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春の色、やはらかに、流れるままに

作者: さくらぎ舞

69歳と70歳。遠い29歳と30歳より、その差をあまり感じなくなった。今日、咲江は「70代」となった。一気に年を重ねたように感じると、1ヶ月早く生まれた友人が話していたが、咲江は、なぜか肩の力が抜ける感覚を覚えた。


「70かあ」

母が亡くなったときと同じ年齢になった。母の当時と比べると健康体のわが身を若いと感じることもできる。毎朝夕のラジオ体操は欠かさない。台所に立って自分ひとりのために、ぱぱっと料理もこなせる。風呂掃除も、床拭きもー毎日ではないが、二日に1度、わざわざ足腰、腕を大きく動かすようにして、身体が硬くなるのを先へ、先へと延ばしている。


しかし、59歳から60歳になったころと今とでは、顔も身体のシワも幾重にも重なってしまっている、だろう。自分の顔を記録にとっては眺める…なんてことを世の女性がしているとは思えない。娘や友人に撮ってもらった写真を送ってもらうことはあるが、それも一度見て終了。その写真もスマホに保存されているだろうけど、それを探すこともしない。探し当てれば、拡大して顔つやなんかを見てしまうだろうし、そんなことしたって何の得にもならないから、いっそのことすべて消してしまおうか、と何度も思った。でも、それも面倒くさいというか、ちょっと惜しい気もして、だったらということでそのままにしている。


「さて、と」

ぽつっと吐いて、鏡の前で髪を整える。短く切った髪は、水をパパっと付けて、櫛でとかせば、やわらかい咲江の髪は、いうことをきく。素直ともいえるし、意気地のない髪質は、咲江の性格とよく似ている。何かに流され、何かを言われても怒りもせず、ただ、ふふと笑みを浮かべるだけ。人生も、そんな感じ、だった。


思えば、結婚も仕事も、親から言われるがまま、流されるままに決め、子が生まれても、子が育つに任せるような、そんな暮らし方をしてきた。夫には面白味のない女だと思われていただろうか。今となっては、それを聞くこともできない。


夫の正平は、咲江が53歳のとき、あっけなくこの世を去った。会社で急に倒れて、そのまま逝ってしまった。心筋梗塞だった。あまりに急で咲江はしばらく泣けなかった。離れて暮らす一人娘の陽子は、そんな咲江を心配して「お母さん、泣いていいんだよ、ねえ、わかってる?」というのだが、泣こうにも泣けないのだ。


最初は葬儀やら親戚の世話やら、そういうことに気持ちが向いてしまって、泣くに泣けないのだろうと思っていた。でも、四十九日が終わっても、それ以上だっても、まったく涙が出ない。結局、好きでも嫌いでもなかったからだろう、とふと思ってみた。でも夫婦生活は比較的穏やかで、それなりに幸せも感じていたから、涙が出ない自分が不思議でならなかった。


いずれ訪れるかもしれない、立ち直れないくらい、外に出られないほどの哀しみが…、と思って、それを待っていたが、向うからは一向に訪れない。正平は「薄情なやっちゃなァ」と、いつものように、どこか遠くを見ながら小さく笑っているだろう。

あれから、17年。正平が生きていれば、74歳。お互い70代になって、二人であらためてお祝いでもしただろうかー。


咲江は、ぶるるるっと首を振って、考えないようにする。こんなこと考えたって、何にもならない。時間が急ぎ足でとうに過ぎてしまう、無駄だ。

鏡の前には、今、70歳になった咲江がいる。顔を近づければ、ほうれい線はより濃く刻まれ、眉間のしわは、毎朝人さし指と中指で広げるようにしているけど、少しは薄くなっただろうか。

娘の陽子にすすめられて、豆乳イソフラボン入りのアンチエイジングクリームとやらを一日2回塗るようにしている。今まで有名ブランドのクリームなんかにも数回、挑戦したことがあったが、一向にシワは改善されず、乾燥肌はそのままだった。夕方になると顔が乾燥するから、クリームを塗り直したり、敏感肌用のスプレーを拭き散らしたりして、「ああ、きもちぃ」と自分で言ってみる。最終的に皮膚たちは諦めるのか、重力に逆らえず口角あたりで、何かをぶら下げてるような、そんな感覚を覚えて、咲江はやっぱり「しょうがないわぁ」と小さな息を吐くのだった。


年相応の諦め方が肝心だ。咲江は誰から教わるうこともなく、そう思っていた。これでいい。自分で納得できれば、それでいい。


そうはいっても、だ。咲江は老け込まないように、なるべく一日1回は外出するようにしている。たった、往復2,30分の散歩を兼ねて、近くのスーパーに出かけるのだ。その際、薄く化粧するようにしている。以前はアイシャドウも付けていたが、最近それは外すようになった。目元のシワが二重になり、それでも足りないといったように、さらに膨らもうとしている瞼。アイシャドウを塗ると、余計に腫れぼったくなる。これ以上酷使しない方がいいだろうと思ってやめている。


