36 己を殺す刃
カイは、再びシミュレーターポッドの中にいた。
肉体は、リアとの近接戦闘訓練で刻まれた無数の打撲で悲鳴を上げ、脳は、徹夜での暗記による極度の疲労を訴えている。
だが、彼の意識は、これまでにないほど研ぎ澄まされていた。
『訓練プログラム、レベルXを開始する』
無機質なアナウンス。
目の前に広がるのは、見慣れた上層区の仮想風景。
そして、その通りの向こう側に、一機のバトルギアが姿を現した。
――大破した、旧式のレクス7。
カイ自身の機体。そして、その動きは、カイがこのシミュレーターで最初に見せた、荒々しい獣のそれと寸分違わなかった。
(……今日の敵は、昨日までの俺、か)
リアが再現した、カイ自身の戦闘データ。
カイは操縦桿を握りしめ、モニターに映る、自分自身の「亡霊」と対峙した。
それは、リアが完璧に再現した、昨日までのカイ・レイン。生き残るためだけに牙を剥き、戦場を混沌に陥れる、野良犬の戦い方をする、過去の自分。
その亡霊を、今の自分が狩るのだ。
戦闘は、奇妙な静けさの中で始まった。
敵機は、即座にビルの影へと身を隠し、奇襲の機会を窺っている。カイ自身が、最も得意とする戦法だ。
以前のカイであれば、焦って索敵するか、あるいは同じように隠れて膠着状態に陥っていただろう。
だが、今のカイは違った。
彼は動かない。ただ、リアに叩き込まれた戦術と思考で、敵――つまり、過去の自分の思考を読んでいた。
(……あの位置から奇襲をかけるなら、最短ルートはあの路地裏。陽動をかけるとしたら、あの給水塔を破壊するはずだ)
思考と同時に、機体を動かす。
敵機が給水塔に銃口を向けた、まさにその瞬間。カイは、予測地点である路地裏の出口へと、最大出力で回り込んでいた。
「そこだ!」
背後を完全に取られた敵機が、驚くべき反応速度で反撃してくる。だが、その動きも、今のカイには手に取るように分かった。
それは、ただの勘ではない。昨日叩き込んだ、人体とバトルギアの急所マップ。その知識が、パイロットの思考と、機体の動きの「癖」を、完璧に予測させていた。
(……この体勢から反撃するなら、右腕の関節に最も負荷がかかる……!)
カイは、敵機のコックピットではなく、その右腕の第二関節アクチュエーターの、排熱スリットへと、正確にパルスライフルの弾丸を撃ち込んだ。
甲高い金属音と共に、敵機の右腕が、肘から先がだらりと垂れ下がる。
だが、過去の自分は怯まなかった。残された左腕で、近くのビルのがれきを掴み、カイへと投げつけてくる。
――生き残るためなら、何でも使う。それが、カイの戦い方だった。
「その手は、もう通用しない」
カイは冷静に瓦礫を回避すると、相手が体勢を崩した一瞬の隙を突き、その懐へと潜り込む。
そして、かつての自分であれば決して狙わなかったであろう、敵機の脚部の駆動系を、プラズマカッターで正確に焼き切った。
完全に動きを封じられた、過去の自分。
カイは、沈黙した敵機の頭頂部に、静かに銃口を突きつけた。
SIMULATION COMPLETE
初めて見る、勝利の文字。
コックピットのハッチが開くと、カイは汗一つかいていない自分に気づいた。
肉体的な疲労はない。だが、自分自身を、冷徹な計算だけで「作業」として破壊した行為は、カイの心に、これまで感じたことのない、奇妙な静けさと、わずかな寒気をもたらしていた。
リアが、腕を組んで待っていた。
「……よし」
彼女が、初めて、明確な肯定の言葉を口にした。
「基礎はできた。明日からは、それを応用する。――本物の獣と、『同調』する訓練だ」
リアの目は、工房の中央で、静かに眠るレクス7へと向けられていた。
カイは、仮想の戦場で殺したはずの「獣」よりも、遥かに巨大で、そして危険な本物の「獣」との対話を、覚悟するしかなかった。