6 残響とアマリリス
廃工場から漏れ出る火災の光を背に、カイは鉄と硝煙の匂いを引きずりながら闇へと逃げ込んでいた。
右腕はだらりと垂れ下がり、脚部からは断続的に火花が散る。HUDはダメージレポートと警告を絶え間なく表示し、耳障りなアラート音が鳴り響いていた。
《警告:生命維持機能に異常。即時、活動を停止し、機体から離脱してください》
「……黙ってろ」
カイは悪態をつき、アラートを強制的にオフにする。
「調停者」……男はそう呼んでいたが、連中の赤い目が脳裏に焼き付いて離れない。
なぜ、彼らを庇うような真似をしたのか。自問しても、答えは出なかった。
このままでは、遠からず機体は完全に沈黙する。修理には、まず敵を知るのと同じように、己の機体の正確な情報が必要だった。カイは損傷した機体を引きずり、下層区でも特に混沌とした闇市場「ガラクタ横丁」の深部にある、旧式の公共ターミナルへと向かった。
フードを目深にかぶり、彼は匿名のチャットウィンドウを開く。相手は、下層区の情報屋「ネズ」。
『……来たか。派手にやったらしいな』
『相変わらず情報が早いな。欲しいものがある』
『お前が拾った鉄クズ……軍の旧式モデル「レクス7」シリーズの設計図だろ。足元を見るなと言いたいところだが、お気の毒様。出回ってるデータは少ない上に、どれも不完全だ』
『あるだけでいい。払いはいつもの場所に置く』
カイはスカベンジで手に入れた高純度のメモリチップ数枚の識別コードを送信した。すぐに、ネズから暗号化されたデータパッケージが送られてくる。案の定、ノイズ混じりの不鮮明なデータだったが、今はこれで十分だった。
. . .
数十分後、カイは下層区のさらに深部、汚染された運河の底に沈むようにして隠された、巨大な防水ハッチの前にたどり着いた。ここが彼の唯一の家であり、隠れ家だ。
重いゲートをこじ開け、機体を格納庫へと滑り込ませる。そこは、かつての地下鉄のメンテナンスドックを改造した、だだっ広い空間だった。天井からは水が滴り、壁際に無数に積まれたジャンクパーツの山が、孤独な影を落としている。
外部ジェネレーターに機体を接続しギアの動力を落とす。プシュー、という音と共にコックピットが開き、カイはよろめくように外へ出た。
汗とオイルにまみれた身体で、彼は損傷した「レクス7」を見上げる。装甲は抉れ、関節部は熱で癒着しかけていた。
「……めちゃくちゃやりやがって」
休む間もなく、カイは先ほど手に入れた「レクス7」の設計図をモニターに映し出し、目の前の機体と照らし合わせ始めた。
「……なんだこれは」
設計図上、胸部装甲の内側には予備電源に繋がる区画があるはずなのに、実物の装甲には継ぎ目一つ見当たらない。不審に思い表面をくまなく調べていくと、指先にわずかな段差を感知した。巧みに隠された、緊急用のメンテナンスパネルだ。
カイは工具を差し込み、固くロックされたパネルをこじ開けた。
そこにあったのは、見慣れたケーブルや基板ではなかった。
指先ほどの大きさの、黒い水晶のようなメモリユニット。それは、このギアのどの回路にも接続されず、ただそこに「隠されている」だけのように見えた。
《未確認のデバイスを検出。システムリストに該当なし》
カイがその黒いユニットに触れた瞬間、ギアのメインモニターに、ノイズと共に一つの文字列が浮かび上がった。
Project Amaryllis - Playback Log: 01
文字はすぐに消え、モニターは沈黙に戻る。
だが、カイはその単語に釘付けになっていた。「アマリリス」。
なぜ、その名前を知っている? 下層区には咲かない、上層区の富の象徴。知識としては知っていてもいい。だが、違う。この胸のざわめきは、ただの知識に対するものではない。
――― あたたかい光。甘い花の香り。誰かの優しい声が、その名前を呼んでいた気がする。
一瞬、脳裏をよぎったのは、映像にすらならない、ただの感覚の残響。物心ついた時からずっと一人だったはずの自分の中に、決してあるはずのない温かい記憶の欠片。
その感覚に心が揺らぎかけた瞬間、カイの生存本能が警鐘を鳴らした。感傷は、下層区では死に直結する贅沢品だ。カイは頭を振り、胸に生まれたばかりの小さな灯火を、自ら踏み消した。今は目の前の現実を生き残ることだけを考えろ。
これが、あの男が欲しがったものか。
これが、調停者たちが現れた理由か。
この鉄屑は、ただの旧式ギアではなかった。誰かが、何かを隠すために利用した、「金庫」だったのか。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。
偶然拾ったはずの希望は、いつの間にか、逃れることのできない呪いへ、そして、自身の失われた過去へと繋がる、唯一の扉へと姿を変えていた。
カイは黒いユニットを強く握りしめる。もはや後戻りはできない。
この謎を解き明かすか、それとも全てに追われ、喰われるか。
下層区の片隅で、カイの孤独な戦いは、本当の意味で今、始まろうとしていた。