13 犬のしつけ
その日から、カイの生活は一変した。
リアの犬としての日々は、カイが下層区で経験してきたどんな仕事よりも過酷だった。夜明け前に叩き起こされ、工房の床にこびりついたオイルを特殊な溶剤で磨き上げ、夜にはリアが分解した巨大なギアパーツの整理と洗浄。食事は、リアが気が向いた時に投げてよこす、味のしない栄養バーだけ。睡眠時間は、許された作業台の下で取る、わずか数時間。
リアはカイに一切の質問を許さず、ただ黙々と命令をこなすことだけを要求した。それはカイの肉体だけでなく、精神を徹底的に削るためのしつけのようだった。
だが、カイは文句一つ言わずに、その全てを耐え抜いた。彼にとって、この苦痛は目的のための対価であり、何より、この工房はカイが初めて手に入れた、追手のいない場所だったからだ。
数日が過ぎた頃、リアはカイに新たな仕事を命じた。
「おい、犬。ちょっとしたお使いだ」
リアがモニターに表示したのは、下層区の中でも危険な「凍結区画」の地図だった。かつて巨大な冷凍倉庫があったエリアで、今は冷却システムが暴走し、一帯が極低温の氷で覆われているという。
「そこの第3倉庫に眠ってる、軍用の『極低温冷却ユニット』を取ってこい。そこを縄張りにしてる氷賊どもに解体される前に、な」
それは、ほとんど生還を期待しないような、無謀な命令だった。
カイは何も言わず、リアが渡した一枚のヒートジャケットと、旧式のパルスガンだけを手に、工房を出た。
凍結区画の入り口に立ったカイは、息を呑んだ。壁、地面、天井、視界に入る全てが、青白い永久氷に覆われている。自分の吐く息が瞬時に凍りつき、キラキラと舞い落ちた。ヒートジャケットがなければ、数分で凍死するだろう。
メイン通路を進むのは自殺行為だ。氷賊の縄張りは、正面から突っ切るほど甘くはない。カイは物陰に身を潜め、じっと気配を窺った。
やがて、氷の向こうから三人の人影が現れる。分厚い防寒服に身を包み、氷壁を滑るように移動する氷賊の斥候だ。カイは息を殺し、彼らが通り過ぎるのを待つ。
(正面がダメなら、別のルートを探すまでだ)
カイはスカベンジャーとしての経験から、こうした暴走した巨大施設には、必ず設計図にない「歪み」が生まれることを知っていた。彼は壁際を慎重に進みながら、懐から取り出した自作の小型サーマルスキャナーで、分厚い氷壁をスキャンし始めた。
モニターの映像は、ほとんどが極低温を示す真っ青な色だ。だが、カイは諦めずにスキャンを続けた。巨大な冷凍施設なら、必ずどこかに外部へと熱を逃がす排熱システムがあったはずだ。
そして、氷壁の一点に、ごくわずかながら周囲より温度の高い、緑色の反応を見つけ出した。
そこは、分厚い氷と雪に覆われ、見た目ではただの壁にしか見えない。だが、間違いなく旧時代のメンテナンス用の通気口が隠されている。正規のルートがダメなら、自分で作り出すまでだ。氷賊どもが決して気づかないであろうこの通気口を、カイは自分だけの隠し通路にすることに決めた。
カイはパルスガンの出力を最低に設定し、慎重に、音を立てないように少しずつ氷を溶かしていく。数十分かけて人が一人通れるだけの穴を開けると、彼は躊躇なくその暗いダクトへと身を滑り込ませた。
狭く、暗いダクトを抜けた先は、目的地の第3倉庫の内部だった。静寂に包まれた巨大な空間に、霜を被ったコンテナが無数に並んでいる。カイは目当てのユニットを手早く発見し、背負うと、再びダクトへと戻っていった。
そして、目当てのユニットを担いで工房に戻った時、リアは一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
「……フン。運のいい犬め」
それだけ言うと、リアはすぐに興味を失ったように、自分の作業へと戻っていった。
だが、その日から、カイに与えられる仕事が少しだけ変わった。
単純な力仕事だけでなく、リアが分解した機械の、簡単なパーツの再組み付けなどを任されるようになったのだ。それはリアなりの、カイの能力を認めた証なのかもしれなかった。
ある夜、カイが黙々と作業をこなしていると、リアがコンソールでレクス7の動力炉のデータに再び見入っていることに気づいた。彼女は、あのドローンでの偵察以来、毎晩のようにこのデータとにらめっこしていた。
「……ありえない。このエネルギー循環の仕組みは、あたしが上層区で見たどの理論とも違う……」
その独り言を聞き、カイは思わず口を開いていた。
「その動力炉、たぶん……自己修復する」
「あ? 犬が口答えするか?」
リアが睨みつける。だが、カイは続けた。
「崩落する前、機体はもっと損傷してた。でも、あんたの工房に来るまでの間、HUDの警告がいくつか……勝手に消えてたんだ」
その言葉に、リアはハッとしたようにデータを見返した。彼女の指が猛烈な勢いでコンソールを叩き、新たな解析を始める。
やがて、彼女は唸るように言った。
「……自己修復だと? まるで、生き物じゃないか……」
リアは初めて、カイを真正面から見た。その目はもはや犬を見る目ではなく、未知の情報を運んできた同業者を見る目に近かった。
そして、最初の取引から二週間が経った日のことだった。
リアは全ての作業を止め、工房の中央で腕を組んで立っていた。その背後には、この数日間、彼女が作り上げていた巨大なクレーンアームと、ウィンチを備えた、重装甲のサルベージ用マシンが鎮座していた。
リアは、工房の隅でオイルにまみれたカイを一瞥し、言った。
「準備運動は終わりだ、ガキ」
彼女は、カイに真新しいパイロット用の通信機を投げ渡す。
「お前の逸品を、迎えに行くぞ」