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7 開かれざる記録



下層区の片隅、地下ドックの静寂を破るのは、天井から滴る水の音と、カイ自身の荒い呼吸だけだった。

 彼は手のひらにある黒い水晶のユニットを、ただじっと見つめていた。「プロジェクト・アマリリス」――その言葉が、自身の過去に繋がる呪いだと理解してしまった今、この小さな物体は鉄屑の山よりも重く感じられた。


 後戻りはできない。カイは意を決し、ユニットを自身の作業用ターミナルに接続した。モニターに無機質な接続完了のメッセージが浮かぶ。

 ファイル構造は単純に見えた。「Playback Log: 01」という一つのデータがあるだけだ。だが、アクセスしようとすると、瞬時に画面が赤い警告で埋め尽くされた。


[ACCESS DENIED: MILITARY GRADE ENCRYPTION LAYER 7]

[WARNING: FURTHER ATTEMPTS MAY TRIGGER DATA PURGE PROTOCOL]


「……化け物かよ」


 カイが悪態をつく。軍事レベルの暗号化。しかも、無理にこじ開けようとすればデータが消去されるトラップ付き。下層区の闇市場で手に入るような、ありあわせの解読ソフトでは歯が立つ相手ではない。自力でのアクセスは不可能だと、すぐに悟った。


 では、どうする?

 カイはドックの中を苛立たしげに歩き回る。誰かに頼るか? ギャングのハッカーか? いや、奴らは中身を見た瞬間に裏切る。他の情報屋か? どいつもこいつも信用ならない。

 思考の袋小路の末、カイの脳裏に浮かんだのは、あの皮肉屋で強欲な男の顔だった。

 情報屋「ネズ」。

 あの男も信用できないことに変わりはない。だが、奴は純粋なビジネスで動く。感情や忠誠心といった不確定な要素がない分、金の切れ目さえ間違えなければ、まだ予測可能だ。


 カイは再びあの公共ターミナルへ向かい、ネズに通信を送った。


『またお前か。今度は何の用だ』

『解読を頼みたいデータがある。軍事用の特殊な暗号だ』


 チャットウィンドウの向こうで、ネズの目の色が変わったのが分かった。


『……面白い冗談だ。そんなものに関われば、俺の命も危うい。だが』

『……だが?』

『リスクに見合う「誠意」を見せるなら、話は別だ。俺の専門じゃない。最高の腕を持つ専門家プロに繋いでやる。ただし、報酬は奴と俺、両方に払ってもらう。お前が手に入れる情報の「中身」の、純粋な価値の30%だ』

『ふざけるな。中身も分からないのに約束できるか』

『なら諦めるんだな。そのお宝を、墓まで持っていくといい』


 交渉の余地はなかった。カイは唇を噛み、短く了承の意を伝えた。

 ネズから指定されたのは、下層区でも特に危険な「錆びた鉄管通路」の最深部にある、旧時代のサーバールームだった。


 約束の時間、カイがサーバールームに足を踏み入れると、そこには無数のケーブルに囲まれ、ホログラムのキーボードを叩く小柄な人影があった。顔はゴーグルで隠され、性別も年齢も分からない。


「……ネズの紹介だ。ブツはこれだ」


 カイが黒いユニットを差し出すと、その人物――専門家は一言も発さずに受け取り、自身のコンソールに接続した。

 目の前の巨大なモニターに、凄まじい速度でコードの滝が流れ始める。幾重にもかけられた暗号の壁が、一つ、また一つと破壊されていくのが見えた。


「……面白い。こんなセキュリティは初めて見る」

 初めて発せられたのは、合成音声のような、平坦な声だった。

「上層区の軍が使っているものより、さらに古い……だが、遥かに複雑だ。まるで、一個人の天才が作り上げた迷宮……」


 長い沈黙の後、専門家は動きを止めた。


「……終わった。トラップも解除済みだ。データはお前のその端末に転送した。報酬はネズに払え」


 専門家はそれだけ言うと、再び自分の世界に戻ってしまった。

 カイの携帯端末に、一つのファイルが受信されている。彼はゴクリと唾を飲み込み、再生アイコンをタップした。


 ノイズが走り、画面が明滅する。

 映し出されたのは、下層区の薄暗い景色とは無縁の、真っ白な研究室だった。窓の外には、どこまでも青い空が広がっている。

 そして、カメラに向かって、一人の女性が優しく微笑みかけた。白衣をまとった、見覚えのないはずの女性。

 だが、カイはその顔を見た瞬間、呼吸が止まった。

 脳裏をよぎった温かい光、甘い香り。あの感覚の残響が、目の前の女性の姿と重なる。


 彼女が、ゆっくりと口を開いた。

 その声は、カイが忘れていたはずの、記憶の奥底で微かに響いていた声そのものだった。


「――再生ログ、01。私の名前は、エリアナ・セレスティア……」


 周囲の音が、急速に意味を失っていく。サーバーの駆動音も、天井から滴る水の音も、何もかもが遠い。カイの世界には、モニターに映る女性の顔と、頭蓋に響くその声だけが存在していた。

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