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霧の岬の処方箋 〜「先生、それ治療ですか観察ですか」「両方です」~  作者: 鉄百合


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3/3

打ち上げられた歌

 夜、私は浜辺にいた。


 鱗の縁の件がまだ頭に残っていた。加齢か病変か。判断材料が足りない。足りないとわかっていても、同じ考えが堂々巡りをする。こういうときは外に出た方がいい。整理されるわけではないが、少なくとも同じところを回り続けるよりはましだ。


 霧岬の浜辺は夜になると誰も来ない。波の音だけがある。


 私は岩に腰を下ろして、メモ帳を膝に置いた。書くことは特にない。ただ持ってきた。


 波が来て、引いた。また来て、引いた。


 波が引いたとき、何かが残った。


 最初は流木だと思った。暗くて形がよく見えなかった。しかし次の波が来たとき、それが動いた。


 私は立ち上がった。


 近づくにつれて形が見えてきた。上半身は人間の少女に近い。しかし腰から下が——長い、青銀色の尾びれ。先端が波に揺られるたびに虹色に光った。


 人魚族だ。


 砂浜に横たわっている。尾びれに深い裂傷。鱗が数枚剥がれている。


 声が出ていなかった。


 私の足が止まった。


 ——文献では。


 人魚族は海中では鰓呼吸を行うが、陸上では肺呼吸に切り替わる。ただしその肺呼吸は、発声や歌といった能動的な行動を伴わなければ十分に機能しない。


 つまり——声が止まれば、呼吸が止まる。


 まずい。


「聞こえますか」


 しゃがみ込み、肩に触れる。反応はない。


 少女の顎をそっと持ち上げ、口から空気を送り込んだ。一回、二回。


 細い音が漏れた。掠れた、頼りない音。しかしそれで十分だった。


「そのまま続けてください。止めないでください」


 音が続いた。不安定で頼りないが、確かに続いている。


 私は立ち上がり、診療所へ向かって走った。


 ノアの部屋は診療所の二階、一番手前の扉だ。勢いよく三回叩いた。


 しばらくして扉が開いた。


 ノアが立っていた。目が半分閉じている。髪が片側だけ潰れている。耳が左右でばらばらな方向を向いていた。


「……先生」ノアが掠れた声で言った。「今、何時だと思って——」


「水槽車を出してください。人魚族の患者です。緊急です」


 ノアの目が一瞬で開いた。耳がぴんと立つ。


「今すぐですか」

「今すぐです」


 ノアが一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。


 そのまま駆け出す。


 浜辺に戻ると、音はまだ続いていた。か細く、波に紛れそうなほどの音量だったが、途切れてはいなかった。


 水槽車を砂の上で押すのに手間取った。車輪が沈む。ノアが無言で反対側に回り、二人で引いた。足を取られながら、それでも止まらない。


 水槽の縁まで運んだとき、初めて顔が見えた。


 濡れた髪が張り付いている。肌は月光の中で青白い。尾びれは灯りを受けて青銀色に光り、先端が虹色に透けた。


 ——この構造は。


 一瞬、思考が逸れかけた。


 ノアの視線に気づく。


「……後です」


 少女を水槽に移した。


 その瞬間、音が止まった。


 息を呑む。


 しかし次の瞬間、少女の顔色が変わった。青白かった肌に、わずかに血色が戻る。鰓呼吸に切り替わったのだろう。


 ノアが小さく息を吐いた。


 診療所に運び込み、水槽療養室へ。少女はまだ意識がない。尾びれの裂傷は深い。しかし今夜は処置できない。意識のない状態で触れるのは危険だ。


 今夜は経過観察に留める。


 私は椅子を引き、水槽の横に座った。記録をつけながら、少女の状態を確認し続ける。血色は徐々に安定していった。


 しばらくして、ノアが温かい茶を持ってきた。


「着替えてください」私は言った。

「今更です」


 ノアが隣に座る。耳がまだ少しだけ下がっていた。


「……大丈夫そうですか、この子」

「今夜は安定している。尾びれの処置は明日、意識が戻ってから」


 ノアが頷いた。


 小さく欠伸をする。口元は隠したが、耳は正直だった。


「寝てください」

「先生こそ」


 どちらも動かなかった。

◇診療日誌◇

患者名:不明

種族:人魚族

発見:夜間、浜辺に打ち上げられていたところを発見

症状:尾びれ裂傷・鱗剥離・発声停止(陸上呼吸困難)

処置:応急対応後、水槽収容・経過観察

備考:水槽収容後、顔色回復。鰓呼吸への切替を確認。尾びれの本格処置は意識回復後に実施予定。/陸上処置において、発声機能を阻害する薬剤の使用は禁忌(呼吸不全に直結するため)。水中では制約なし。

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