霧の岬へ
霧が、濃い。
馬車の窓から外を見ても、白い靄が視界の半分を塞いでいた。御者に「もうすぐですか」と聞くと、「もうすぐも何も、見えてるでしょう」と返ってきた。
——そう言われても、見えなかった。
霧の中に、建物の輪郭が浮かんでいた。
古い石造りの二階建て。壁に蔦が這い、看板は文字が半分剥げている。かろうじて読めるのは「霧岬異種連絡診——」まで。残りは風雨に削られて久しいらしかった。これが王都の中央医療院と同じ「医療施設」という分類に入るのか、私にはとても信じられなかった。
もっとも、信じがたいのはお互い様かもしれない。
馬車が止まる。荷物を降ろしながら、私は建物を改めて観察した。西側に水槽設備の配管が見える。人魚族にも対応できる構造だ。東の裏手に煙突が二本——おそらく高温療養室用。薬草園らしき一角には、人間用と異種族用が混在している様子。
悪くない。
——いや、むしろ理想に近い。
「霧岬診療所へようこそ……と言いたいところですが、本当に来るとは思いませんでした」
扉の前に、若い女性が立っていた。白衣の上から灰色の狼耳がぴんと立っている。腰の後ろで太い尻尾が一度揺れた。二十代前半、人間と狼族のハーフ。事前に送られてきた書類で名前は知っていた。
「ノアさんですね。よろしくお願いします」
「はい、えっと——」
ノアが少し身を固くした。耳がぴくりと動き、尻尾がわずかに揺れた。おそらく何か言われるのを待っていたのだろう。耳のことか、尻尾のことか。
私は特に何も言わなかった。言う理由がなかった。
「……荷物は、それだけですか?」
「医療器具と研究書が三箱。あとは着替えが少し」
ノアが箱を一つ持ち上げて、眉を寄せた。「重っ……これ全部、本ですか」
「異種族医学の資料です。手元に置きたいものだけ持ってきました」
「だけ、って」
ノアがもう一度こちらをちらりと見た。何か言いたそうな顔だったが、口には出さなかった。
扉を開けてもらいながら中へ入る。診療室、処置室、廊下の奥に療養室への通路。天井が思ったより高い。人間の建物にしては不自然なほど。異種族の来院を前提に設計されているのだろう。においを確認する。薬品、木材、海の塩気、それから——かすかに、煙に近い何か。
「前任の先生は?」
「三ヶ月で辞めました。その前の先生は二ヶ月です」
「なぜですか」
ノアが少し間を置いた。「……患者さんが、怖かったみたいで」
私は頷いた。想定の範囲内だ。異種族の患者を診るということは、未知の生態と向き合うということでもある。怖いと感じる医者の方が正常なのかもしれない。
ただ、私は怖くない。
——怖いと思う前に、観察したいと考えてしまう。
「今日、患者の予約は」
「午後に一件。竜族の方です」ノアの耳がわずかに横へ倒れ、尻尾が小さく揺れた。「……ガラさんといって、その、少し癖が強い方で」
「竜族ですか」
私の声が変わったのだろう。ノアが「先生?」と首を傾けた。
「鱗を——触らせていただけるでしょうか」
「……え?」
「いえ、来院されたらすぐに。竜族に関する文献はほとんどなくて。鱗の金斑が年齢と関係するという説があるだけで、実証したデータが存在しないんです。触診させてもらえれば質感も記録できますし、可能であれば写しも——」
「先生」
「はい」
「……それ、最初に言うことですか」
私は少し考えた。「……挨拶の後にします」
ノアが何かを言いかけて、止めた。尻尾が一度、ぱたりと薬品棚に当たった。
「先生って、もしかして普通じゃないですか」
「言われます」
午後の診療まで時間があった。私は荷物を解きながら、診療室の棚に資料を並べた。異種族医学概論、竜族の生態と治療、人魚族の音声コミュニケーション、スライム系生物の構造分析——ノアがそれらを眺めて、何か言いたそうな顔をしていたが、口には出さなかった。
薬草園を一度見て回った。人間用の棚は整理されている。異種族用は少し雑然としていたが、種類は悪くない。手を加える余地がある。
海が見えた。
岬の先から見下ろすと、水平線が霧の中に溶けていた。人魚族の居住域は、あの霧の向こうだ。東の森はグレイウッドと呼ばれていて、精霊や獣人が住んでいる。南の断崖の下には竜族の縄張りがある。
四方が交わる場所。どこにも完全には属さない場所。
私がここへ来たのは、逃げてきたわけではない。データを集めるために、場所を変えた。
——王都では、もう限界だった。
王都の中央医療院には、私が必要とする環境がなかった。異種族の患者は地下の隔離室に通され、記録は最低限しか残らなかった。あの場所でできることを、私はやり尽くした。
やり尽くした、と言えるかどうかは、わからない。
でも前を向く以外に、やれることもない。
午後二時。馬蹄の音もなく、突然扉が揺れた。いや、揺れたのではない。叩かれた。三回、重く、短く。
「開いてますよ」とノアが言った。
扉が開いた。
扉の向こうにいたのは、体長三メートルを超える竜族だった。深緑の鱗に、金色の斑点が散っている。
私はメモ帳を取り出した。分布のパターン、色の濃淡、密度——文献には図版すらない。
どこから記録すべきか判断がつかない。
——それでも、手は止まらなかった。
「何をしている」
低い声だった。煙が、細く白く、鼻先から漏れた。
「記録しています」私は顔を上げた。「竜族の方に直接お会いするのは初めてで。文献がほとんどないもので」
沈黙。
竜族の患者——ガラというらしい——が、私をじっと見た。
私も、観察した。
鱗の質感が文献の図版とは微妙に異なる。いや、図版自体がほとんど存在しない。実物はこういうものか。
「……人間の医者というのは」ガラがようやく口を開いた。「みんな、こういうものか」
「さあ。私は私のことしかわかりません」
また沈黙。
ノアが廊下の端で、耳をぺたんと伏せ、尻尾の動きを止めてこちらを見ていた。
ガラが低く唸った。煙の色は変わっていない。白いまま。怒りではない。
「……薬だけ、もらえればいい」
「診察してからでないと処方できません」私はメモ帳をポケットに戻した。「どうぞ、中へ」
ガラが動かなかった。五秒、十秒。尻尾が一度、床を叩いた。
それから、ゆっくりと、中へ入ってきた。
その日の診察は一時間かかった。ガラは終始文句を言い続けたが、処置の間は大人しくしていた。帰り際、扉のところで立ち止まって、こちらを振り返った。
「また来るとは言っていない」
「はい」
ガラが去った。扉が閉まった。
ノアが「……先生、怖くなかったんですか」と聞いた。
「何がですか」
「何が、って。三メートルの竜族が目の前に」
私は処置台を片付けながら考えた。怖かったか。怖くはなかった。ただ、鱗の質感をもう少し詳しく調べたかった。触診のとき、炎症部位の周辺の鱗が微妙に色が違った。
「次も診せてもらえると助かります」
ノアがため息をついた。耳がまた横に倒れ、尻尾が小さく揺れた。
「……来ますよ。たぶん」
窓の外、霧がまだ濃かった。海は見えない。森も見えない。
——ここから、観察を始める。
◇診療日誌・第一日◇
患者名:ガラ
種族:竜族
推定年齢:不明
体長:三メートル超
外見:深緑の鱗・金斑あり・布を体に巻いた装い
性別:不明
症状:炎症あり/処置済み
備考:煙の色(白)=警戒か不審。尻尾の動き要観察。金斑分布、文献なし。次回継続確認。




