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レイン・リベリオン  作者: まくら
第二部 『主の資格』
49/55

48 人の皮

 セクターEの空気は、人工的な香水の匂いで満ちていた。

 上層区の直下に位置するこの区画は、管理者たちの享楽のために作られた、下層区唯一の「歓楽街」だ。道路は整備され、ホログラムの広告が踊り、身なりの良い人々が行き交う。

 だが、カイの目には、それら全てが薄ら寒い張りぼてにしか映らなかった。


 カイは、仕立ての良い黒いスーツに身を包み、会員制クラブ『ベルベット』の重厚な扉をくぐった。  リアが用意した偽造IDは、完璧に機能した。ボーイは慇懃(いんぎん)に頭を下げ、彼を奥へと案内する。


 店内は、重低音のビートと紫煙、そして高価な酒の匂いが充満していた。

 カイは、表情一つ変えずにフロアを見渡す。心臓は、不気味なほど静かだった。シミュレーターでの地獄のような反復練習が、彼の自律神経を完全に掌握していた。


『……ターゲット確認。奥のVIP席、中央の太った男だ』


 骨伝導イヤホンから、リアの声が響く。

 カイの視線が、一瞬だけそこを掠める。

 上質のスーツを着崩し、両脇にホステスを侍らせて下品な笑い声を上げている男。軍の非公式部隊と下層区を繋ぐ、連絡員(リエゾン)

 その背後には、屈強なボディガードが二人、鋭い眼光で周囲を警戒していた。


(……隙がないな)


 カイは、ウェイターからグラスを受け取ると、ターゲットの死角になる壁際の席に腰を下ろした。  今のカイは、風景の一部だ。殺気も、焦りもない。ただ酒を飲む、無害な客。

 ボディガードの視線がカイの上を通過する。認識されない。


 時間は、残酷なほどゆっくりと流れた。

 一時間。二時間。

 ターゲットは酒を煽り続け、顔を赤くして千鳥足になりかけている。

 そして、その時が来た。

 男がふらりと立ち上がり、よろめきながらトイレの方へと向かう。ボディガードの一人が付き従う。もう一人は席に残った。


『……行け』


 リアの短く冷たい命令。

 カイはグラスを置き、音もなく立ち上がった。


 トイレの入り口には、ボディガードが仁王立ちしていた。

 カイは、千鳥足の酔っ払いを装い、ボディガードに近づく。


「……あー、悪い。通してくれ……吐きそうだ……」


 演技。声のトーン、重心の崩し方、焦点の合わない目。全てが完璧な「酔っ払い」の皮。

 ボディガードは、鼻をつまむような仕草で、無警戒に道を空けた。


「チッ、汚すなよ」


 カイはよろめきながらその横を通り過ぎ――その瞬間、ボディガードの死角に入った。

 スイッチが切り替わる。

 酔っ払いの足取りが、音のない暗殺者のステップへと変貌する。

 カイの手刀が、正確無比な軌道で、ボディガードの頸動脈洞(けいどうみゃくどう)を打ち抜いた。

 声も上げず、巨体が崩れ落ちる。カイはそれを抱き留め、音もなく床に寝かせた。


 そのまま、個室へと向かう。

 ターゲットの男は、用を足し終え、洗面台の前で鼻歌交じりに髪を整えていた。

 カイは背後から近づく。鏡越しに、男と目が合った。


「あん? 誰だおま――」


 言葉は続かなかった。

 カイの左手が男の口を塞ぎ、右手が首筋の神経叢(しんけいそう)を圧迫する。

 もがく間もなく、男の白目が剥き出しになり、意識が断ち切られた。

 カイは気絶した男を支え、個室の中へと引きずり込む。


 あまりにも、呆気なかった。

 恐怖も、興奮も、罪悪感すらない。

 ただ「作業」を完了したという、事実だけがそこにあった。


 カイは男の懐を探り、目的の物を発見した。

 黒い、軍用規格の認証デバイス。これこそが、リアが求めた「鍵」だ。


『……確保したか』


「ああ。これから搬出する」


 カイの声は、自分でも驚くほど平坦だった。


 彼は、気絶した男に自分の上着をかけ、あたかも「泥酔した友人を介抱する」かのように肩を貸して、トイレを出た。

 倒れているボディガードには、酒のボトルを振りかけて偽装する。

 店を出る時も、誰もカイたちを怪しまなかった。


 路地裏の闇に紛れた瞬間、カイはふと、自分の手を見つめた。

 震えはなかった。

 人の形をした怪物が、そこにいた。


「……帰るぞ、リア」


 カイは、重くなった「荷物」を引きずり、下層区の闇へと消えていった

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