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数千文字の物語

まほろばキッチン

 事故に遭った。いつも通り自分の昼食用と撮影用の食材を買いにスーパーに向かったら車に撥ねられたのだ。何だか大変な事故だった気がする。

 一人暮らし、配信サイトで簡単料理動画を投稿して暮らしていた。恋人やペットはいなかったとは言え、遠方に家族はいるし、何より三十にもならない内に死ぬとは思っていなかった。自分のチャンネルのことや、視聴者さんへの報告、残してきてしまった家族など……色々どうしようと思っていると、夢から覚めるみたいに目を開けていた。



 私がいたのは、誰もいないキッチンだった。

 事故に遭って起きたのなら、普通は病院にいる筈。けれどキッチン……。地獄でも天国でもないみたいだし、いつものワイシャツに焦茶のズボン。血も付いていないし、どこも痛くない。まだしっかりと死んだ訳ではないらしい私は、どこかへ迷い込んでしまったのだろうか。


 木を基調としたキッチンはオレンジ色の明るいライトに照らされ、バーのようなカウンターがある。そして広いシンクと調理台、コンロは五口と、とても料理がしやすそうだ。私の家は三口だけれど、ここで料理をしたらきっともっとやりやすいし楽しい。

 冷蔵庫を開けると、食材がぎっしり。棚にはあらゆる調味料や酒が入っていた。それから、食器棚にはオシャレな陶器の皿や簡素な木のボウルなんかも。


 わくわくして、静かにではあるがはしゃいでいたらお腹が空いた。……ような気がする。多分この体は本当の体ではないから、空腹も幻かもしれないけれど。


 冷蔵庫を開けてかぼちゃと玉ねぎを探す。スープにしたい。

 迷ったり悩んだりした時は温かいスープに限る。体が温まるし、割と作りやすいし、何より好きだ。動画のネタに困ったら取り敢えずスープにするくらい。

 ……そういえば、家の冷蔵庫に入れておいた料理達、腐るかなぁ。電気代とか、大丈夫かなぁ。いやいや、そういう困った時こそ好きなものを食べて落ち着けばいい。


 見つけたかぼちゃは、一人分のスープには少し多そうな大きさ。しかしまあいいかとそれを取り出して、色々近くの引き出しを開けてみる。

 まな板と包丁、鍋、それからミキサーを出しておこう。

 洗ったかぼちゃと玉ねぎを木のまな板で切る。トントンと音がして心地がいい。

 それらを鍋で炒めたら、ミキサーに入れた後また鍋に戻して……あとは何らかの乳を入れればいいかな。

 そうして冷蔵庫を開けドアポケットを見ると『何らかの乳』と書かれた何らかの乳の紙パックがあった。なんだこれは。賞味期限も生産者名も書いてない。本当に『何らかの乳』とだけ書いてある。

 怪しすぎるが、これしかないから仕方ない。さっきはもっと色々あった筈なんだけれど……。私の他に誰かいるのだろうか。いたずら?

 きょろとキッチンを見渡してみる。しかし二部屋分くらいのキッチンにはどこにも人の気配はない。


 気になりつつも、私は料理を再開した。

 『何らかの乳』のパックを開けてみる。牛乳でも豆乳でも、その他ナッツとかの乳の匂いでもない。けど、どことなくまろやかで使いやすそうな匂いだ。舐めてみたけれど、特に邪魔しそうな感じはない。濃すぎず薄すぎずで万能さを感じる。

 鍋の中に入れてみた。

 火を付ける。

 かぼちゃ色になっていくそれに塩を入れて、暫く経ったら完成。

 味見をしよう。

 ……うん、いいでしょう。後は盛り付けて……そうだ、折角綺麗なお皿が色々あるみたいだし使っちゃおうかな。家にも少しだけありはするけど、あまり種類はないし。


 戸棚を開けてみると、白い皿の縁に繊細な模様が入っているのを見つけた。すぐさま手に取る。

「一目惚れ……」

 レースみたいに綺麗だ。これにしよう。あ、それからパンもほしい。そこら辺の棚に入ってるといいんだけど。

 何だかとてもわくわくする。やっていることはいつもと変わらない筈なのに、場所が変わったからだろうか。いや、理由はそれだけじゃない。子どもの頃、料理を作る母の手伝いをして楽しかった時の記憶、実習で緊張しながらも楽しんでいた料理の記憶、初めて自分のお金で綺麗な食器を買った時の記憶……それらがフラッシュバックした。

 私、最近その気持ち、忘れてたなぁ。

 懐かしくなって、少し寂しくなった。どうして忘れてしまっていたんだろう。忙しくしていたからだろうか。それとも再生数に目が眩んでしまったからだろうか。……こんなに楽しいという気持ちを忘れてまで、私のしたいことはそれではなかった。


