打ち上げられた歌
夜、私は浜辺にいた。
鱗の縁の件がまだ頭に残っていた。加齢か病変か。判断材料が足りない。足りないとわかっていても、同じ考えが堂々巡りをする。こういうときは外に出た方がいい。整理されるわけではないが、少なくとも同じところを回り続けるよりはましだ。
霧岬の浜辺は夜になると誰も来ない。波の音だけがある。
私は岩に腰を下ろして、メモ帳を膝に置いた。書くことは特にない。ただ持ってきた。
波が来て、引いた。また来て、引いた。
波が引いたとき、何かが残った。
最初は流木だと思った。暗くて形がよく見えなかった。しかし次の波が来たとき、それが動いた。
私は立ち上がった。
近づくにつれて形が見えてきた。上半身は人間の少女に近い。しかし腰から下が——長い、青銀色の尾びれ。先端が波に揺られるたびに虹色に光った。
人魚族だ。
砂浜に横たわっている。尾びれに深い裂傷。鱗が数枚剥がれている。
声が出ていなかった。
私の足が止まった。
——文献では。
人魚族は海中では鰓呼吸を行うが、陸上では肺呼吸に切り替わる。ただしその肺呼吸は、発声や歌といった能動的な行動を伴わなければ十分に機能しない。
つまり——声が止まれば、呼吸が止まる。
まずい。
「聞こえますか」
しゃがみ込み、肩に触れる。反応はない。
少女の顎をそっと持ち上げ、口から空気を送り込んだ。一回、二回。
細い音が漏れた。掠れた、頼りない音。しかしそれで十分だった。
「そのまま続けてください。止めないでください」
音が続いた。不安定で頼りないが、確かに続いている。
私は立ち上がり、診療所へ向かって走った。
ノアの部屋は診療所の二階、一番手前の扉だ。勢いよく三回叩いた。
しばらくして扉が開いた。
ノアが立っていた。目が半分閉じている。髪が片側だけ潰れている。耳が左右でばらばらな方向を向いていた。
「……先生」ノアが掠れた声で言った。「今、何時だと思って——」
「水槽車を出してください。人魚族の患者です。緊急です」
ノアの目が一瞬で開いた。耳がぴんと立つ。
「今すぐですか」
「今すぐです」
ノアが一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
そのまま駆け出す。
浜辺に戻ると、音はまだ続いていた。か細く、波に紛れそうなほどの音量だったが、途切れてはいなかった。
水槽車を砂の上で押すのに手間取った。車輪が沈む。ノアが無言で反対側に回り、二人で引いた。足を取られながら、それでも止まらない。
水槽の縁まで運んだとき、初めて顔が見えた。
濡れた髪が張り付いている。肌は月光の中で青白い。尾びれは灯りを受けて青銀色に光り、先端が虹色に透けた。
——この構造は。
一瞬、思考が逸れかけた。
ノアの視線に気づく。
「……後です」
少女を水槽に移した。
その瞬間、音が止まった。
息を呑む。
しかし次の瞬間、少女の顔色が変わった。青白かった肌に、わずかに血色が戻る。鰓呼吸に切り替わったのだろう。
ノアが小さく息を吐いた。
診療所に運び込み、水槽療養室へ。少女はまだ意識がない。尾びれの裂傷は深い。しかし今夜は処置できない。意識のない状態で触れるのは危険だ。
今夜は経過観察に留める。
私は椅子を引き、水槽の横に座った。記録をつけながら、少女の状態を確認し続ける。血色は徐々に安定していった。
しばらくして、ノアが温かい茶を持ってきた。
「着替えてください」私は言った。
「今更です」
ノアが隣に座る。耳がまだ少しだけ下がっていた。
「……大丈夫そうですか、この子」
「今夜は安定している。尾びれの処置は明日、意識が戻ってから」
ノアが頷いた。
小さく欠伸をする。口元は隠したが、耳は正直だった。
「寝てください」
「先生こそ」
どちらも動かなかった。
◇診療日誌◇
患者名:不明
種族:人魚族
発見:夜間、浜辺に打ち上げられていたところを発見
症状:尾びれ裂傷・鱗剥離・発声停止(陸上呼吸困難)
処置:応急対応後、水槽収容・経過観察
備考:水槽収容後、顔色回復。鰓呼吸への切替を確認。尾びれの本格処置は意識回復後に実施予定。/陸上処置において、発声機能を阻害する薬剤の使用は禁忌(呼吸不全に直結するため)。水中では制約なし。




