」
少女は答えない。ただ見ている。値踏みするような、しかし敵意のない目だった。
「気分はどうですか」
しばらくして、少女が口を開いた。
「……あなたが、助けたの?」
「はい」
「うみのそばにいたの?」
「たまたまです」
少女が少しだけ視線を揺らした。
「名前を教えてもらえますか」私は続けた。「記録に必要なので」
少女がこちらを見る。
「……ミィ」
「ミィさん。わかりました」
私は頷いた。
魚類の体色は体調と密接に関係している。健康な個体は色素細胞が活発に機能するため発色がよく、逆に体調が悪化すると色素が収縮して全体的に淡くなる。
昨夜のミィの鱗は青銀色の彩度が落ちて、灰みがかっていた。今朝はその色が戻っている。数値で測れるものではないが、経験的に悪くない兆候だと判断できた。
「ここは診療所です」私は言った。「霧岬異種連絡診療所。治療が終われば帰れます」
「……うみ、かえれる?」
「海に帰れます」
そのとき扉が開いた。
ノアが入ってきた。白衣に着替えている。髪も整っている。昨夜の面影はない——耳と尻尾だけが、まだ少し眠そうにしていた。
「あ、起きてる」ノアが水槽に近づいた。「よかった。気分はどうですか」
ミィの視線がノアに移る。
ノアの耳を見ていた。それから尻尾へ。それからまた耳へ。
「……おおきなみみ、ある」
「あります」ノアが耳をぴくりと動かした。「驚きましたか」
「……うごいた」
ミィの視線がノアの耳から離れない。それからゆっくりと尻尾へ移った。じっと見ている。
「……さわっていい?」
ノアの耳がぴんと立った。「え」
「だめ?」
「だ、だめじゃないですけど……」
ノアが水槽に少し近づいた。ミィの小さな手がノアの耳にそっと触れた。柔らかく、確かめるように。
「……ふわふわ」
ノアの尻尾が、後ろで大きく揺れた。
「私はユーリといいます」私は言った。「ここの医師です」
「……しってる」
「知っていますか」
「かお、みてた」
昨夜、意識があったのか。気づかなかった。
「尾びれの処置をさせてください」私は言った。「昨夜は手をつけられませんでした。水槽から出てもらう必要があります」
ミィの表情が変わった。水槽の端に体が寄る。
「……いや」
「処置しないと傷が悪化します」
ミィは黙った。
「目を瞑っていてください。触れる前に必ず声をかけます」
尾びれが水槽の底をゆっくりとなぞる。
「うみのおとがないと……なんか、こわくなる」
私はノアを見た。ノアもこちらを見た。
「波の音ですか」
「うん。うみのおとがあれば……すこし、おちつける」
少し考える。
「かいがら、もってきてほしい」ミィが小さく言った。「みみにあてるとうみのおとがするから」
ノアがすぐに立ち上がった。「浜辺ですね。取ってきます」
「お願いします」
ノアが駆け出した。
部屋に私とミィだけが残る。
ミィがこちらを見ていた。何か言いたそうな顔だった。
「どうしましたか」
「……なんでもない」
沈黙が落ちる。
「怖くないですよ」私は言った。「処置は丁寧にやります」
「……わかってる」
ミィが視線を外す。
「こわいのは、そこじゃない」
「では何がですか」
答えは返ってこなかった。
やがてノアが戻ってきた。大きな巻き貝を抱えている。
「これでどうですか」
ミィが小さく頷いた。
「では始めます」
ミィが目を閉じ、貝殻を耳に当てた。
水槽から出るとき、体がわずかに強張る。処置台に横たわった瞬間、表情が歪んだ。
——陸上では負担が大きい。
「今から洗浄します。少し冷たいですよ」
傷口に希釈した海水をかける。
砂粒を取り除く。ミィの体が小さく震えた。
「痛みますか」
「……すこし」
「もう少しで終わります」
裂傷は三本。一本は深い。
縫合ではなく、生体接着剤で固定する。
処置中、ミィが低く歌い始めた。
波のような、揺れる歌。
作業を続ける。
途中、視線が鱗に向いた。
「なにみてるの」
「鱗の構造を」
「それ、ちりょうとかんけいあるの?」
「今は関係ありません」
「じゃあみないで」
ノアが小さく噴き出した。
「すみません」
処置を終える。
「終わりました。よく頑張りました」
水槽に戻した瞬間、ミィの体から力が抜けた。
ミィが目を開ける。
「これ、もってかえっていい?」
ミィが貝殻を指差す。
「どうぞ」
ノアが薬を持ってきた。
「まずい」
「海水の濃度を調整します」
ミィがまたこちらを見る。
「……」
ノアが小声で言った。
「先生、絶対何かありますよ」
「わかりません」
ノアが呆れたように尻尾を揺らした。
私は記録を続けた。
◇診療日誌◇
患者名:ミィ
種族:人魚族
状態:意識回復・顔色良好・鱗の色安定
処置:傷口洗浄(希釈海水使用)・異物除去・生体接着剤にて傷口固定・蜜蝋による保護膜形成・経過観察継続
外見:淡い青緑の髪・青白い肌・尾びれ青銀色・先端虹色透過
備考:鱗の色素変化、体調指標として有効と判断。縫合糸は組織適合性不明のため不使用。蜜蝋保護膜、水中での耐久性要確認。薬の海水濃度、要調整。貝殻を所持。何か言いかけて止まる場面あり。理由不明。/陸上処置時間は最小限にすること。浮力消失による体への負担大。




