43 壊された巣
それは、絶望の淵から聞こえた、魔女の、反撃の狼煙だった。
だが、カイの心は、リアのその自信とは裏腹に、冷え切っていた。
彼は、天井に開いた大穴を見上げた。そこからは、セクターCと同じ、病的な黄色の空気が、酸性雨と共に工房へと流れ込んでいる。
「……作る、か」
カイが、吐き捨てるように言った。
「あんたは、この状況が分かってるのか? 奴らは、あんたの隠しドックの場所まで知っていた。この工房は、もう巣じゃない。ただの的だ。今この瞬間にも、第二陣が突入してきてもおかしくない」
「……分かってるさ」
リアは、黒焦げになったメインサーバーの残骸から、まだ使える部品を漁りながら、平然と答えた。
「だから、移動する」
「移動する? どこへ。それに、こいつはどうするんだ」
カイは、クレードルに固定されたままの、解体中のレクス7を指差した。
リアは、ようやく手を止めると、一枚のポータブル・データパッドを起動させた。
彼女がカイに見せたのは、あの「地獄のような素材リスト」だった。だが、その内容は、以前とは比較にならないほど、おびただしい数の項目で埋め尽されていた。
「奴らが奪っていった『共振性チタン合金』と『量子カスケード変調器』。あれは、完成品だ。……だがな、作るというのは、ゼロから生み出すということだ」
リアは、リストの先頭を指し示す。
「『イリジウム高密度結晶体』『第伍世代ニューラル・プロセッサ』『低温プラズマ触媒』……。これが、あの二つのパーツを作るために必要な、素材の一部だ」
カイの顔が、歪む。
セクターCで手に入れた合金が、どれほど奇跡的な発見だったか、彼は身をもって知っている。
彼は「イリジウム」が何かなんて知らない。だが、セクターCで、たった一つの合金を手に入れるために、あれほどの死闘を繰り広げたのだ。
それを作るために、この天文学的な量のリストにある、聞いたこともない素材を、もう一度集め直せというのか。
しかも、下層区中の敵から狙われている、この状況で。
「無理だ」
「無理じゃない。面倒になっただけだ」
リアは、データパッドをカイに押し付けた。
「そして、お前の言う通り、ここはもう使えん。……だがな、カイ。ネズミってのは、巣穴を一つしか掘らないと思うか?」
リアの口元が、再びあの残忍な笑みで吊り上がった
「この工房は、あたしの表の顔だ。高性能な機材を揃え、大掛かりな修理をするためのな。……だが、あたしの本当の研究室は、別の場所にある」
「……別の場所?」
「ああ。あたしが、上層区から逃げてきた時に、最初に作った、本当の巣だ。そこなら、上層区の連中も、まだ嗅ぎつけてはいないだろうさ」
リアは、工房の地下深くへと続く、隠されたメンテナンスハッチを指差した。
「問題は、レクス7だ。この機体を、あの化け物の心臓を、ここから運び出す必要がある。だが、敵はあたしのステルス機の場所を知った。もう、空からは動けん」
カイは、リアの意図を理解した。
「……地下を、行くのか」
「そうだ。幸い、この工房は、下層区の最下層を走る、旧時代の地下鉄網に直結している。だが、そこはどこのギルドも管理していない、本物の無法地帯だ。……何が潜んでいても、おかしくない」
リアは、レクス7の「魂の設計図」が入ったデータチップを、シミュレーターから抜き取り、厳重なケースに収めた。
「いいか、カイ。これがあたしたちの、最後の希望だ。あたしは、この『魂』と、解体したレクス7の主要パーツを、地下の貨物線で運ぶ」
彼女は、カイに一つの通信機と、パルスライフルを投げ渡した。
「お前は、別行動だ」
「は?」
「敵はあたしの『足』の場所を突き止めた。だが、奴らはまだ機体を破壊していない。なぜだと思う?」
カイは息を呑んだ。
「……俺たちを、そこで捕獲するつもりか」
「そうだ。あの隠しドックは、今や世界で一番危険な罠だ。奴らは、あたしが泣きながらそこに逃げ込むのを、今か今かと待ち構えている」
「……まさか、俺にそこへ行けと?」
「そのまさかだ。あたしが地下でレクス7を運び出す時間を稼ぐ。そのためには、奴らの目を、あたしじゃない何かに釘付けにしておく必要がある」
リアは、カイに小型の起爆装置を投げ渡した。
「お前は、隠しドックへ向かい、ステルス機を起動させろ。わざと派手に音を立て、奴らの注意を全て引きつけるんだ。そして――」
リアの目が、冷たく光った。
「――お前自身の手で、あたしの『足』を爆破しろ。それが、陽動の仕上げだ。……その後は、ドックの横にある緊急脱出シュートから地上へ脱出し、隠れ家で合流する」
それは、カイを「囮」として、使い捨てる作戦だった。
カイは、リアを睨みつけた。
リアは、その視線を平然と受け止める。
「……それが、最も合理的な判断だ。お前がここで死ねば、お前の『代わり』は、また探せばいい。だが、あの『魂』の代わりは、どこにもない」
カイは、数秒間、黙り込んだ。
そして、短く息を吐くと、パルスライフルを肩にかけた。
「……分かった。契約だからな」
彼の目には、もう絶望の色はなかった。
「……だが、勘違いするな。俺は、あんたの『犬』として死ぬつもりはない。必ず、合流場所で落ち合う」
「フン。好きにしろ」
リアは、カイに背を向け、地下へと続く暗いハッチの中へと、消えていった。
一人、破壊された工房に残されたカイは、天井の大穴から降り注ぐ酸性雨の音を聞きながら、静かに、次なる敵の接近を待っていた。




