52 鋼の記憶
――来い、アステル。
その声は、耳ではなく、脳髄に直接響いた。
懐かしく、温かい。だが同時に、底知れない悲しみを帯びた声。
カイの意識は、光の速度で情報の海を突き進み、その「深淵」へとたどり着いた。
そこは、以前見た真っ白な世界だった。
だが、今回は違う。カイには、この世界を視るための新しい目と、情報の奔流に耐えるための強靭な神経がある。
ノイズが晴れ、景色が鮮明になる。
白い研究室。
その中央には、拘束具で固定された、むき出しの動力炉があった。
そして、その周りを取り囲む、白衣の人間たち。彼らは無機質な目でコアを見下ろし、冷徹にデータを取っている。
『被検体A、精神接続を開始』
『コア共振率上昇……危険域へ突入』
『構わん。出力を上げろ。限界を計測する』
――痛い。やめてくれ。
カイの脳内に、悲鳴が響く。それは、自分の声ではなかった。
この機体に無理やり接続させられた、かつてのパイロット――「被検体A」の絶叫だ。
恐怖。苦痛。孤独。人間への憎悪。
パイロットの負の感情が、逆流してコアに流れ込み、純粋だった機械の魂をどす黒く塗りつぶしていく。
(……これが、お前の『傷』か)
カイは理解した。
この機体は、人間を憎んでいるのではない。人間に怯えているのだ。
また、あの痛みを味わわされるのではないか。また、使い捨てにされるのではないか。
その恐怖が、拒絶の壁となって、カイを弾き飛ばそうとする。
以前のカイなら、力ずくでねじ伏せようとして、弾き返されていただろう。
だが、今の彼は違う。
カイは、シミュレーター訓練で培った技術を、精神世界で発動させた。
――消えること。
殺気も、支配欲も、焦りも、全てを消し去る。
彼は、ただの透明な意識となり、怯える獣の魂に、そっと寄り添った。
(……怖がるな。俺は、あいつらじゃない)
カイは、心の中で語りかけた。
自分もまた、世界に捨てられ、孤独に生きてきたこと。
利用され、傷つけられる痛みを、知っていること。
言葉ではない。感情の波長を、獣のそれと「同調」させていく。
(俺たちは、似た者同士だ。……だから、力を貸してくれ。俺が、お前の痛みも、怒りも、全部背負ってやる)
その瞬間。
拒絶の嵐が、ふっと凪いだ。
真っ白な世界の中央に、一輪の深紅のアマリリスが咲く。
その花が、優しく揺れた気がした。
『……アステル……』
再び、あの声が響く。
直後、カイの全身を、温かい光が包み込んだ。
感覚が拡張する。
指先が、鋼鉄の爪になる感覚。皮膚が、分厚い装甲になる感覚。心臓が、無限のエネルギーを生み出す炉心と重なる感覚。
境界が消える。
人と、機械が、一つのシステムへと昇華される。
**********
「……おい、カイ! 応答しろ!」
現実世界。工房のコンソール前で、リアが叫んでいた。
モニターの数値が、異常な数値を叩き出している。だが、それは暴走ではない。
全てのグラフが、信じられないほど高いレベルで安定し、完璧なハーモニーを奏でていた。
「……シンクロ率、120%……? 馬鹿な、理論値を超えてる……」
リアが息を呑んで見守る中、クレードルに固定されたレクス7が、ゆっくりと動いた。
油圧の唸りも、モーターの駆動音もない。
まるで、眠りから覚めた巨人が、静かに身じろぎをするように。機体のカメラアイに、鮮烈な翠の光が灯る。
プシュー……。
コクピットハッチが開き、中からカイが顔を出した。
彼は、ひどく汗をかいていたが、その瞳は澄み切っていた。鼻血も出ていない。精神汚染の兆候は皆無だった。
「……どうだ、気分は」
リアが、恐る恐る尋ねる。
カイは、自分の手を見つめ、そして、愛機の装甲を優しく撫でた。
「……ああ。聞こえるよ、リア」
カイは、静かに微笑んだ。
「こいつの鼓動が、俺の脈と同じリズムで打っている」
再起動、成功。
下層区の地下深くで、最強の獣が、新たな「主」と共に産声を上げた瞬間だった。