 カタンカタンと、続いている戸棚を開けて閉めてを繰り返していくと、あった。フランスパン。

 三センチ幅くらいに切ってからバターを塗って、トースターで焼く。

 こんな風に、ただ日常に、少しの幸せが舞い降りることが嬉しかったんだ。作ることそのものが。


 焼き上がったフランスパンを取り出して、パセリを乗せたかぼちゃスープの横に置く。これで完成だ。

「いただきます」

 とろりとしたスープをスプーンで掬って口に運ぶ。

 ……あぁ、あったかい。落ち着く。

 塩気のあるかぼちゃスープ、やっぱりこれが好きだ。

 パンも齧る。綺麗に焼けているし、バターも染みていて美味しい。

 お腹がゆっくりと満たされていく。

 私の体は今、現世でゆっくりと回復を待っているんだろう。それまではどっちにしろ起きられない。ここにいるのも悪くないだろう。


「ごちそうさまでした」

 さて、後片付けをしないと。


 お皿を洗い流しながらふと思う。

 そういえばここは結局どこなんだろう。私の体が死んでいないというのは何故か分かるし、そうなるとここはあの世ではない。あの世とこの世の狭間なんだろうか。

 不意に顔を上げると、目線の先にガラス製のおしゃれなドアが映った。外は夜なのだろうか、暗くて見えないけれど。……このドアは果たして初めからあっただろうか。なかったような気がする。私は気付いたらキッチンの中に立っていた訳だし。……そういえばここは内観も喫茶店みたいだな。いや、喫茶店なのかもしれない。迷った人の心を救う為の。

 そう思うと、こうして出会えたこのキッチンが、妙に愛しく思えた。

「……ねえ、君はいつからあるの?」

 何もいない空間に聞いてみる。返事はない。

 ここはいつ出来たんだろう。つい最近? それともずっと昔から? いや、それにしては随分と新しい感じのキッチンだけど。

「暫くここで、料理を作っていてもいい?」

 返答を待っていると、そ、と何かが私の手に重ねられた。見ると、シンクの横から生えてきた小さな手だった。突然だったけれど、私は意外と驚いていなかった。得体の知れない乳が冷蔵庫にあるくらいだし、そもそも今の私は半分死んでいるのだろうし、そういう霊体的なものが出てきてもおかしくはない。

 私の手の半分もないその淡い橙色の手は、ほんのりと優しい光を放っている。丸っこくて短い指がどこか可愛い。

 何故かその子の言いたいことが分かった。好きなだけいていいと言うのだ。一緒にお客さまをおもてなししよう、と。

「ありがとう。それなら喫茶店には名前を付けないとね。……ん?」

 「来て」と手が、天井にあるカウンターとの仕切りを客席側から指している。手を拭いて見にいくと

「まほろばキッチン……」

 そこのダークブラウンの木の壁に、橙色の優しい字でそう書いてあった。

「いい名前。初めからあった?」

 手は宙を扇いだ。どうやら、なかったらしい。君が考えたのかと聞くと、手は招き猫のような動きをする。基本は喋らないみたいだけれど、案外分かりやすく意思疎通ができる。

「お客さんが来るまでスイーツでも作っていようか?」

 それに招き猫をした手は、冷蔵庫の反対側の壁から生えたかと思うと、冷蔵庫のドアを開ける。ドアポケットの牛乳を指していた。……さっきはなかったのに。

「もしかして『何らかの乳』を作り出したのも君?」

 手は元気よく頷いた。思わず微笑んでしまう。きっと私の要望に応えてくれたんだろう。

「じゃあ今度はちゃんとした牛乳で……そうだな、牛乳寒でも作ろうか?」

 それを聞いて、手は私の腕にくるりと巻きつくと嬉しそうにした。


「よし、できた。後はメニュー表でも作れたらいいんだけど……」

 私が紙か何かを探してキッチンをうろついていると、手が激しく左右に揺れながら視界に突入してきた。

「メニューはいらないって?」

 聞くと、招き猫の動きをされた。どうやら、自由な注文方式がいいみたいだ。

「分かったよ。じゃあメニューはなしにしよう」

 手は先程のようにくるりと私の腕に巻きつく。これは可愛いくて癒されるな。

 私の体が回復するまでになるだろうけど、それまではこの子と一緒に、この喫茶店でやっていきたい。誰かの癒やしになれるような料理を作って。


 ――からん。


 入り口のベルが鳴って、顔を上げた。ドアの前に立ったずぶ濡れの女性と目が合う。

 初めてのお客様だ。

 大した服も着てはいないけれど……私は笑顔で、一歩前に出た。

「こんにちは。まほろばキッチンへようこそ。メニューはありませんが、何でも好きなものをお作りしますよ。ご注文はいかがなさいますか?」

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