44 囮の覚悟
リアの姿が、地下へと続く暗いハッチの中へと消えていった。
ゴウ、と工房の内部隔壁が、彼女の脱出ルートを塞ぐように、ゆっくりと閉じていく。
一人、破壊された工房に残されたカイは、天井の大穴から降り注ぐ酸性雨の音を聞きながら、静かに、次なる敵の接近を待っていた。
彼は、リアから渡された小型の起爆装置を、強く握りしめた。
「お前の代わりは、また探せばいい」
あの魔女の、非情なまでの合理性。だが、カイの心は、不思議なほど凪いでいた。
犬として死ぬつもりはない。だが、この作戦は、今の自分にしかできない。
リアの「魂」の解析と、カイの「肉体」の再生作業。そして、この「陽動」。
それは、歪な契約で始まった二人が、互いの命運を預け合う、共同作業だった。
(……やるか)
カイは、工房の壁に張り付くようにして、上階へと続く予備のメンテナンスダクトに身を滑り込ませた。
リアから送られた座標データによれば、隠しドックは、工房の三層上。敵が待ち構える、まさに「罠」のど真ん中だ。
ダクトの中は、息が詰まるほどの暗闇だった。だが、カイは、シミュレーターで叩き込まれた戦術を反芻していた。
――敵の死角を突け。呼吸音すら殺せ。お前は兵士じゃない、獲物を狩る幽霊だ。
やがて、彼は隠しドックの床下を走る、予備のメンテナンスダクトにたどり着いた。
目的の座標は、頭上の通気口だ。
カイは、金属格子の隙間から、上のフロア――ドック内部を窺う。
息を呑んだ。
そこは、リアの傑作であるステルス輸送機が、静かに翼を休める格納庫だった。
だが、その光景は変質していた。機体の周囲には、カイが見たこともない、軍事用と思われる無数の赤いレーザーセンサーが、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
リアの仕掛けじゃない。敵が、この場所を完璧な罠に変えたのだ。
そして、そのセンサーの網の影に、最低でも八人の「番犬」たちが、息を殺して潜んでいるのが見えた。彼らの注意はすべて、工房からの正規の入り口に向けられている。
カイは、通気口の格子を音もなく外し、敵が待ち構えるフロアの、まさに真下にある暗い床下空間へと、音もなく降り立った。
ここからが、本番だ。
カイは、機体の真下を通り抜け、ドックの反対側にある、メインの動力ケーブルへと向かった。
敵の注意は、すべて、リアが逃げ込んでくるはずの工房からの入り口に集中している。カイがいる真下は、完全な死角だった。
カイは、動力ケーブルのカバーを外し、剥き出しになった端子に、リアから渡された起爆装置を接続した。
だが、カイは、それだけでは終わらなかった。
(……どうせ爆破するなら、ただの音だけじゃ、もったいない)
カイは、スカベンジャーとしての本能で、この「罠」を、より確実なものへと変える。
ドックの壁際にある、燃料の予備タンクへと這い寄る。そして、起爆装置から伸びた細いワイヤーを、そのタンクのバルブへと巻き付けた。
これで、ステルス機が爆発する瞬間、このタンクのバルブも吹き飛び、高純度の燃料が、ドック全体に撒き散らされる。
――逃げ場のない、火炎地獄の完成だ。
カイは、全ての仕掛けを終えると、リアに指示された「緊急脱出シュート」の、小さなハッチへと後退した。
そして、起爆装置のスイッチに、指をかける。
「……契約は、果たしたぜ、リア」
カイは、スイッチを押した。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ドックの中央で、ステルス輸送機が、凄まじい轟音と共に爆発四散した。
待ち構えていた「番犬」たちが、何が起きたのか理解する間もなく、爆風に吹き飛ばされる。
そして、カイの仕掛けた第二の罠が、作動した。
予備タンクから噴出した燃料が、爆発の炎に引火し、ドック全体が、灼熱の火柱に包まれた。
カイは、その熱風が背中に叩きつけられるのを感じながら、緊急脱出シュートの暗闇へと、その身を投じていた。
リアの工房が、炎上する音を背中で聞きながら、彼は、自らの手で、唯一の帰る場所を焼き払った。
あとは、リアが示した、未知の合流地点へとたどり着くだけだ。




