⒈和平条約
「リアナ、リアナ、おはようございます」
『今日はイチジクを収穫する日!』
「うぅ〜ん」
布団を引き剥がしたのは契約精霊のヴェリーことシルヴェリーヌ、その布団を畳んだのは両手に収まるサイズのスライムだ。
二人とも、当分の恨みにしてやりましょう、とリアナは口をへの字にした。
「スライムさん、ありがとうございます。小さいのに、上手に畳めるんですね〜」
皮肉混じりで、翡翠色のプニプニを褒める、が。
『えへ、どういたしまして!』
相手の知能が低かったようだ。
「私に礼はないのです? 布団だけを引き剥がすモダンな新技ですよ?」
もう一人の犯人は風で布団を飛ばしたらしい。
(素晴らしい魔力の無駄遣いですね。魔力を使えるなら頭に使うべきですよ、まったく)
リアナは水を汲むために外の井戸へ向かうことにした。勿論、ヴェリーの言葉は無言でスルーで、だ。
ドアを開けると、リアナはまず外の空気を胸いっぱいに吸い込む癖がある。最近は夏の爽やかな匂いが溶けていて素晴らしい、と考えていたら恨みを忘れた。さて、井戸で水をたくさん汲んだら、それの半分を使ってリアナは脳を覚醒させる。
具体的には、両手を器にして掬った水を、顔にかけるという行為だ。
要するに、洗顔だね。
残りの半分の水を持って家に戻る。これは朝食の分だ。台所に立ったリアナは、詠唱をして付けた、小さな火に井戸水をかける。流れるような手つきで、ただし水は流れないように。それが沸騰するまでの時間を使って、パンにレタスやら、トマトやら、ハムやら、チーズやら、を挟む。作る数は三個。丁度、水がポコポコと音を立て始めたので、再び詠唱をして、火を消す。これで、コーヒーを淹れるのだ。
この間、僅か五分。我ながら効率的、とリアナはコクコク頷く。サンドウィッチを麻の籠に入れて右手で、コーヒーを左手で持って、再び外に出た。サンドウィッチは、リアナのは二つ、もう一つは、
「レッサーボアさん、御飯ですよ」
『あぁ、どうも……イテテテテ』
そう、一昨日いつものように狩りをしていたら、足を怪我をしたレッサーボアと遭遇したのだ。突進型の魔物にとって歩けないのは致命傷。助ける以外の選択肢はリアナにはなかったので、今はゆっくり休んでもらっている。少しずつ動かせるようになってきていて、回復が早くて凄いなと密かに思っている。
ちなみに、この森の掟の一部分に、〈互いに依存しないこと〉というものがある。自分の力で生きていかないといけない、つまり可愛い子には旅をさせよ、の信念で。じゃあリアナが助けた行為は掟に背くことになるのか? 彼女の主観的な判断だが、それは違うと思う。生物が力を貸すのは、自然の摂理に従っていることだから。弱っているものを助けることに、非はないから。故に、リアナはこの掟を、〈本能が傷つけられていないものは、自立して生きること〉だと解釈している。そもそも、自立と孤独は全くの別物なのだ。まぁ、目の前にいるレッサーボアの怪我が足以外の部分だったり、なんなら元気一杯だったりしたら、話はまた別、ね。
というわけで、負傷中のレッサーボアを眺めながらの食事も終えて、リアナは半分寝ている重い腰を上げて、散歩のためにヴェリーを呼びに行った。否、行こうと思った。呼びに行こうと決意して踵を返したら、既に彼女は佇んでいた。
「うわぁ!」
「イチジクでございますよ」
「え、っと?」
「スライムさん曰く『リアナとイチジクを摘む! 約束守らなかったら、もう一生プニプニさせないからね!』だそうです」
あ、それは耐えられないです、と即座に思った。なにせ、数々のスライムの中で、彼が一番触り心地がいいのだから。
そして、リアナは約束を破ろうとしていたわけではなかったのだ。ただ、忘れていただけなのだ。
「すぐ行きましょう。ヴェリー、スライムさんを呼んできて下さい」
「了解致しました」
最後の"た"を言い終わるや否や、ヴェリーは風に乗り、瞬く間にスライムさんを抱えて戻ってきた。
『行こう! 行こう!』
リアナとヴェリーは大きめの籠を背負い、スライムさんには彼の体と同じ大きさになるハサミを持たせて、庭の少し奥の方に進んだ。
低い木に緑色の葉が揺れていて、中にポツポツと赤い実がなっている。いかにも美味しそうである。と、そこの一つに歩み寄ったとき、ヴェリーが唐突に口を開いた。
「お二方、離れて下さい」
『なんで?』
「今からイチジクを収穫するからでございます」
「それ、離れる必要ないですよね」
リアナが口を尖らせながら聞くと、ヴェリーは邪悪に笑った。なんて恐ろしい笑みなのだろう。
「あなた方は風に吹き飛ばされたいのですか?」
「……っ!」
リアナはこの言葉だけで、言いたいことを理解した。赤ん坊のときからの付き合いだ。言外に匂わせていることくらい分かる。
この馬鹿はイチジクを巻き上げようとしているのだ。
リアナははヴェリーが突風を起こして辺り一帯が荒地になっていく光景を想像してみた。足元には無惨に赤黒い果肉の破片が散らばり、木々も不自然に折れ曲がる様子を。
(いつか、同じようなことになった気がします……)
「駄目ですよ。ヴェリーの想像力には残念です」
ヴェリーは首を傾げて口を開こうとして、辞めた。それを見届けてから、リアナは高らかに宣言する。
「さぁ、誠実にイチジクを摘みましょう!」
一時間ほどでイチジクの収穫は終わった。
