幕間 盤上の駒
カイとリアが工房の奥で、リアが告げた次なる地獄に備え始めた、まさにその時。
彼らが知らない場所で、世界の歯車は、カイという新たな軸を得て、ゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。
**********
上層区の地下深く、照明を落とした司令室に、ホログラムの報告書が浮かび上がっている。
セクターF-12で大破した、黒いカスタムギアの残骸。そして、それを引き起こした旧式機「レクス7」の戦闘データ。
「……意図的な構造物の崩落、か。面白い手を使う」
一人の士官が、冷たい声で呟いた。
「さらに、この残骸の座標を、セクターJのオークションで売り払った、と。我々の存在を公然と挑発する、見事な度胸だ」
部下の報告が続く。
「はっ。座標の売却先は、現在調査中。ですが、オークションで『量子カスケード変調器』を競り落としたのは、溶接横丁のメカニック、『リア』に雇われた少年との情報が入っています」
「……リア。あの『魔女』か」
士官は、忌々しげにその名を口にした。
「どちらにせよ、我々の『庭』を荒らしたネズミは、駆除せねばならん」
彼は、新たなバトルギアの設計図をモニターに表示させた。
それは、カイが戦った量産型のカスタムギアとは比較にならないほど、凶悪で、洗練されたフォルムをしていた。
「次の番犬を送れ。……今度は、首輪を付けて連れ帰れとな。閣下のご命令だ」
**********
上層区、最上層。雲を見下ろす、純白のオフィス。
仮面のディーラーが、膝をつき、部屋の主である影に向かって報告していた。
「……申し訳ありません。例の『変調器』、確保に失敗いたしました」
『構わん』
影からの声は、男とも女とも、老人とも若者ともつかない、奇妙に合成された声だった。
『むしろ、面白いことになった。競り勝ったのは、リアの差し金だそうだな』
「はっ。運び屋は、カイ・レインと名乗る下層区の少年です」
『カイ……レイン……』
影は、その名前を反芻するように繰り返した。
『いや、今はどうでもいい。それより、リアだ。……あのネズミが、まだ生きていたか。しかも、あの『遺産』の側に現れるとはな』
声には、侮蔑と、そしてわずかな愉悦が混じっていた。
『計画を変更する。変調器の回収は、一時中断だ』
「……と、おっしゃいますと?」
『あの魔女が、何をしようとしているのか。見極める必要がある。レクス7を再生させるつもりなら、好都合だ。我々が手を下すまでもなく、必要なパーツを揃えてくれるだろう。……泳がせておけ。最後に、全てを回収すればいい』
影は、窓の外に広がる、雲海の上の青空を見つめていた。
「全て、だ」
**********
どこでもなく、どこにでもある場所。
無数の情報が光の線となって飛び交う、データ空間。
いくつかの無機質な声が、観測結果を共有していた。
▶ SUBJECT: KAI RAIN // STATUS: ACTIVE. BASE OF OPERATIONS: WELDING ALLEY.
▶ SUBJECT: LIA // STATUS: ACTIVE. CONTACT WITH SUBJECT KAI RAIN CONFIRMED.
▶ ASSET: QUANTUM CASCADE MODULATOR // STATUS: ACQUIRED BY SUBJECTS.
▶ ASSET: RESONANT TITANIUM ALLOY // STATUS: ACQUIRED BY SUBJECTS.
▶ ANALYSIS: PROBABILITY OF REX-7 REACTIVATION... 78.4%. ESCALATING.
沈黙。
やがて、全ての声の主であるかのような、一つの威厳ある声が、結論を下した。
▶ CONTINUE OBSERVATION. INTERVENTION IS UNNECESSARY AT THIS PHASE.
▶ OUR TRIGGER IS, AND ALWAYS WILL BE, THE MOMENT THE WORLD'S 'ARBITRATION' COLLAPSES.
光の線は、再び静かな流れを取り戻す。
――観測は継続。現段階での介入は不要。世界の『調停』が崩れる、その瞬間にこそ、我々は引き金を引く。
盤上の駒は揃い、ゲームの幕は上がった。あとは、誰が最初の一手を間違えるか。
ただ、それだけを、彼らは待っていた。