化粧をしなくなったら、気持ちがかえって楽になった。眉毛だけは、ときおりダークブラウンのカラーを入れる。眉尻から、少しはみ出てしまうときもあるが、人差し指でぴぴっとぼかして馴染ませる。5分もしないうちに化粧は終わった。


咲江はもう一度、くしで髪を整え、鏡の前で、軽く笑ってみた。


春になったとはいえ、寒暖の差が激しく、今日は少しこさむったいからハイネックのカットソーを着よう。今まではグレーやブラック、ブラウンなど、どうってことのないベーシックなカラーを着ることが多かったが、60代も後半になって、陽子に言われた。


「お母さん、その色、やめたほうがいいよ。もっと明るめの色にしたら?気持ちも変わるよ。」

「あ、そう?」

年をとると頑固になるといわれるが、咲江は年をとっても、主張しない。自分軸がない、と陽子から言われるが、陽子は陽子で、自分の思うままに私をコーディネートできるから、かえってうれしいのだろう。


咲江は年に2回ほど、陽子から買い物に誘われる。そのとき母親の服選びを手伝ってくれる。咲江は特に物欲があるほうではなかったが、咲江や店員にすすめられるがまま試着すると、想像以上に雰囲気が変わるのを知った。女の子をもってよかったと、そのとき思ったものだ。


「今日は、この色だね」

化粧を終えた咲江は、去年の春に買った柔らかいイエローの服を取り出した。少し首元が高く縫製されているから、今日のような日にちょうどいい。どちらかといえば秋に合う色味だが、道端に咲き始めたタンポポと、仲良くなれそうだと、少し顔がほころんだ。


上着はリバーシブルの軽めのダウンジャケット、パンツは細かな千鳥格子、シューズは程よくクッション性のあるスニーカー。特別おしゃれなコーディネートではないだろう。無理しないのがいい。あまり目立つのを好まない咲江にとって、安心感のある服装が一番いい。


これにショルダーバックを斜め掛けしてでかけるのが、咲江のスタイル。玄関の鏡でわが恰好を確認するのは、咲江の苦手なシチュエーションだ。多分、横目で、見えるか見えないか、そのギリギリの目線で確認して、そのまま玄関のドアを開ける。


近ごろ外出するたびに(このドアを開けたら、もう二度とここに戻れないかもしれない)とふと思ってしまう。でも、咲江はあまり怖くない。


「それも、人生」

どこか、遠い国の言葉にあるように、咲江はいずれ訪れるだろう、陽子との別れを控えめに受け入れている。


これも、人生。正平がよく言った言葉だ。仕事が大変で自宅でポロッと弱音を吐いたとき、思うように体が動かなくなったとき、誰かが一足先に亡くなってしまったとき、陽子が学校で赤点を取ったとき、私が財布を落としてしまったとき、数えればきりがない。そのたびに、正平は決まって、この言葉を発した。


そんな正平が、陽子に先を越されて、その言葉を伝えられたことがある。陽子は、つき合っていた人と結婚するかしないか、少し悩んでいた時期があった。


「何を迷ってるの、彼がそういってくれるなら」


咲江はめずらしく、陽子に自分の思いをさりげなく伝えた。

「でもね、お母さん、結婚すると自由がしぼんじゃうでしょ?」


正直、咲江は返答に困った。正平がその場にいる。そこで、「そうねえ」と答えてもいいのかどうか、迷った。困っている咲江の気持ちを察したのかどうか、わからない。正平は母と娘の会話にコトバを挟もうとした。


「そ、」

「それも、人生、でしょ?お父さん」


陽子は正平の最初の文字と音を見事に重ね、やんわりと続けた。人生という言葉が空気に程よく溶け、心地よい余韻となる。


正平は、ふっと息をもらし、浅く頷いた。目尻のシワがきゅうっと上に跳ね上がるように見えたが、それだけ嬉しかったのだろう。その一言、陽子自身が発したひと言から、咲江は娘が結婚に向かうんだろうと確信した。


咲江は、スーパーに行く、たった12,3分の道のりを、こうした過去やら将来やら、脳裏に蘇ったり、なぜか向うから押し寄せたりする妄想に浸るのが好きだ。過去や未来を案じるのは、これまでもこれからも咲江にはないだろう。とにかく自然に訪れる感情にはあまり逆らわないようにしている。それが咲江なのだ。

ふと、後ろに誰かがいる、少し早歩きの人が、咲江を同じ道をたどっていることに気づいた。あまり失礼にないように、ゆっくり振り返ると、50代前半だろうか、パーカー姿にジャケットを羽織った女性が咲江のすぐ後に歩いている。


咲江は思わず会釈をしてしまった。初めて目にする女性ではなかったし、なぜか以前より近しい存在に思えたからだ。


それから咲江は少し道の隅に寄り、わざわざ「どうぞ」と声をかけることはしないが、若干早歩きの女性の行く手を遮らないよう道を譲った。その女性もまた、軽く会釈をし、静かなる歩き姿で咲江の前を通り過ぎていった。おそらく、再び会うだろうと咲江は思った。