「たくさん採れましたね」
『うん!』
元気な返事をしてから、スライムさんがキョロキョロと回転した。ヴェリーが真似をしているつもりなのか、連続ターンを繰り出す。
『そろそろ群れに帰らないと!』
「そろそろ群れに帰らないとですね!」
口調まで真似したヴェリーがピタッと華麗にポーズを決めて、消えたと思ったら戻ってきた。
「そういうことなら、どうぞ」
ヴェリーが持ってきたのは小さな台車だった。それにイチジクを乗せて持ち帰りなさいということらしい。
(ヴェリーにしては気が利きますが……)
スライムさんにしては大きいから引き摺って歩くことさえ難しいのではないだろうか。
「リアナ、付与魔法を習得していましたよね。台車に風操魔法を付与して下さい」
(結局私に丸投げなんですね。責任感のない精霊です……)
リアナは心の中で愚痴を言いながらも、詠唱を始めた。
「効果持続時間は三十分、終了後はただの台車ですが、適当に置いていて良いです」
『ありがとう! 楽しかったよ〜!』
スライムさんは小さな体でも動かしやすくなった台車をゴトゴト引いて、森の中に入っていった。途中、イチジクを一つ落としたが、それを体を張って元通りにすると、また進んだ。
スライムさんを見届けたヴェリーがリアナの前に立って、口を開く。
「さて、次は何をしますか? 狩りにでも行きましょうか」
「今日はジャムパンを作る約束でしたよね」
リアナが思い切り口を尖らせると、ヴェリーは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。目が笑っていないせいで、ものすごく恐ろしい。
「肉パンも作れば良いだけの話です」
ガサ、ガサ。
最初の物音を聞きつけたのは、猟銃などを装備して出発してからおよそ十分後であった。リアナは素早く屈んで茂みに身を隠し、息を殺す。ヴェリーは変わらない無表情で呆けている。相変わらず、気持ちの読めない顔だ。リアナが戦闘体制に入っても、いつも立っているのだ。食事という概念がない精霊達は、狩りの仕方がいまいち分かっていない。ヴェリーも、何年も一緒にいるおかげで人間の真似が上手くはなったものの、人間の感情や挙動を理解したわけではないのだ。だからイチジクを吹き飛ばそうとする……。
リアナがヴェリーを横目で見ながらそんなことを考えていると、また葉擦れがした。
ガサッ、ガサッ。
リアナは音を立てないように、慎重に猟銃を構えた。
カチャッという弾の音がして、銃口が下された。
「は?」
リアナが口を丸くさせたのも当然だろう。
先程噂に上がっていたどこぞの上位精霊が猟銃を奪ったのである。そして、その奪った猟銃でリアナの口を押さえたのである。
「?」
「相手はゴブリン、ただでさえ魔力がみなぎっているこの森で故意的に魔力を摂取すると人間は耐え切れなくなってしまいますので撃つのはおやめなさい」
どこか遠くを見つめながらの棒読みで言われた。
でも、ヴェリーが言っていることは正しい。このドラノアイの森は土地に魔力が染み込んでいるため、魔物が多い。しかし、人間が魔力を吸収しすぎると少々危険なことになってしまうのだ。
「教えてくれてありがとうございます。他を当たりましょうか」
何年も前に契約した二人は、どちらからともなく頷き合った。それなりに気が合っていることがよく伝わる。
タッタッタ。
小動物が走る音は、すぐに聞こえてきた。リアナは今度こそ、と思って片目を瞑って猟銃を構える。
カチャッ。
またもや、長い指によって、それは下ろされた。隣に立つ精霊が口角を最大限まで上げる。
「また、魔物ですか?」
確認のために、リアナは顔を上げた。
「いいえ」
予想と正反対の回答、にリアナはたっぷり五秒フリーズした。
「はぁ?」
「人間の驚いた顔を観察したかった故、実験台になって貰いました次第です」
(なんだか私が可哀想になってきました……)
「はぁ。って、もうやめて下さいよ?」
ヴェリーからの返事は、遂に返ってこなかった。
バサバサバサ。
次に聞き取った音は、鳥の羽音だった。音の大きさからして、魔物ではないだろう。リアナはヴェリーに、邪魔しないで下さいよという目配せをしてから、猟銃を構えた。
リアナの手元に向かって風が吹いて、猟銃がクルクルと巻き上がった。
それに驚いて、鳥が飛び去る。
「あのさぁ?」
ヴェリーが口元を抑えてクスクスと笑った。
「リアナのビックリした顔、可愛いです」
褒められた。
「今、一番に狩るべきは貴女だと分かりました」
「そうですか。では私は風で弾き返しますので、ご覚悟のほど、よろしくお願いします」
リアナとヴェリーは十秒間睨み合った。
「和平条約を結びましょう」
流石に気まずかったのでリアナが口を開く。
「え〜? 戦いたかったです……」
ヴェリーが口を尖らせた。無論、リアナの真似である。
リアナが健康的に焼けた小指を突き出す。ヴェリーは渋々といった感じで自らの白い指を巻き付ける。
「約束、です」
「約束、しました」
二人は厳かに微笑み合った。
誤解のないように言うが、猟銃の話である。
その後、二人は仲良く協力して一頭の鹿を手に入れた。
元々はとても少なかったので、足しました。今度は長くなりすぎたかもしれません。ここに、質問コーナーを掲載する予定です。質問がある方、なんでもどうぞ〜!