47 影を歩く
「……グッ、アアアアアアッ!!」
絶叫と共に、カイの身体がコクピットの中で痙攣した。
脳髄を直接焼かれるような、凄まじい激痛。
リアが予告した「最大負荷のペインパルス」だ。肉体的な損傷は一切ない。だが、神経に直接流し込まれる「痛みの信号」は、死の恐怖を脳に錯覚させるのに十分だった。
SIMULATION FAILED CAUSE OF DETECTION: HEART RATE INCREASE
意識が戻ると、カイは操縦席で嘔吐いていた。胃の中身はとうに空だ。出てくるのは酸っぱい胃液だけ。
スピーカーから、リアの声が降ってくる。
『……駄目だ。話にならん。お前の隠れ方は、ただの「怯えたネズミ」だ』
「……なんだと……!」
『物陰に隠れれば、視覚センサーは誤魔化せる。だが、今の監視ドローンは、熱源、振動、そして生体電位を複合的にスキャンしている。お前の心臓は早鐘を打ち、呼吸は乱れ、全身から「俺はここにいる」という恐怖の信号を垂れ流している』
リアの指摘は、残酷なほど的確だった。
スカベンジャーの隠密術は、あくまで「目視」から逃れるためのもの。だが、上層区のセンサー網の前では、壁の裏に隠れることなど、ガラス越しに隠れているのと変わらない。
『いいか、カイ。潜入とは、隠れることじゃない。……消えることだ』
「……消える?」
『風景の一部になれ。呼吸を制御し、心拍を落とし、殺気も、恐怖も、焦りも、全てを無にしろ。お前という存在が発する「ノイズ」を、環境音と同調させるんだ』
リアは、モニターに波形を表示させた。
『これは、レクス7との同調訓練にも繋がる。機械は、お前の心の揺らぎを敏感に察知して暴走する。……己の精神を完全に制御できなければ、敵のセンサーも、あの獣も、欺くことはできん』
カイは、脂汗をぬぐい、再び操縦桿を握った。
「……やってやる」
だが、理屈で分かっていても、身体は正直だった。
再開。即、失敗。激痛。 再開。三歩進んで、失敗。激痛。
何度、意識を焼かれたか分からない。
何度、胃液を吐き出したか分からない。
時間の感覚が消え、現実と仮想の境界が曖昧になるほど、カイは「死」と「再生」を繰り返した。
三日が過ぎ、一週間が過ぎた頃。
極限の疲労の中で、カイは不意にそれを掴んだ。
恐怖を押し殺すのではない。恐怖を消す。
感情を持つ人間であることを辞め、ただの現象になるような、冷たく、静かな感覚。
――そして、その時は来た。
仮想のセクターE。煌びやかなネオンと、清潔な街並み。
カイは、路地裏の闇に身を沈めた。
頭上を、高性能な警備ドローンが巡回している。センサーの赤い光が、カイの潜む場所を舐めるように通過する。
心臓が跳ねようとするのを、意志の力でねじ伏せる。
呼吸を、極限まで浅く、長くする。
俺は、人間じゃない。ここにある、ただの石だ。ゴミだ。空気だ。
ドローンのセンサーライトが、カイの身体を捉えた。
――来るか。
だが、赤い光は、そのままカイを素通りし、別の場所へと向かっていった。
認識されなかった。カイの生体反応が、周囲のノイズレベル以下まで低下していたからだ。
(……行ける)
カイは、影から影へ、水が流れるように移動を開始した。
角を曲がる兵士の背後を、足音一つ立てずにすり抜ける。
監視カメラの死角を、秒単位のタイミングで縫うように進む。
そこにいるのに、誰にも認識されない。まるで、世界から切り離された幽霊になったような感覚。
そして、ついに目標地点――仮想の連絡員が潜む、セーフハウスの扉の前へとたどり着いた。
カイは、音もなくドアのロックを解除し、中へと滑り込む。
背後から忍び寄り、連絡員の首筋に、ナイフを突きつけた。
SIMULATION COMPLETE
ポッドのハッチが開く。
カイは、深い海から浮上したように、大きく息を吸い込んだ。
激痛の記憶と、極限の集中力が、彼の精神を研ぎ澄ませていた。以前のような荒々しさは消え、今の彼には、触れれば切れるような、冷たく鋭い空気が纏わりついていた。
リアが、コーヒーの入ったマグカップを差し出した。
「……悪くない。ようやく、『人』の皮を被れるようになったな」
それは、彼女なりの最大の賛辞だった。
「準備はいいな、カイ。これより、訓練モードを終了する」
リアは、メインモニターに、本物のセクターEの地図を表示させた。
「間に合ったな。……ターゲットの連絡員は、毎週この曜日に、セクターEの歓楽街にある会員制クラブ『ベルベット』に現れる。逃せば、次は一週間後だ。今夜がヤマだ。……行って、『鍵』を奪い取ってこい」
カイは、マグカップの中身を一気に飲み干すと、静かに立ち上がった。
「……ああ。行ってくる」
その足取りは、もう音を立てていなかった。
魔女によって研ぎ澄まされた透明な刃が、今、下層区の闇へと放たれた。