この女性を見かけたのは、今日だけではない。数日前も、数週間前も、一ヶ月前も”会っていた”。同じスーパーに、同じような時間帯に訪れ、隣同士でセルフレジに並び、触れることはせずともすれ違う瞬間が幾度も訪れた。女性と咲江の間に起こる、止まるとも流されるとも分からぬ空気の移動が心地よく感じられた。


今日初めて、会釈をし合えたのは咲江にとって驚きだった。そして、道を譲ったとしても、行く先のスーパーで再び女性に会えるかと思うと、歩くスピードもいつもより速くなる。少し厚めのスニーカーが地面を蹴る瞬間も、その繰り返すリズムに咲江の心は躍った。


果たして、彼女はいつものことながら、野菜売り場で立ち止まっていた。野菜のなかでも、ネギやニラ、白菜、もやしが並んでいる、その場所で何やら迷っているようだ。咲江は自分のレジかごを彼女の身体に押し付けぬよう、人と人の間をそうっとくぐり抜けようとした。


しかし、目論見は外れ、左肩に誰かの右腕が当たり、「あ、すみません」といった声を放つ間もなく、今度は右手の、あの女性にぶつかってしまった。


女性がパッと振り向く。なんとなく咲江は決まりが悪かった。さっき道で会釈したし「あら、あなたなの」と女性に思われやしないかと気が気ではない。だが、50代のその女性は、先ほどの会釈よりもさらに柔らかく、そして笑顔も見せ、「あ、すみません」というのだ。


「いいえ、こちらこそ…」

咲江は「本来なら自分が先にいうべきところを本当に申し訳ない」と長々といってしまおうかと思った。なぜか、話したくなったのだ。自分から話そうと思ったことが意外だった。


「よく、会いますね。」

女性は笑顔でこう返した。あまりにも自然な感じで話しかけられたので、咲江は再び驚いた。

「え、えぇ、私もそう思っていたところです。」

「お近くですか?」

「ええ、12、3分のところです。」


そう答えて、はたと陽子の言葉を思い出した。陽子は一人暮らしの咲江を心配して、耳が痛くなるほど詐欺には気をつけて、と話す。「もしかしたら、この女性は自宅を聞いてー」と考え、「いや、まさかな」と思い直す。


女性は話を続けた。

「ふふ、私もです。いつも、なんていうか、丁寧に生活されてらっしゃる感じがして、その、佇まいが素敵だなあと思っていたんです、うまくいえないんですけど、すみません、急に。」

咲江はびっくりしたが、あまりにも自然な褒め言葉に心がぽうっと華やいだ。


「いえいえ、そんな、とくにこれってわけでもなく、ふつうに、そう普通に、です。とくに…」

慌ててしまって、返す言葉が見つからない。あっちこっちと言葉が飛んでしまう。

女性は、焦らなくても大丈夫ですよ、といわんばかりに優しい笑みを浮かべた。

「今日はこさむったいですよね。そんなときでも、ちょっとスーパーにと思ってきました。お話できて良かったです。」

咲江は思わず、

「ありがとう」

と返した。


本当は「私も話せてうれしいです」と答えられれば良かったのかもしれない。でも、なぜか「ありがとう」と言ってしまった。


その後、再び会釈をして、少し名残惜しい空気を背負いつつ、それぞれに買い物を続けた。咲江はとにかく、彼女の後ろを追わないように気をつけながら、必要なものを買い足した。レジでも重ならないようにするのが精いっぱいだった。


咲江はセルフレジで、一人、あの女性との時間を思い起こしながら、買った物を袋に入れていく。その中には、地元の農家が作った菜の花があった。一人分の天ぷらにはちょうど良い量で100円。少し黄色が見える菜の花が、咲江の薄いイエローの服と相まって気持ちが自然にほころぶ。


これまで咲江は、特に大きな夢も希望も抱くことなく、ただ、流されるままに送ってきたかもしれない。でも、季節の変化や時間の流れには、咲江なりに心を配ってきたつもりだ。この春も、ついこの間とは違う光を感じた。柔らかくて暖かい陽光が、きらきらっと誕生した瞬間を感じ取れた。「ああ、春だ」と気づくとき、自分がまだ鈍っていないことがうれしかった。


「ただ、それでいい。それが、人生。」

多分、今日の出来事も、正平は見ていてくれるだろう。流されるままに、導かれるままに。咲江は、自分のままに生きていることに、わあっと叫びたくなった。声をこらして見上げた空は、いつも以上に青く澄みわたっていた。咲江にとって、宇宙はすぐそこに、手に取れる場所にある。こんなにも自分を包んでくれる世界があるのだから、このまま安心して進んでいこう。

咲江の表情がほころび、足取りは軽やかなステップとなる。

「幸せって、これよ、これ」

咲江の目尻から一筋の涙が、自然な流れをたどりながら静かにつたっていった。

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