35 刻み込まれる知識
リアが去った後も、カイはしばらくの間、床に転がったまま動けなかった。
データパッドから放たれる冷たい光が、無数の赤い点で埋め尽くされた、おぞましい人体図を照らし出している。神経の走行図、動脈の分岐、骨格の脆弱な箇所。それは、カイが今まで「人間」だと思っていたものを、ただ破壊可能な「部品」の集合体として描き出した、冒涜的な設計図だった。
(……これを、朝までに……)
全身を襲う、鉛のような疲労感。今すぐにでも意識を手放してしまいたかった。
だが、脳裏にリアの最後の言葉が蘇る。――『明日はお前が実験台だ』。
カイは、歯を食いしばり、痛む身体を無理やり起こした。
その夜、カイは眠らなかった。
工房の片隅、一つの作業灯だけを頼りに、彼はデータパッドの画面に食らいついた。
最初は、ただの記号の羅列にしか見えなかった。だが、彼はスカベンジャーだ。未知の機械の構造を、分解しながら理解していく作業には慣れている。彼は、人体という未知の機械を「解剖」するように、その構造を頭の中に叩き込んでいった。
眠気に襲われると、壁に頭を打ち付けて意識を覚醒させる。乾ききった喉に、ぬるい再生水を流し込む。
時間の感覚が、ゆっくりと麻痺していく。
工房の反対側で、リアはレクス7の動力パイプの解析を続けていた。
彼女は時折、カイの方へ、気付かれないように視線を送っていた。
その目は、ただの監視ではなかった。何かに憑かれたように、狂気的な集中力で知識を吸収しようとする少年の姿に、彼女は、かつて上層区で全てを捨てて研究に没頭していた、自分自身の若い頃の姿を、ほんの少しだけ、重ねて見ていたのかもしれない。
やがて、工房の照明が、ゆっくりと色を変え、擬似的な夜明けを告げた。
カイの目は、疲労で真っ赤に充血していた。
その前に、音もなくリアが立つ。彼女の手には、あの訓練用ナイフが握られていた。
「……時間だ」
カイは、覚悟を決めて立ち上がった。実験台になる、その時が来たのだと。
だが、リアは襲いかかってこなかった。
彼女は、ナイフの先端を、自身の左肩の、鎖骨のすぐ下へと、トン、と軽く当てた。
「ここだ。この皮膚から三センチ下には何がある」
問いは、あまりにも唐突で、無機質だった。
カイは、一瞬の沈黙の後、夜を徹して叩き込んだ知識を、口から紡ぎ出した。
「……鎖骨下動脈。その奥、肋骨の隙間に、腕神経叢。神経叢を破壊されれば、左腕一本が完全に機能停止する」
完璧な答えだった。
リアは、次に工房の壁に掛けてあった、量産型バトルギアの腕部パーツを指差した。
「あのギアの、第二関節アクチュエーター。外部装甲から、動力ケーブルを焼き切るための最短アクセスポイントはどこだ」
「……関節ユニットの真裏。装甲が一番薄い排熱スリットから、斜め45度の角度で刃を入れれば、ケーブルに届く」
リアは、ゆっくりとナイフを下ろした。
彼女の顔に、満足の色はなかった。ただ、それが当然であるかのような、冷たい無表情があるだけだった。
「上出来だ。……だが、知識は、使えなければただのガラクタだ」
彼女は、カイが昨夜まで入っていたシミュレーターポッドに、顎をしゃくった。
「シミュレーターを起動する。今日の敵は、昨日までのお前だ」
「どういう意味だ?」
「あたしが、お前の昨日の戦闘データを完全に再現した。お前自身の、汚い癖を、お前自身で狩り尽くせ」
リアは、カイに背を向けた。
「それができなければ、レクス7のコクピットに座る資格はない」