32 仮想の戦場
カイは、リアに促されるまま、工房の隅で埃をかぶっていた旧式のシミュレーターポッドの前に立っていた。
それは、下層区の闇市場でも滅多に見かけない、軍用の訓練機だった。外装は傷だらけで、所々がリアの手によって無理やり改造された跡が見える。
「……こんな鉄屑で、本当に訓練なんかできるのか」
「口答えか? 気に入らないなら、今すぐあの化け物と直接、対話してみるか? どちらが先に発狂するか、賭けてみてもいい」
リアの皮肉に、カイは黙ってポッドのハッチを開けた。
内部は、レクス7のコクピットを模してはいるが、遥かに狭く、無数のケーブルが剥き出しになっていた。シートに身を沈めると、後頭部に冷たい金属の感触があった。ニューラル・インターフェイス――人間の神経と機械を直接接続するための装置だ。
『準備はいいな。初回は感覚を掴むための、簡単な模擬戦だ。せいぜい、五分もてば上出来だろう』
外部スピーカーから、リアの感情のない声が響く。
カイが操縦桿を握ると同時に、ポッドのハッチが閉まり、視界が完全な暗闇に包まれた。
次の瞬間、世界が一変した。
カイの目の前には、どこまでも続く、青い空と白い雲が広がっていた。眼下には、上層区の、清潔で幾何学的な都市が広がる。彼が今まで、憎しみと共に見上げてきた、偽りの楽園の姿だった。
(……これが、シミュレーター……)
肌を撫でる風の感覚、操縦桿から伝わる機体の微かな振動。あまりにもリアルな感覚に、カイが戸惑っている暇はなかった。
HUDに、複数の敵性反応を示すマーカーが点灯する。
正面から迫ってくるのは、上層区の治安部隊が使う、ごく一般的な量産型バトルギア。その数は、六機。
『訓練プログラム、レベルCを開始する。ミッション、敵部隊の全滅。健闘を祈る』
無機質なアナウンスと共に、戦闘が始まった。
敵は、完璧な編隊を組み、教科書通りの陣形でカイに襲いかかってくる。
カイは、スカベンジャーとしての本能で、即座に反撃に移った。敵の弾道を予測し、建物の影に隠れ、死角から奇襲をかける。下層区で生き抜いてきた、彼の戦い方だ。
一機、また一機と、敵の装甲をパルスライフルが貫く。
(……いける!)
カイが勝利を確信しかけた、その時だった。
彼が撃墜したはずの敵機が、体勢を立て直し、背後から回り込んできた。シミュレーターの中の敵は、カイが今まで戦ってきた、恐怖を知る生身の人間ではなかった。痛みも、死の恐怖も感じない、ただプログラムに従ってカイを殺すことだけを目的とした、完璧な機械だった。
回避する間もなく、背中に凄まじい衝撃が走る。
視界が赤く染まり、警告音が鳴り響いた。カイは必死に機体を立て直そうとするが、残りの敵機は、その一瞬の隙を見逃さなかった。
四方八方から放たれたレーザーが、カイの機体を串刺しにする。
SIMULATION FAILED
無慈悲な文字と共に、カイの意識は、再び工房の薄暗いコックピットへと引き戻された。
全身は汗でぐっしょりと濡れ、心臓が激しく脈打っている。疲労感は、本物の戦闘の後と何ら変わりなかった。
ハッチが開き、リアが腕を組んでカイを見下ろしていた。
「……三分十五秒。まあ、予想通りだな」
その声には、何の感情もこもっていない。
「お前の戦い方は、ただの野良犬の喧嘩だ。生き残るためだけの、その場しのぎの小細工。……そんなもので、本物の兵士に勝てると思ったか?」
リアは、リセットボタンを叩いた。
「もう一度だ」
再び、ポッドのハッチが閉まる。
リアは、カイのその汚い癖が、完全に矯正されるまで、彼をこの仮想の戦場から出すつもりはなかった。