10 奈落の底で
軋む金属音と、全身を締め付ける圧迫感。途切れかけた意識の向こうで、数分前の光景がフラッシュバックする。
最後に見たのは、崩れ落ちる巨大な構造物と、それに巻き込まれる三体の「鉄の猟犬」のモノアイだった――。
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商業施設からの脱出には成功した。だが、損傷した脚部では、追跡を完全に振り切ることは不可能だった。カイは下層区を縦横に走る、巨大で古い多層構造のハイウェイ跡へと追い詰められていた。
上層には今も車両が走る正規のハイウェイ、そして中層と下層には、打ち捨てられた旧時代の道路が、まるで巨大な蛇の骨のように絡み合っている。カイがいたのは、その最下層だった。
『目標をセクターF-12、旧高速道路基部にて包囲完了!』
三体の猟犬が、退路を断つように前後からカイを挟み撃ちにする。開けた場所では、脚の壊れたレクス7はもはやただの的だ。
「くそっ……!」
絶体絶命。
だが、カイの目は敵機ではなく、頭上を覆う、幾重にも重なったコンクリートの塊――旧ハイウェイの裏側を捉えていた。無数の太い支柱が、何層もの道路の重量を、今にも崩れそうな危ういバランスで支えている。
刹那、カイの脳裏に、一つの無謀な賭けが閃いた。
――敵を倒すのではない。この「戦場」そのものを破壊する。
『何をする気だ!?』
カイは残されたエネルギーをスラスターに集中させ、敵に向かうのではなく、垂直に跳躍。最も太く、そして最も腐食の進んだ中央支柱に機体を張り付かせた。
そして、パルスライフルの銃口を、支柱の亀裂に押し当てて、トリガーを引いた。
けたたましい発砲音と共に、支柱のコンクリートが破砕され、内部の鉄骨が剥き出しになる。
猟犬たちが一斉にカイへと砲火を向ける。だが、遅い。
『馬鹿な!自爆する気か!?』
カイはさらに数発撃ち込み、支柱に致命的なダメージを与えると同時に、機体を切り離して真下へと落下した。
直後、凄まじい轟音と共に、中央支柱が自らの重さに耐えきれずに折れた。
バランスを失った上層の道路が、連鎖的に崩落を始める。カイは落下する瓦礫の雨の中、それらを盾にするように、さらに下層の暗闇へと落ちていく。
頭上では、逃げ場を失った猟犬たちが、崩れ落ちてくるコンクリートの濁流に飲み込まれていく断末魔が響いていた――。
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――そして今、カイの意識は再び、瓦礫の中の現在へと固定された。
カイの目に最初に映ったのは、完全な闇とHUDに表示されたおびただしい数の赤色のアラートだった。
《VITAL SIGN: UNSTABLE》
《LOCOMOTOR SYSTEM: OFFLINE》
《POWER: 3%... CRITICAL》
全身を襲う激しい痛みで、自分がまだ生きていることを知る。
あの無謀な賭け……文字通りの奈落の底へと落ちたカイは、かろうじて生き埋めになるのだけは免れていた。手動でハッチをこじ開け、よろめきながらコックピットから這い出る。
そこは、下層区のさらに下層。忘れ去られた、巨大な地下空洞だった。周囲には、無残に砕け散った鉄の猟犬たちの残骸が、墓標のように突き立っている。どうやら、あの無鉄砲な賭けで生き残ったのは自分だけのようだった。
そして、自らの相棒である「レクス7」の姿を見て、カイは絶句した。
左脚は完全に圧壊し、胸部装甲は大きく抉れ、内部のケーブルが剥き出しになっている。もはや鉄屑の塊だった。
絶望が、カイの心を支配しかける。
――ここまでか。
だが、ポケットにしまった端末に、エリアナから託されたログデータが入っていることを思い出す。彼女の顔が、声が、脳裏をよぎる。
カイは歯を食いしばり、思考を再起動させた。俺はどこへ向かうべきか。そうだ、目的地は変わらない。
セクターガンマ。
下層区の住民なら、その名を知らぬ者はいない。
街の北方を巨大な隔壁で覆い尽くす、上層区の巨大な廃棄・工業区画。
ジャンク漁りたちの間では、畏敬と侮蔑を込めてこう呼ばれている。――「神々の墓場」、と。
カイのようなスカベンジャーにとって、セクターガンマは下層区における北極星のような存在だった。下層区の地図は、意識するしないにかかわらず、常にセクターガンマを基準点として頭の中に描かれていた。
皮肉なものだ。
誰もが忌み嫌い、決して近づこうとしない絶望の地。
そこが、エリアナが示した、たった一つの希望への道標なのだから。
行かなければならない。だが、どうやって?
カイはレクス7の損傷を改めて診断する。結果は無情だった。主動力パイプは断裂、アクチュエーターは焼き付き、フレームそのものが歪んでいる。ここにあるジャンクパーツと、自分の腕だけでは再起不能。
カイの脳裏に、下層区の闇市場で囁かれる、あるメカニックの噂が浮かんだ。
どんな鉄屑でも蘇らせる腕を持つが、法外な報酬を要求し、気に入らない依頼は決して受けないという、偏屈な職人。カイもこれまで、関わるのを避けてきた相手だ。
だが、今はもう、その選択肢しかなかった。
カイはレクス7の中から、あの黒い水晶のユニットと、エリアナのログデータが入った端末だけを取り出す。そして、まるで眠る友に語りかけるように、動かなくなった機体に呟いた。
「……必ず、迎えに来る」
彼は痛む身体を引きずり、その場を後にした。
どれほどの時間が経ったか。カイは飢えと渇き、そして絶え間ない痛みに耐えながら、地下の古いメンテナンス通路や、忘れられた水道管の中を、ひたすら歩き続けた。丸一日近くが経過した頃、カイは無数の溶接の火花が闇を照らす一角、「溶接横丁」にたどり着いていた。
目指すワークショップは、その一番奥にあった。重々しいブラストドアに、錆びた歯車のマークが描かれているだけ。
カイは意を決し、ドアを叩いた。
ガコン、と重い音がして、ドアに付いた小さな監視窓のスリットが開く。
その暗い隙間から、油と猜疑心にまみれた、鋭い一対の瞳がカイを射抜いた。