23 地獄の羅針盤
崖からの最初の一歩は、カイのブーツを足首まで、結晶化した化学物質の砂に沈ませた。
鼻を突くアンモニアの匂いと、金属が腐食する酸っぱい匂いが混じり合い、防護服のフィルター越しにすら、カイの嗅覚を鈍らせる。眼下の毒の湖からは、不気味な熱気が陽炎のように立ち上っていた。
(……長居はできないな)
HUDの片隅には、防護服のフィルター耐久度を示すゲージが表示されている。残り時間は、約八時間。それまでに目的のブツを見つけ、ここを脱出しなければならない。
カイはまず、リアの作った『共振スキャナー』を頼りに、反応がありそうな方角を探すことにした。
そのためには、より高い場所が必要だった。彼は、巨大なビルほどの大きさがある、横倒しになった輸送船の残骸へと向かう。足場は脆く、一歩踏み出すごとに、いつ崩落してもおかしくない金属の悲鳴が響いた。
スカベンジャーとしての経験が、安全なルートを本能的に彼に教える。体重をかけるべき場所、避けるべき腐食箇所。それは、この地獄を生き抜くための、唯一の羅針盤だった。
輸送船の頂上、かつてブリッジだった場所にたどり着いたカイは、再びスキャナーを起動した。
数秒の沈黙の後、モニターに一本の微弱なシグナルが灯った。北東の方角。断続的で、今にも消えそうなほど弱い。だが、確かに「共振性チタン合金」の反応だった。
「……見つけた」
カイは安堵の息をつき、慎重に残骸から降りて、シグナルの示す方角へと向かい始めた。
道中、彼はこの土地の「住人」たちと遭遇した。
毒の湖から這い出てきた、アメーバ状の半透明な生物。そして、周囲の金属片を体に取り込み、擬態する、全長2メートルほどのサソリに似た機械生命体――スカベンジャーたちが「スクラップ・ストーカー」と呼ぶ厄介な捕食者だ。
カイは戦闘を避け、息を殺して彼らの縄張りを迂回する。スキャナーの反応は、徐々に強くなっていた。
やがて、彼は巨大なクレーターの縁にたどり着く。その中心部、粘度の高い、緑色の毒の沼に、巨大な船が半分沈んでいた。
それは、カイが見たこともない、異質なデザインの巨大な船だった。上層区の直線的な設計とはまるで違う、無数の砲塔と分厚い装甲。下層区に転がっているどんな鉄屑よりも、さらに古い時代のものだとカイは直感した。おそらく、戦うためだけに作られた「軍艦」と呼ばれる代物だろう。
スキャナーが、これまでで最も強い反応を示している。合金は、間違いなくあの船の中、おそらくは動力機関部だ。
カイは、船体へと続く、かろうじて沈んでいない残骸の道筋を見つけ出し、一歩を踏み出そうとした。
その時だった。
船体の、黒く開いた巨大な穴から、何かが這い出てきた。
それは、カイが道中で見かけたスクラップ・ストーカーだった。だが、大きさがまるで違う。体長は10メートルを超え、その巨体は、この軍艦の残骸そのものを巣にしているようだった。
巣の主は、カイの存在に気づいていない。だが、あの船に近づけば、必ず戦闘になる。
防護服のタイムリリミットが迫る中、カイは眼前の巨大な番人と、その奥に眠るお宝を、ヘルメットの中から静かに見据えていた。
リアの言った通り、タダで落ちてるような代物ではなかった。
この地獄の番人から、どうやって目的のブツを奪い取るか。カイの、本当の仕事が始まろうとしていた。